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◆ 教育システムが阻害する想像力とイラク戦争(後編)
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●日本的金融制度の特殊性
ここから講演の後半に入ります。前半では、今日の教育問題が、わり算ができないとか漢字が書けないなどの学力低下の問題にではなく、イラク問題を報じるメディアをまともに受容できないというメディア・リテラシー問題にこそ象徴されているのだと話しました。
ところで僕は、近代の複雑な社会システムにおける緊要な課題は、メディアと金融の健全さだと考えています。メディアは、社会システムに情報とその元になる信頼を循環させる要だし、金融は、社会システムに貨幣とその元になる信頼を循環させる要です。
メディアが不健全なら、僕たちは共通の情報基盤の上で議論できなくなります。アポロが本当に月面着陸したのか、麻原彰晃は本当に実在するのか、分からなくなります。同じく金融が不健全なら、僕たちの社会を支える投資基盤が崩壊してしまいます。
今日の教育問題は、日本社会の金融システムが非常に特殊なもので、今日のさまざまな問題の元凶になっていることを、国民の多くが意識できないというところにも表れています。そこで、後半では、金融システムの話から始めることにしょす。
最近でも、りそな銀行に対する公的資金注入──とはいっても無償供与(贈与)ではなく株式買い上げ(投資)です──がいろいろ議論されています。これには複数の政策目標がありますが、最大の目的は中小企業経営者の救済による社会不安の沈静化です。
不良銀行を潰して債権整理をする場合、不良銀行から借金をしていた経営者は他の銀行に借り換えなければなりません。でも、不良銀行から借金をした当初に比べて経営環境は悪化し、銀行の審査も厳しくなっていて、借り換えは簡単じゃなく、多くは倒産します。
倒産すれば、例外なく個人保証に入っている中小企業経営者は、預金や債権や家や土地を巻き上げられ、路頭に迷うことでしょう。それどころか、倒産を防ぐべく、また個人保証分を補填して家族に迷惑をかけないように、保険金目当てで自殺する人も出てきます。
中小企業の倒産をめぐる波及効果は、計り知れないほど大きいんです。でも、ここで考えていただきたいことがある。なぜ波及効果がかくも大きいのかということです。他の国ではこれほど大きくないのに。理由は、日本の金融機関が、非常に特殊なものだからです。
どこが特殊なのでしょうか。今の話に直接関わる範囲でいえば、中小企業経営者が個人保証に入っている点が特殊です。会社の負債を、経営者個人が補填しなければいけない無限責任が特殊です。他の先進国は有限責任で、無限責任制度は反社会的だとされています。
では、なんでこんな反社会的な制度がまかり通っているのか。それを知るには、戦後の金融機関の歴史を振り返る必要があります。戦後の銀行は、敗戦直後から始まる傾斜生産方式を出発点としています。傾斜生産方式の言葉は教科書で見たことがあるでしょう。
●傾斜生産方式と護送船団方式
戦後は戦後復興が課題でした。でも資本と労働力が圧倒的に不足していた。だから資本と労働力を基幹産業に重点的に配分する必要がありました。労働力については、欧州が移民労働力を頼ったのに対して、日本は農村から都市に労働力を軒並み引っこ抜きました。
資本については傾斜生産方式です。まず、勝手に起債することを禁じ、企業が運転資金を得ようとすれば、銀行からお金を借りる以外にあり得ないようにしました。これを「間接金融制度」と言います。これだけでも国際的に非常に特殊なあり方です。
加えて、債権については国が全体の起債枠を決め、枠内で石炭産業と鉄鋼産業と電力その他一部の基幹産業に重点的に(=傾斜をつけて)配分しました。流通産業などは一切配分されませんでした。これが傾斜生産方式です。
間接金融制度も同じように機能しました。銀行を自由に設立できないようにして、数少ない銀行を国(大蔵省の役人)が徹底的にコントロールする。その枠内で大企業にお金が貸し付けられ、傘下の中小企業にお金が回るようにする。「護送船団方式」と言います。
傾斜生産方式も間接金融制度も護送船団方式も、他の先進国にはあり得ない制度です。非常に特殊です。この特殊さゆえに、日本の銀行は、諸外国の銀行と違って与信能力ありません。信用創造能力とも言いますけど、それがないわけです。
他国の銀行であれば、僕が会社を起こそうとすれば、どんなアイディアを持つのか、大量の書類を提出させて厳密に審査する。銀行で足りなければ、傘下のシンクタンクに分析させて、宮台という人間に金を貸す意味があるかどうかを評価させるわけです。
ローリスクならば融資するのは日本と同じですが、日本ではあり得ないのは、ハイリスク・ハイリターンであれば支店長決済で融資することです。もしその会社が成長著しければ、支店長はバイス・ブレジデントになる。これが銀行の世界標準システムです。
