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◆ 連載第十回:二重の偶発性とは何か
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=35
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■連載の第十回です。前回は「予期とは何か」をお話ししました。話の繋がりを確認する
と、社会システム理論では社会秩序の実現を、出発点での法や規範への合意ではなく、偶々
破られないがゆえに継続する根拠のない信頼において記述します。
■信頼は予期の一種です。予期には「殴ると思っていない」という消極的予期と「殴らな
いと思う」という積極的予期があります。積極的予期は更に「殴らないだろう」という認
知的予期と「殴らないべきだ」という規範的予期とに分けられます。
■単純な原初的社会では、信頼は「考えたこともない」という消極的予期の形──未分化
な予期──を取ります。社会が複雑化して違背頻度が高まると、信頼は積極的予期──分
化した予期──の特定の構造(予期と違背処理の先決)により担保され始めます。
■ちなみに、信頼の形式変化が宗教を進化させます。原初的社会の宗教は、未分化な予期
を破るパニック的事態を儀式で聖化する機能を果たします。複雑な社会の宗教は、分化し
た予期の先決された構造が存在する理由を神によって説明する機能を果たします。
■予期とは何か。私たちは動物と違って刺激に反応が短絡せずに意味を経由します。意味
とは、偶発性に対処して選び直しを可能にする、否定性をプールする選択形式です。意味
を用いて、いちいちサウンドせずに世界を無根拠に先取りする営みが、予期です。
■私たちは予期によって世界を構造化(選択前提を選択)しています。この構造化は他者
を媒介にします。私たちは自分が体験せずとも,他者の体験を私も体験可能だと予期する
ことで、他者の体験を自分の体験の等価物と見倣し、体験地平を拡大します。
■素粒子理論の真実性のように、現実に体験する他者がいなくとも、他者たちがそのよう
に世界を予期するだろうと私が予期できることを以て、私の体験の等価物と見倣しさえす
る。かくして他者を媒介にする予期的構造化で体験地平が一挙に拡大します。
■予期による意味的先取りが違背処理の先決(認知的/規範的予期の分化)というコスト
を生むように、他者を媒介とする体験地平の拡大も「二重の偶発性」への対処というコス
トを生みます。二重の偶発性とは何か。今回の主題です。
【二重の条件依存性/二重の偶発性】
■二重の偶発性とは第八回で軽く紹介した通り、《偶発的な私の振舞いに偶発的な他者の
振舞いが不確定に依存する》ことです。パーソンズ以降の社会学は、社会秩序は如何にし
て可能かという問いに、二重の偶発性の克服可能性を以て答えます。
■二重の偶発性double contingencyという概念はパーソンズによって提起され、当時はそ
の内容から「二重の条件依存性」と訳されました。内容とは、第三者から見て、太郎君の
振舞いが花子さん次第であり、花子さんの振舞いが太郎君次第であることを言います。
■二人の振舞いの帰趨は、互いの条件依存性が一次方程式y=ax+bかつx=cy+dで記述され
るなら、この連立式を解いて、y=(ad+b)/(1-ac)、 x=(bc+d)/(1-ac)となります。現実に
は一次方程式になると限らず、互いの行動の収束/発散/振動の如何は不定です。
■パーソンズは、これが発散しては社会秩序が成り立たないと考え、収束・振動するため
の制約条件として、同一の価値システムに服属することによる「期待の相補性」(医者が
相手を看護婦だと思い、看護婦が相手を医者だと思うという噛み合い)を持ち出します。
■それが第八回で紹介したパーソンズ流の「価値共有による秩序問題の解決」ですが、こ
れはホッブスによる秩序問題の解決案と同じく、秩序のありそうもなさを、価値共有のあ
りそうもなさに移転しただけで、解決と呼ぶには値しません。
■そこで多くの社会学者は経済学における価格決定のメカニズムと同じく、複数主体の行
動の均衡点として価値共有を説明したがりました。が、諸行動が均衡するために必要な前
提(初期手持量への合意)をこそ価値共有で説明しようとしていたわけで、論点先取です。
■かかる議論に終止符を打ったのが、ルーマンによるdouble contingency概念の翻案で、
「二重の偶発性」と訳されます。第三者視点ではなく、私から見て偶発的な他者の振舞い
が、私自身の偶発的な振舞いに不確定に依存すると、私に理解されていることを言います。
【単一の偶発性/二重の偶発性】
■自尊心を考えてみます。私が「自らが射た矢が確実に命中すること」を自尊心の糧にす
る場合、自尊心は単一の偶発性に結びついています。的に当たるとは限らないという偶発
性に抗していつも的に当てることができれば、私の自尊心が維持されます。
■ところが「矢が命中することを他者がほめてくれること」を自尊心の糧にするなら、状
況は一挙に複雑化します。矢が命中すれば他者がほめてくれるとは限らず、ほめてくれる
かどうかは多くは、ほめたら私がどう振る舞うか(についての相手の予期)で変わります。
■すなわち、ほめたら私がどう行為するかという他者の予期が、他者が私をほめるかどう
かをかを左右するのです。私がほめられようとするなら、私の偶発的(不確定的)な反応
行動についての他者の偶発的(不確定的)な予期を、予期しなければなりません。
■私の矢の命中を他者がほめるかどうかという偶発性が、他者がほめたときに私がどう反
応するかという偶発性に結びついている──これが二重の偶発性と呼ばれる所以です。こ
の場合、自尊心の維持は、かつてない複雑性に晒されることになります。
