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自分個人の小さな小さな発見とか、ひそかな驚き、願い。そういったものから
出発して、何かを語ること、語られることは、とてもたのしい。
ところが、そういう純粋に地に付いた小さな自分の感動から出発して語りながら
最後になって「普遍」にその感動や発見の意味づけ、価値付けのようなものを
したがる人がいる。
これは自戒していうのだが、人間というのはついついそうしがちだ。
拾った子猫のことやお爺さんの咳のこと、夕食のカレーの辛かったこと
などを語っておきながら、最後に「人間というものは...」とか
「平和のため...」とか「人生とは」とかいった巨大な理念に、
そういった体験や発見を飲み込ませてしまう。
あるいは最初から普遍的な「真理」とか「正義」を振り回してしまう。
このような「真理」「普遍」、たとえば「阿修羅のため」でもいいし、
「戦争反対」でもいい。
こういった、だれにも抗うことのできない「真理」や「普遍」の名の下に、
言葉の風呂敷を広げ、自分自身の小さな真理や真実の無さをカバーする。
そういうことは、かつては小中学校の作文や、
あるいは今でもえぬえっちけー全国青年の主張コンクールなどで
推奨されていることだが
小さな個人的真実を大嘘にしてしまうんじゃないか。
テレビなどでもそうだ。ちょっとヒューマンな装いのドキュメントなどを観ると
必ずといっていいほど、男性の猫なで声のナレーションが映像にかぶさってくる。
この隙間風のような、細い、猫なで声の
ナレーションを聞くと、わたしはぞっとする。
すべての小さな営みが、猫なで声のフューマニズムに一色に塗りつぶされてしまう。
そこに人間個々の真実があるのかというと、そうではなく、あらかじめ取り決められた
倫理的な・約束事の、大きな河の流れがあるだけなのだ。
小さな小川はそこに巻き込まれ、飲み込まれてしまう。
わたしは大河に抗いたい。
党派的な予定調和的な言説。真理。真実。
抗うことのできない言説。真理。真実。
そういう大きな大きな真実や真理の流れに自分を流してしまえば
それはらくだが、何かむなしくなかろうか。
小さな小川の流れを、だからといってそこに飲み込ませて
いいとは思わない。
横切る。
わたしはわたしの小さな流れを大河に抗して横切らせる。
当然、大変な反発や非難、揶揄があるだろう。
しかし、これからも小さな小川の流れのような言説を大切にしたいと思うし
大河の力で小さな声を押し流そうとする者には抗うことになるだろう。