日本ではもともとアイディアに対してお金を貸してはいけないことになっていました。それが政府の政策でした。お金は既知の分野の既知の企業に傾斜的に配分されなければならず、例外はもともと資産のある奴にだけ貸す場合だけ。これが「土地担保主義」です。
こうしておけば、余計の分野の起業は抑制できます。アイディア勝負の新規参入業者は基本的には金を持っていませんから。あるのはアイディアだけという奴には資本も労働力も回さない。アイディア勝負の新規参入が可能なのは、既に成功して担保を持つ奴だけ。いずれにしても、銀行は一切のリスクを追わなくていいというやり方です。
●金融システムと記者クラブ制度の相似形
このシステムがもたなくなっていることはかなり前からわかっていました。しかし金融利権は七一年の田中角栄の登場まではもともと自民党保守本流。当然手を突っ込まない。田中角栄以降の、地方に金とコンクリをぶち込む図式も、護送船団方式をそのまま使いましたから、当然手を突っ込まない。それで回ってきたわけです。
構造改革という概念は行政にも財政にも使われますが、コアは産業構造改革です。国際競争力のない時代遅れの図体の大きい産業には退出してもらい、身軽でアイディア勝負の新規参入を促すということです。そういう観点で見ると、日本には実は銀行が存在しない。
日本にあるのは、競争力のない時代遅れの図体の大きな産業に、信用実績があるという理由で無担保融資する金貸屋と、アイディア勝負の身軽な新規参入者に、実績と担保がないという理由で無限責任で個人補償に入らせる金貸屋だけ。信用創造する契機は皆無です。
構造改革か景気回復かなどと不良債権の処理スキームばかり話していますが、いま申し上げたような本質的な議論はまったくなされていません。たぶん、みなさんもご存じないのではないかと思います。
この制度は昔からあったわけではありません。傾斜生産方式と護送船団方式は、別名「官製談合システム」とも言い、社会学者はこれを「世界最高の社会主義的システム」「市場を利用した社会主義のシステム」として、皮肉ではなく評価してきました。
戦時体制を除くとかつてはありえなかったことですが、役人が、資本と人の配分を全面的に決定し、役人の決めた枠内で各人が創意工夫して競争してくださいという、戦後復興に向けた非常に効率的な「市場社会主義」のシステムだったわけです。
それがあまりにもうまくいった。でも「失敗は成功のもと」の逆で、「成功は失敗のもと」。社会環境や経済環境が変われば今までのシステムでは通用しなくなり、新しいシステムが必要になったときに、新しいシステム構築に必要なリスクテイカーを支援できない。
官僚が根幹をコントロールし、国民に文句を言わせないという点では、戦後のメディア政策も金融政策も同じです。記者クラブ制度と護送船団方式は、抽象的に見た場合にアーキテクチャーが相似形です。
他の先進国ではあり得ないこうしたシステムが存在するのは、基本的に、日本型社会主義システムの貫徹が長らく成功を収めてきているからです。そこに巨大な権益がへばりついていて、新しい環境に対応してシステムを再構築しようにも、どうにもならないのです。
●成熟社会下における人材枯渇
国民にものを考えさせ過ぎてはいけない。ものを考えるのは基本的には役人で、役人が決めた大目標を効率的に遂行してもらうために国民がいる。そういう従順で勤勉で器用な国民を養成するために近代学校教育のシステムを機能させる。
日本の戦後復興、ひいては明治維新以降の近代化は、こうした戦略によって進められてきました。従順さ・勤勉さ・器用さは「与えられた課題を一斉に素早く達成する度合」によって計られ、そこに向けた訓練がなされてきました。
従順さ・勤勉さ、器用さは兵隊さんに求められるものと同じです。兵隊さんには更に勇敢さが加わるけれど。そこで、軍事教練のプログラムを流用する形で「号令一下、規律正しく集合的身体行動をとる」ための訓練が反復されてきました。それが、一斉カリキュラムや一斉体育に象徴される、いまでは日本独特の学校教育です。
いまでは、と言いましたが、こうした近代学校教育は、もともとは日本以外の後発近代化国や旧連合国の一部でも採用されていました。すなわち、第二次産業中心の富国強兵段階の──近代過渡期の──近代国家は、基本的にこういうシステムをとるのです。
しかし、こうした国々でも近代過渡期が終わりました。第三次産業中心のグローバリゼーション段階の──近代成熟期の──近代国家では、役人が物事を決め、思考停止的な国民が従順についていくのでは、国際的に生き残れなくなりました。
経済のみならず、政治も同じです。システムが複雑になり、中央が一手に決定を掌握するのでは、決定キャパシティが不足し始めます。企業システムなら、末端まで小回りの利く創意工夫が必要になり、行政システムなら、地方分権化やNPO(非営利組織)化が必要になります。
