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南青山さんの「Re: あっしらさんの「理」とは何か」( http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1196.html )へのレスです。
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南青山さん、どうもです。
>「手段を目的を達成するためにできるだけ合理的なものではなければならない」
>ここでの「合理」とはどのようなものですか。
>どのような「理」なのかということです。
人が物を作るときと同じです。
ある役割や機能を果たす物が欲しいというのが端緒です。(欲求は「曖昧な目的」と言えます)
欲求を実現するために具体的にどのような物を作ればいいのかをイメージ(設計)します。(それが固まれば「目的」になります)
ある物は、ひとりで材料を集め手作業で作ることができます。この場合も、設計が良ければ少ない材料と手間で目的を達成できますが、悪ければ、材料を浪費したり膨大な作業時間を費やすことになり、最悪のときは、それだけの物と時間を費やしたのにできたものは使い物にならなかったという結末になります。
「合理」とは、同じ目的を実現するために、人の活動力と自然存在(物)をできるだけ少なく済ますことを基準に思考することやその思考成果です。(活動力と物のあいだも希少性などを考慮してどちらの「より少なく」を決めなければなりません)
ある物を作るにしても、例えば自動車を作る、目的が1台なのか1万台なのかで、合理的な手段というのものがまったくというほど違ってきます。
1台なら、ある部品を作るための機械を作るより手作業で済ましたほうがいいが、1万台なら、機械を作ることから始めたほうがいいといった点です。
(さらに言えば、陸上で人や物を運ぶ手段として、「自動車」がいいのか「駕篭」・「荷車」・「人」などがいいのかといったレベルでも「合理」性を考える必要があります。数多くの人を結集してはじめて実現できる目的は、ひとりでできる目的を超えた手段の合理性を詰める過程が必要になります。人的自然的な資源がそれだけ膨大に浪費される危険性があるからです)
「合理」は、タカが知れている人知によるものですから、「最適」ということはありません。また、現実条件も変化しますから、ある状況での「合理」が別の状況でも「合理」であるわけではありません。ですから、決め込みや思い込みは、「合理」の思考にとって大きな障害になります。
「合理」は、絶対やパーフェクトではなく、あくまでも、他の手段との比較でどちらがより「合理」的なのかという相対的なものです。
そして、ひとは、どうしても自分の間尺や思い込みで物事を考えたり判断するものなので、他のひととの対話を通じて自分の判断の妥当性を確かめなければ、自分の頭のなかだけの「合理」でしかなく、実はとんでもない「不合理」だということもあります。
だからこそ、行動に走る前に、自分で手段(方策)の合理性を吟味し、それを他のひとにぶつけて得る批判を糧にさらに考えるという過程が必要だと思っています。
(それを端折って「さあ、行動だ!」になれば、ミニマムの目的さえ達成できないムダ骨に終わることもあります。それで済むような目的や手段であればまだ救いがありますが..)
そして、目的の実現過程(行動)は、手段の合理性をリアルに検証する過程でもあります。行動しながら考え、手段の調整を行ったり、ある場合には目的を断念するという判断も必要です。
さらに、目的の実現は、新しい現実すなわち新しい条件(手段)を手にすることを意味しますから、それを踏まえた新しい目的の設定が問われることになります。
人類は、壮大な歴史的時間を通じてそれを繰り返してきたと思っています。
今回の論議の対象になった「イラク人質事件」であれば、第一義的な目的は、日本政府の能動的な働きかけで人質を無傷で解放させることです。
政府が「テロには屈しない」ということで3人の犠牲は厭わない対応を見せたのですから、国民が政府に目的に適う行動をどうとらせるかが、目的であり手段になったと言えます。
時間的猶予がほとんどない人質解放とこれまでそして今回のケースで見せた政府(小泉政権)をとっ変えるという目的がごちゃごちゃになれば、第一義の目的さえ達成できずに終わってしまう危険性が高くなります。
(ましてや、この間の日本の政治状況と今回のケースで見られたとんでもない動きを少しでも考えれば、人質解放という目的に「倒閣」を手段とすることが合理的かどうかはそれほど時間をムダにしなてくも(思考時間をとられなくとも)判断できるはずです)
今回のケースは、相手がきちんとした政治性や価値観を持っていたことと本人たちの“実績”がシンクロしたことが解放の最大要因です。(そのシンクロナイズを支援したのが、家族や支援者(日本国民)でありそれに応えたイラクの人たちです)
解放はそういうかたちで実現できたわけですから、これからはいよいよ「小泉政権打倒」のはずですが、人質事件と連動してそれを呼びかけていた人たちはどうするのでしょう?
「目的は手段を正当化しない」というよく使われる警句についてですが、あまり意味がない警句だと思っています。
手段は目的を合理的に達成できることで正当化できるものだからです。
「手段の犯罪性はその目的で消えるわけではない」と言うことができます。
革命であれば、どんな手段を使っても成就すれば、テロリストと定義もできる個人や組織が権力行使の主体になるのですから、「手段の犯罪性は目的を達成することで消すことができる」とも言えます。
「目的は手段を正当化しない」よりは、「地獄への道は善意が敷き詰められている」というほうが警句になると思っています。
この間の経緯を踏まえて、「善意に基づく目的は手段の不合理性や議論のおかしな進め方を正当化できない」とも言っておきます。
>「3人の人質事件という悲劇さえ政治的に利用すべきという人間だから」という書き
>込みにちょっと引っかかっています。
第一義的に人質の解放をめざすが、そこで政府(小泉政権)が見せた政治的醜態を利用して、国策の変更なり「倒閣」なりをやるべきというのが、政治的に利用すべきということです。
私は、左翼勢力が言うような“敵”であってもできれば一人も犠牲にしないで成就する手段はないのか?を究極テーマとして、いろいろと考えているつもりです。
(もちろん、合理的な手段として犠牲が必要なときはそれを選択すべきだと思っています)