■自尊心を維持したい私は、単一の偶発性と違って矢が命中するように精進するだけでは
足りず、他者が私の行為をどう予期するか──他者から私がどう見えるか──という偶発
性を、コミュニケーション(選択接続)の履歴を用いて操縦しなければなりません。
■別の例です。私が相手に命令しても従うかどうか偶発的です。従うかどうかは、従うか
否かで私がどう振る舞うかという私の偶発的反応についての彼の予期に左右されます。従
う蓋然性を高めるには、私は彼の予期を予期して、彼の予期を操縦する必要があります。
■拙著『権力の予期理論』に詳述したように、私の権力──私さえいなければ相手が好き
に振る舞えるのに私のせいで断念せざるを得なくする力──は、私の手持ちの実物の多寡
よりも、私に対する相手のイメージ(予期)を制御する力に依存します。
【偶発性の消去/偶発性のやり過ごし】
■こうしてdouble contingencyの概念をルーマン的に翻案すると、double contingency
の克服という秩序問題の解決は、パーソンズとはかなり違った趣きになります。それをルー
マンは《偶発性の消去から、偶発性のやり過ごしへ》と表現します。
■パーソンズの場合、価値共有によって、看護婦が医者の予期に適合し、医者が看護婦の
予期に適合した振舞いができる場合、偶発性が消去されて問題が解決します。ところがルー
マンは現実離れした解決だとしてこれを論難します。
■彼によれば、現実においては偶発性は消去されずに残ります。例えばいつ何時、医者が
看護婦の予期を破ってセクハラに及ばないとも限りません。いつ予期破りがあるかも分か
らないという偶発性が残ったままでも前に進めることこそが問題の解決なのだと言います。
■現に私たちはこうした偶発性が残ったままでも前に進める(安定して行為できる)ので
す。看護婦たちはセクハラの可能性が消去されなくても職務を全うします。それはどのよ
うにしてでしょうか。それに答えることが秩序問題への解答になります。
■パーソンズとルーマンのスタンスの違いを十分理解しましょう。一般に、私の行為と他
者の予期(期待)との関係には二つのレベルがあります。第一は、私の行為が他者の予期
に合致しているかどうか。第二は、私の行為が他者の予期を踏まえているかどうか。
■パーソンズは前者を、ルーマンは後者を重視しますが、両者は似て非なるものです。な
ぜなら、二つのレベルが論理的にズレる可能性があるからです。すなわち私は、他者の予
期を踏まえた上で、あえて他者の予期に反する行動を取ることができるのです。
■パーソンズの場合、こうした振舞いは秩序への侵犯を意味しますが、ルーマンの場合は
意味しません。この違いを説明するのに最もよい例は「社交術」です。日本人は社交術を、
場の期待(周囲の予期)に合致した振舞いができるか否かのレベルで考えがちです。
■ところが西欧的な社交術の本質は、私の行為が他者たちの期待に応えるかどうかではな
く、私が他者たちの期待に応えうる存在であることを他者たちに示すことで、私が他者た
ちを受け入れる意思を持つことを示すところにあります。
【行為への集中/予期への集中】
■F1のモナコ・グランプリの予選前日(木曜日)にモナコ王室が主催するパーティが開
かれます。日本国内ではしばしば「タキシードの着用が原則なのに、日本の記者がフィッ
シュマン・ジャケットを着用したまま参加するのはミットモナイ」と非難されます。
■しかし厳密には的外れです。例えばアップル・コンピュータの創業者スティーブ・ジョブ
ズであればTシャツとジーパンで現れるかも知れません。それでもいいのです。なぜなら、
皆の期待を熟知した上で「ワザと外す」ことも、社交術の正攻法だからです。
■パーティのゲームを弁えた上で「ワザと外し」たことをプレゼンテーションできれば、
私は自分がパーティに参加するだけの器量を持った存在であることを示し、パーティの参
加者たちを受け入れる(ゲームをする)意思があることを示すことができるのです。
■社交術の伝統を欠いた日本人が、相手の期待に合致しているかというレベルと、相手の
期待を踏まえているか(合致した行為をなし「うる」か)というレベルとを、区別できな
いことは、日本人の「ナンパ下手」にも関係します。
■日本人は直接に相手の期待に沿おう(喜ばせよう)として、期待に沿えない可能性に脅
えます。社交術の伝統では間接性がポイントです。服装や家具や調度をほめることで、相
手を直接喜ばせるよりむしろ自分に相手を喜ばせる器量があることを示そうとします。
■器量があるところを相手に示せれば社交術としては成功で、その上で相手が自分を受け
入れるかどうかはもはや相手の問題だというのが、西欧流の誘惑(ナンパ)です。だから
相手がなびくかどうかに一喜一憂してビビる必要を免除されるのです。
■これらの例に明らかですが、相手の予期を踏まえたとしても、私の行為は本来偶発的で
す。同じく、私の予期を踏まえたとしても、相手の行為は本来偶発的です。私たちはこれ
ら偶発性に混乱したりしません。私たちの注意が、行為でなく予期に集中するからです。
■さて、第八回で述べたように、偶発性が残ったままで前に進めるのは「信頼」によりま
す。ところが第九回(前回)で述べたように、予期破りに満ちた複雑な社会システムにお
ける信頼は、予期破りを想像したこともないという自明性によっては調達できません。
■前回の言い方では《むしろ違背の可能性を意識しながら、それでも前に進めるよう、分
化した予期層で信頼を調達する必要が出てきます》。それがいかにして調達されるかのヒ
ントを、私たちの注意が行為ではなく予期に集中しうる事実が与えてくれます。
■前回《複雑な社会における分化した予期層における信頼》の実相を描き出す作業を積み
残しましたが、以上を踏まえて次回はこの作業にチャレンジします。題して「制度とは何
か」です。