このことは、近代過渡期に続く近代成熟期──成熟社会──にとって、どんな学校教育システムが要求されるのかを既に示しています。周りが何を言おうが従来の制度がどうあろうが、思考停止に陷らずに自力で考えてそれをコミュニケートする国民が必要なのです。
そこで、日本以外の先進各国は、近代成熟期を迎えた七〇年代に、教育システムの抜本的改革を進めました。従順な工場労働者や思考停止の小役人を養成する時代は終わったというわけです。社会の変化にともない、学校に対する要求も変化してきたという自覚です。
それなのに、日本だけが社会の変化に反応せず、従順な工場労働者や思考停止型の小役人を養成するタイプの教育を、今に至るまで続けてきているわけです。かくして政治家にも役人にも経済人にも、成熟社会を生き残るのに必要な人材が枯渇する状態になりました。
●なぜ今エリート教育が必要か
世代的人材分布を考えれば、今後二、三十年間は、人材の枯渇に苦しむことが、既にはっきりしています。僕がいろいろな場所で「エリート教育が非常に重要だ」と言っている意味も、そこからわかっていただけると思うんです。
これから訪れる「空白の三十年」を短縮するのは難しいです。二十年前には既に教育システムを変えた先進国に比べて大きなハンデがあるのに、他国の国民に勝る「思考停止に陥らない国民」を育てなければいけないからです。
メディア・リテラシーで言えば、メディア・リテラシーを持つ国民を育てるには時間がかかります。どうしても代替わりを待たなければいけない部分があります。代替わりには時間がかかります。
ならばせめて、上級官僚になる人間の政策立案能力や、メディア発信者側に回る人間の情報発信能力を上昇させる必要があります。それがなければ、代替わりによる変化さえ望めなくなります。それが僕なりのエリート教育論の根拠です。
エリートについてもう一つつけ加えます。日本でエリートっていうとどんな人物が想像されますか。せいぜい官僚エリートか財界エリートではないでしょうか。でも、そういう先進国は日本だけなのです。
ところが日本以外の先進国では、ガバメント(政府)セクターや、エスタブリッシュメント(体制)セクターのエリートとは別に、もう一つのエリートが存在します。それが、市民エリートというポジションです。
市民エリートとは、NGO(非政府組織)やNPOのリーダーのことです。アメリカでは、ハーバード大やMIT(マサチューセッツ工科大学)を首席で卒業した奴が、政府セクターに行くのか市民セクターに行くのかが毎年話題になります。
アメリカにはポリティカル・アポインティー制度、すなわち政権交替にともなって指定職以上の大規模な人事異動が行われる猟官制があります。このため、政府セクターにいる人間が政権交代で市民セクターに移動し、NPOやNGOのリーダーになったりする。
アメリカに限らず、日本以外の先進国では普通にあることです。イギリスは議員内閣制ですが、日本とは違ってポリティカル・アポインティーが機能しています。だから同じようなことが起こるようになっています。
難しいことを言っていると思われるかもしれないけど、簡単なことです。例えば、変な法律を通そうとしている政治家や役人がいるとします。そのときに「おかしいだろ、その法律は。こう直せ」と、瞬時に言える能力がある連中がいないとダメだってことです。
日本にはそういう人がいますか。何かというと「絶対反対!」を叫んで国会周辺でデモをする思考停止的な左翼は溢れています。でもそれで政策を動かせますか。議員も役人も「きょうは道が混んでるね。えっ、デモなの?忙しいのに困ったな」といった調子です。
「絶対反対」にはたいてい実りがありません。「条件付き反対」=「条件付き賛成」でなければ有効な政策変更はできません。「絶対反対」を言うと、反対勢力は少数ですから、無修正で原案が通ります。むしろロビイングして、法案を逐条的に変えてもらうのがいい。
●出会い系サイト規制法案の例
たとえば出会い系サイト規制法案。出会い系サイトで少女が犯罪に巻き込まれる例が増えているので、ちゃんと法律を作れと世論が盛り上がってきた。 そこで警察庁が「そういう世論があるので、がんばって法案をつくりました」と法案を出してきました。
僕たちは「警察庁が作った法律?国家権力の横暴は許さーん!」じゃなく、まず法案をじっくり読まなければなりません。さて、グーッと読んでみると、これがもう、とんでもない法律なんです(笑)。
日本の場合は政治家の立法能力はほぼゼロで、実際に法律を作っているのは役人です。役人の習性なんですが、彼らは「本能的」に自分が所属する省庁の権益が最大化するように法案を作る。だから、皆さんが法案を読み込む場合のチェックポイントはそこです。
分かりやすく用語を変えますが、法案に「出会い系サイトを規制する」と書いてある。では出会い系サイトではないものが存在するのか。普通の電子掲示板に「宮台真司ですが、女子高生で援交してくれる人いますか?」と書き込んだとします(笑)。
別に名前は書かなくてもいい(笑)。メールアドレスや携帯番号を書いたとします。その瞬間にそのサイトは「出会い系サイト」となります。書き込み可能なサイトで、出会い系ではないものはあり得ない。そういうことが分かります。
このことは僕が衆議院の青少年問題特別委員会に出たときに言いました。今どきの政治家は大概ウェブサイト持っていて、電子掲示板もある。そこに「なりすまし」で「少女との出会いを求めます」と書込みされたら、そのサイトは一発で捜査対象になりうる。政治家さんの名前が書かれていたら、その人物も捜査対象になりうる。
僕が「それで困るのはあなた方自身じゃありませんか」と政治家さんたちに問いかけたら、みなさん「オー」って呻き声をあげるわけ(笑)。ところが、その程度で驚いてもらっちゃ困る。もっとすごいことがあるんだよ、と衆議院で申し上げました。
僕も反対運動に関わった盗聴法(通信傍受法)だすが、これまでに一度だけ運用されましたけど、それ以外に使われていません。法案段階ではあれほど大騒ぎしたのに、何で使われないのかなあ、とみなさんは不思議に思っているんじゃありませんか。
使われない理由は何か。使う必要がないからです。なぜか。じつは携帯帯電話の位置情報を使って捜査するだけで十分だからです。例のルーシーさん殺害事件とか北海道OL殺害事件も、これに基づいて捜査がなされ、裁判証拠となって容疑者が有罪になりました。
みなさんも携帯は持っていますね。その発着信記録は携帯電話プロバイダーに残っていますが、同時に位置情報も記録されています。何も通話しなくてもいい。僕が今こうして電源を入れているだけで一分間に一回以上、最寄りの基地局と位置情報を交換しています。警察が捜査令状をとれば、過去の位置情報はすべて筒抜け。
いや、それだけじゃないんです。警察は検証令状を取ることによって、過去とのみならず、未来の、たとえば宮台の今後一カ月の位置情報のすべてを把握できるようになっています。政治家さんたちに「知ってんですかぁ?」って聞いたら、またも「オー」(笑)。
恐ろしいことは、まだある。盗聴法では捜査が終わったら、盗聴した旨を一ヶ月以内に本人に報告することになっています。ところが携帯電話の位置情報は盗聴ではないので対象外。警察が位置情報を閲覧したことをみなさんに知るチャンスは基本的にありません。
第一に、出会い系サイト規制法があれば「なりすまし」で簡単に捜査対象にでき、第二に、捜査対象になれば携帯電話の位置情報を逐一警察に閲覧され、第三に、閲覧されたことの事後報告は一切ない。政治家のみなさん、本当に大丈夫なんですかぁ。オー(笑)。
繰り返しますが、出会い系サイト規制法案の対象は、みなさんが考えている出会い系サイトだけじゃありません。法案をよく読めばわかります。市民が運営する個人的なホームページも含め、すべてがサイバー・ポリスのウォッチ対象になります。
こうしたことを見抜いて「おかしい」と言っていくのが市民エリートです。さて誰か見抜いている人がいますか。青少年の人権が侵害されるかもしれないと言う人はいます。確かにそれも大切です。でも青少年だけじゃなく、みなさんの問題なんですよ。
役人は、省庁に入ったら丁稚奉公で法案作成の下働きをやらされ、十五年くらいすると一人前の法案が書けるようになります。一人前の法案とは、一般市民が読んでも意味がわかんないけど、自分たちが読めば「おー、そうそう」とわかる法案ってこと(笑)。
こうした法案に対抗するには、役人と同じくらい法律文章リテラシーを持たないとダメ。そうしないと役人のやることをチェックできない。衆議院の委員会で出会い系サイト規制法案の問題点をこうして逐一指摘しましたが、そのたびに議員は「オー」。居並ぶ警察庁の役人たちは「くそっ、だませると思ったのに。宮台、このやろー」みたいな(笑)。
●子どもの幸せもいいが、社会的要求に敏感たれ
ということで、市民エリートがいかに重要な存在かを、おわかりいただけましたか。みなさん、忙しいでしょう。役人が出してきた法案を眼光紙背に徹して読んで「なるへそ、意図は見えたぜ」と膝を叩くというのは、忙しいみなさんには、難しいことですよ。
だとすれば、みなさんの一部の方が、その作業を請け負わなければならない。市民の一部が特殊な訓練を受け、市民エリートになることで、官僚がカモフラージュやプリテンディング(偽り)に満ちた法案を出してきても、裏の意図や危険性を見抜けないとまずい。
先ほど日本を「官製談合システム」が覆うと言いました。ちょっと補足します。日本には国会があることになっています。国会は立法府です。しかし日本には事実上立法機関はありません。立法をするのは役人だけです。国会議員が立法することはありません。
日本では内閣提案の法案が九割。議員提案は残りの一割。でも国会法では三十人以上の議員が名を連ねないとダメ。しかも所属政党の承認がなければ提案でない。法律上の根拠はないんですが、申し合わせでそういう慣例になっていて、国会事務局が受け付けません。
そうすると結局、議員提案と言っても、すべてが党提案です。しかも、党提案と言っても、国会議員さんには法律を書く力がありませんから、実際にはお役人さんが書くことになります。
アメリカは下院上院にそれぞれ約二十人、四十人の政策秘書がいます。彼らは市民エリートだったり、前政権で法案形成に関わってきた元役人だったり。だから現役の役人と遜色ない法案形成能力がある。そういうスタッフがどんどん作るから、大半の法律は議員提案。
日本の場合、政策秘書はたった三人。しかもその大半は政策の勉強をしたことがない。選挙区回りをして後援会員を温泉旅行に連れていくのが仕事です(笑)。能力的にも時間的にも、どうして法案形成できるはずがありましょう。
こうして日本ではすべての法律が役人によって作られています。役人の作った法律の意味を国会議員は理解できません。みなさんも理解できません。訓練を受けてないのだから仕方ない。するともう役人のやりたい放題です。そういうことを踏まえての教育なんです。
自分の子どもが幸せになってほしいという気持ちはだれもが持っています。自分の子が幸せになるためにこういう教育システムだったらいいなあと思うこともあるでしょう。気持ちは僕もよくわかるし、そういう話をすることもあります。
しかし、そういう「自分の子の幸せ」を考えているうちに、役人がやりたい放題やって日本が沈めば、最終的にはみなさんも、みなさんのお子さんも幸せであり得なくなります。最近は公務員ブームだけど、子どもが役人になれても国が沈めば、幸せはたかが知れてる。
教育の問題を考えるときには、「自分の子どもが幸せになるにはどうしたらいいか」という直接的な個人の幸せとは別に、「社会が教育システムに要求しているさまざまな課題に、教育システムが応えているのかどうか」を見る必要があります。
そのためには、今の社会が、どんな問題を抱えるのかをつかまないといけません。社会からの教育に対する要求を知らずして、自分の子の幸せを望むだけでは、まったくトンチンカンな教育論議がなされてしまうことになります。まさに今がそうですね。
典型が愛国心問題です。愛国心問題については、僕も絶えずラジオ等にかり出されてしゃべっていますが、この問題を語るのは、実はとっても頭が痛いんです。でも、まあ仕方がないので(笑)触れておきます。
●愛国の本義とは何か
愛国心って何なんでしょうね。という話をする前に(笑)、まずは、愛国心を語るためにどうしても知っておかねばいけない知識があります。僕たちのいう国家は「国民国家」で、ネイション・ステイトの訳です。僕たちはまず、ネイションとステイトが違うことを知らなければいけません。
ステイトとは国家、ネイションは国民。言い換えると、ステイトとは機構であり、ネイションとは共同体です。機構は、三権分立でいう立法・行政・司法などのメカニズムみたいなもの。共同体のほうはアイデンティティの帰属先のことで、民族だったり、理念や歴史を共有する者の集まりだったりします。
中世の法共同体と比べるとわかりやすい。しきたりのある村ですね。そこでは機構と共同体がしきたりという形で一体化して、不可分です。ところが近代になると、先進近代化国では、機構(ステイト=国家)と共同体(ネイション=国民)が分化、「国民に奉仕するために国家がある」「国民が目的を達成するために国家がある」という発想が出て来る。
ところが、近代化に遅れたところは、国民という意識のないところに、支配層がまず機構としての国家を樹立して、国民意識を注入するという形をとります。その場合、「国家に奉仕するために国民がある」「国家が目的を達成するために国民がある」となりやすい。ご存じのように、前者を「連合国的」、後者を「枢軸国的」と言います。
言うまでもなく、ステイトも人間のつくったものだし、ネイションもいろいろな歴史的経緯や人為的工夫のもとで作り上げられてきた幻想です。それを前提にした上で、愛国心とは何かを考えなければなりません。
具体的には、「国を愛せ」とは、「機構としての国つまり統治権力を愛せ」ということなのか。それとも「自分の所属する国民の共同体を愛せ」ということなのか。いったいどちらなのかという問題があります。
また近代啓蒙思想の常識を知る人であれば、こういうことも知っているはずです。「もしステイト=統治権力が、自分たちのネーション=共同体の利益に反することをやるのなら、ステイト=統治権力を打ち倒してもかまわない」という思想です。
これはジョン・ロックの「革命権」と言いますが、実は、ネイション=国民のために、ステイト=国家を徹底して操縦しようという志、場合によっては革命をも辞さない志こそが、愛国心の本義なのです。
(1)自分たちのためになるように政府が機能しているかをウォッチし、(2)自分たちのためになるように政府をコントロールし、(3)コントロールできない政府を転覆する。これが「法の支配」「人権(政治からの自由)」「民主(政治への自由)」の三つを兼ね備えたリベラルデモクラシーの政治体制の意味するものです。
ところが、日本人の多くは、愛国というと「統治権力を愛せ」「統治権力に奉仕しないのは売国奴だ」という話になります。笑っちゃうよ。愛国の本義は「国民に奉仕する限りにおいて国家にコミットせよ」という価値観なんですから。
●「国粋」と「愛国」の違い
要は「国粋」と「愛国」は違う。「お国のために」と叫んで万歳突撃をすることが、日本人の子々孫々の幸せにつながりますか。国粋は必ずしも愛国の体をなさず。愛国の本義は、何が子々孫々の利益になるのかを思考停止に陥らずに計算せずして貫徹できません。
ところが日本は面白い国ですね。「いろいろ分析してみると作戦には実りがありません」「馬鹿野郎!貴様、帝国陸軍が負けるというのか!」(笑)。子々孫々の利益を増進するためのフィージビリティ・スタディをすると、非国民として糾弾されるわけ。
それだけじゃない。フィリピンはレイテ戦では兵隊の9割の8万人が死んだ。大半が餓死と病死。そうなることが事前に分かっていた。インパール作戦も同じ。でも「国民のために国家がある」のではなく「国家のために国民がある」。だから実りのない作戦でもいい。「一億総玉砕」。つまり国民が死に絶えても国家に栄光があるんだから(笑)。
繰り返すけど、日本ではいまだに「国家のために国民がある」と考える時代遅れの枢軸オタクが溢れています。この思考は「国民が死に絶えても保存される国家の利益(国益)があると見倣します。ここにいる若い人たちは「ありえない」と驚くかもしれないけど。
ちなみに、国益という言葉を出しました。愛国の本義においては、国益とは国民益のこと。国民が死に絶えても保存される国益があるなどとは考えません。ところが、国民益とは無関係な国家益があると考えてそれを国益と呼ぶ、頭の足りない輩が溢れています。
愛国心とは「国民益としての国益の増大に向けて、命がけで国家を操縦しようという志」です。だとすると、論理的にいって「国民益を計算する力のない輩には、愛国心を発揮できない」ことがわかります。ここが大切なポイントです。
慧眼なみなさんは、なぜ僕が今回、イラク攻撃問題にからめて教育を問題にするか、メディアリテラシー問題にからめて教育を問題にするか、それもエリート教育を問題にするのか、そろそろお分かりでしょう。
そう。その通りです。社会が教育に要求する最大の要件は、(1)国民益を計算する「能力」のある国民を養成し、(2)国民益のために国家を操縦する「動機」のある国民を養成することです。一言でいえば「国民益のための国家操縦」へと向けた「能力」「動機」の醸成。
以上を踏まえれば、ちまたで「愛国心の大切さを教えよ」と合唱されることの意義も評価できます。第一に、「国家のための国民」という発想があるのなら単なる馬鹿です。第二に、国民益の計算能力こそが全てのベースであるのを弁えないなら単なる馬鹿です。
そして、これが大切ですが、第三に、「国民に奉仕する国家に貢献せよ」と呼びかけりゃ「動機」を調達できると考えるのも単なる馬鹿です。近代の愛国心では、国家機構=ステイトへの貢献動機は、国民共同体=ナショナルなもの貢献動機を前提とするからです。
国民共同体=ナショナルなものとは何か。自分が入替え不可能、取替え不可能だと感じる、生活の事実性のことです。単なる便利さや快適さなら、日本でなくとも、アメリカでも得られます。そういう便益なら、アメリカでのほうが得られるということさえありうる。
しかし、たとえアメリカの国家機構からより多くの個人的便益を引き出しうるのだとしても、「この日本に留まりたい」「日本というナショナルを手放したくない」「ナショナル・ヘリティジに貢献するように日本国を操縦したい」と思えるかどうか。入替え可能な便益以上の「実り」をもたらすコミュニケーションが、そこにあるかということです。
●丸山真男を継承せよ
これは何も私が言い始めたことではなくて、太平洋戦争後に二等兵として復員した丸山眞男という政治学者が繰り返し言っていたことです。彼の主張を分かりやすくいえば、日本で右だ左だのと言ったって、どうせ思考停止の馬鹿なんだから無意味だということです。
右だ左だのというお題目はどうでもいいから、まず馬鹿を直そう。これが丸山の提案です。丸山は、戦争に負けたのも馬鹿だったからだと断言します。馬鹿でなければ総力を結集できて勝てた、と。丸山の主張は、復員してきた兵隊さんたちには身にしみたはずです。
戦時下、軍部では軍需物資の横流し、民間では配給物資の横流しが横行した。陸軍・海軍間ではセクショナリズムが横行した。双方での情報のやりとりはなく、各部隊の戦況情報も中央に正確に伝わらなかった。フィージビリティ・スタディも「帝国陸軍が負けるというのか!」と退けられた。あるいは退けられると思って、誰も異議を唱えなかった。
こういう馬鹿な事態がなければ勝てた戦争だという丸山の主張を「総力戦思想」と言います。こう言うと「日本人はすごかったんだ」という話をしたがる「つくる会」(「新しい歴史教科書をつくる会」)を思い出すかもしれませんが、まったく違う。
「本来は勝てたはずだという潜在力の大きさ」を言いたいのではなく、「それなのに馬鹿だから負けたのだから馬鹿を直せ」という所に力点があります。どう馬鹿を直せば戦争に負けない国民になれるのかを考えるのが「真の愛国」だというのです。馬鹿な「国粋」が「愛国」たりえなかったというのです。だから彼の愛国鼓舞は、普通の右と違います。
他方、丸山の「反省せよ」という主張は、普通の左とも違う。普通の左は「私たちは悪かった」と繰返す「反省猿」。丸山いわく、「悪かった」などという反省は百年早い。いいも悪いも判断できない馬鹿なんだから。あるいは、いいか悪いかが分かっても口に出来ずに諦める程度の馬鹿なんだから。ならば「馬鹿だった」「駄目だった」から始めよ、と。
丸山の批判は今でも通用しますよね。「国家のためよりも国民のためが重要だ」「なるほど、気持ちは分かるが、お前に国民益を計算する力があるんかい」。「悪いことをしてきたから良いことをしたい」「なるほど、気持ちは分かるが、お前に良いことを達成する戦略的能力があるんかい」。気概だけの思考停止野郎じゃ、どうにもなんねえぞ。
●憲法を「押しつけられる」だけの民度もなかった
別の例をあげてみます。日本人の戦後の反省は占領軍によって押しつけられたものだという考え方があります。これはまったくの大嘘です。似た話で、日本国憲法は合衆国から押しつけられたものだ、という人もいます。これもまったくの大嘘です。
最初はGHQが日本政府に憲法草案を出させたんですが、大日本帝国憲法とちっとも変わっていなかったんで、「あのなあ、新しい憲法を作れって言ったのに何も変わってないじゃん」「すいません」「わかった、俺たちがちょっと見本書いてやるから、参考にしてみろ」ってことで出てきたのがGHQの日本国憲法草案。
これを見た日本の憲法学者や役人は、オー(笑)。「これが近代憲法っちゅうもんか。すご過ぎる。文句なんか言えないよ。参りました」(笑)と、こうなったわけです。「なにかあれば、言ってみて」「しーん」。
かくして三十歳前後のニューディーラーが書いた草案が、そのまま日本国憲法になりましたとさ。これが歴史的な事実。押しつけねえ、なるほど(笑)。抵抗したのに押しつけられるほどの民度もなかったってのが、真相じゃないの? 悔しかったら民度を上げろよ。実際そう思っていたのが、丸山真男であり、お師匠筋の南原繁であり、竹内好ですがね。
日本人の戦後の反省がアメリカから押しつけられたって? 馬鹿も休み休み言え。敗戦後の日本人たちは何を考えたか。まずは「勝てたはずの戦争なのに、馬鹿だから負けた」という反省。引き続いては「アメリカがくれた憲法を盾にして、アメリカの理不尽な再軍備要求に対抗しよう」という護憲=反米ナショナリズム。これだよ。
前者がいつの間にか左翼的「反省猿」(前述)に堕したのは、後者の護憲=反米ナショナリズムの本義が忘れられてしまったからです。この二つは完全にシンクロしています。だからどうしても後者に注目する必要があるわけ。
そこで問題になるのが吉田ドクトリンと日米安保です。別の場所で話したので詳しく話しませんが、日米安保条約は、対米追従を回避するために吉田茂が考えたスキームです。冷戦体制の開始で、アメリカが四八年から再軍備を要求してきたのがきっかけです。
再軍備に応じない代わりに基地を提供するから本土を守ってくれ。そういう条約を結ぶつもりでしたが、外務省の交渉戦略の拙劣さで最初から基地提供をエサにしてしまったせいで、ダレス国務長官によって本土防衛を約束しない片務的条約に調印させられてしまう。
さて吉田の戦略は世論の支持を背景にしていた。再軍備要求までは、右は南原繁も左は共産党も「この憲法はおかしい」と言っていて、それなりの世論もあった。ところがアメリカの掌を返したような占領政策転換で「馬鹿にするな」との世論が高まり、必ずしも憲法内容に同意しない連中でさえも、護憲を反米ナショナリズムの表出手段にしたわけ。
当時は、民族も愛国もむしろ共産党側の言葉だった。戦前右翼と同じく「反米愛国」こそ、右から左まで含めたナショナルな心情の表出だった。「親米愛国」は国民感情として全くあり得なかった。ところが、これが捩れるのが六〇年安保を挟んだ一連の動きです。
五五年体制が成立して、神武景気があり岩戸景気があって、戦前戦中の蔭や敗戦の蔭が消えてくる。反米的心情も急速に薄れる。護憲=反米ナショナリズムの本義も忘れられる。岸信介の拙劣な国会運営で反安保に火がついたけど、これは残念ながら半分は偶発事です。
岸信介への反発以降、全学連が日帝・米帝という言葉を並列して使うことに象徴されるように、直接の反米心情というよりも、「日帝のブルジョア支配層(岸信介!)が、米帝と結託して平和憲法の本義をスポイルし、ウマイ汁を吸おうとしている」という話になる。
かくして、米帝と結託する憲法改正的=反憲法的な日帝支配層が右で、米帝と結託する日帝に抵抗する反安保勢力が左、という話になるわけです。もともと安保条約やそれを支える心情が、護憲=反米ナショナリズムだったことを思えば、一八〇度の転換です。
●そして、みなさんの思考停止へ
この一八〇度の転換の意味を忘却するところから、七〇年代以降の思考停止が始まるわけです。つまり、みなさんの思考停止のことです(笑)。見てください。一方に、土井たかこ的な「馬鹿の一つ覚え」的な護憲があります。他方に、安部晋三的な「馬鹿の一つ覚え」的な強硬策があります。この不毛な選択肢は、いったいどうしたことか。
結論的には丸山眞男の言った通りでしょう。右だ左だと言ったって、単なる思考停止の馬鹿。どちらかを選べって、あんた、「ウンコ味のカレー」か「カレー味のウンコ」かという究極の選択になっちゃうよ(笑)。
安部晋三問題はいろんな所で喋ったから、とりあえず土井たかこ問題を論じましょうか。僕は条件つき憲法改正論者です。条件つきとは「近代主義的」改正論だということです。どういうことか。具体例で話しましょう。
新聞などでも繰り返し書いてきたように、集団的自衛権の行使を許容する、あるいは義務づける憲法改正が必要です。それができないなら、政府による明示的な解釈改憲が必要です。ご存じの通り、政府は集団的自衛権を認める解釈改憲をしていません。
しかし、実際には既に集団的自衛権を行使するようになって長い年月が経ちます。横須賀港を出港して戦地に向かうアメリカ海軍第七艦隊の艦船に、日本は長らく燃料や物資の補給を許しています。国際法的には明らかに集団的自衛権の行使です。
日本政府の見解は笑えます。米艦船が横須賀を出港する段階では、アメリカからどこに向かうかの報告を受けていないので──戦略行動なので報告するはずがない──、戦地に向かうかどうかが分からない以上、集団的自衛権の行使ではないと。
この伝統的図式に沿う政府答弁が一昨年に見られました。アフガン攻撃のためにトマホークを打ち出すインド洋上の米艦船に燃料補給を行うのは、集団的自衛権に当たらないか、との質問に、遠隔操縦兵器なので打ち出した段階ではどこに着弾するかが決まっていないから(!)とか、発射した段階ではまだ着弾していないから(!)、当たらないとの答え。
これはギャグではありません(笑)。そういう答えが可能なら、憲法が集団的自衛権を禁止していても何の意味がない。それどころか、お前んところは何でもありだろうということで、アメリカからの理不尽な要求に抵抗することすらできない。
それだったら憲法改正するべきです。集団的自衛権を明示的に許容して上で、何が集団的自衛権の行使に当たるかを決める要件を、安保理決議なり何なり定めておく。そうすれば、要件不充足を理由に他国からの理不尽な要求を、国際的に正統な理由で拒絶できます。
というと、国連中心主義は過去の理想だなどと寝ぼけたことを言う輩が出て来るので、釘を刺しておきます。そんな、サンフランシスコ講和条約締結の頃じゃないんだからねえ。いま国連中心主義という場合、アメリカのユニラテラリズム(単独行動主義)に対抗する、マルチラテラリズム(多国間交渉主義)を意味しています。
国連だったら正当な結論が出るという話ではまったくない。多国間交渉という手続きを踏んで、できるだけ多くの国が自発的に服従できる正統な決定を導くべく努力しましょうという話。正当性(正しさ)と正統性(自発的服従契機)の差異を踏まえることと、内容的に正当な(正しい)ものになるかは努力次第ということを踏まえることが、必要です。
思えば、ずいぶん皮肉な事態になっているでしょう。土井たかこ的な「馬鹿の一つ覚え」的な護憲によって、アメリカの言うなりに集団的自衛権を行使せざるを得ない状況に、自ら追い込まれてしまうというんですから。しかも当人がそれに気付いていないという。
四八年から五五年前後までは、護憲こそが、アメリカの言うなりにならないためのアイロニカルな戦略だった。いまや、護憲こそが、アメリカの言うなりにならざるを得ない立場に自らを追い込むトラップになっている。思考停止を排し、それに気付く必要がある。
どうも日本には、思考停止に陷ったまま、両立不可能な主張を平気でなす輩が多すぎる。いまの話で言えば、護憲の主張と、対米自立の主張を、同じ人間がやっていますが、両立しません。他にも幾つでも例を挙げられますよ。
北朝鮮に対する「馬鹿の一つ覚え」的強硬策の主張と、一刻も早く拉致被害者家族の帰国を果たせという主張は、両立しません。小さな政府的な構造改革を優先する主張と、一刻も早い景気回復を要求する主張は、両立しません。
総裁選の直前に多くの国民がインタビューに答えていましたよね。「誰を支持しますか」「小泉さんです」。「何を期待しますか」「景気回復です」。なかなかユーモアが効いたお答えです(笑)。
両立しない主張を一人の人間が平気でやりながら気が付かない。「あれもこれもの気持ちは分かるが頭の悪い思考停止の輩」「言いたいことを言ってスッキリした後は野となれ山となれの思考停止の輩」。
こういう類が溢れていることこそが、社会からの要求に戦後の教育システムが応えていないことの明白な帰結です。こういう類が溢れるがゆえに国が沈んでいくときに、それを憂えずして、自分の子だけには幸せになってほしいって、あんた、そりゃあ「両立しない志向」です(笑)。
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