東京を囲むように米軍基地がある。 横須賀に海軍もある。 東京に敵は攻めて来るか? なら、東京周辺は、何のために? 天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね: ▲△▽▼
昭和天皇とダブルファンタジー 昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理 (朝日新聞社 論座) http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/276.html 菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師 2019年04月30日
昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。 https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_2.JPEG 1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇=撮影・GHQ写真班 天皇は、完全に軍備を撤廃するには、国連恃(だの)みでは心もとないこと、米国による安全保障が不可欠と述べた。対してマッカーサーは、軍備をいっさい持たないことが日本にとって最大の安全保障であり、将来の国連強化に期待すべしと説いた。しかし、天皇は納得しない。マッカーサーは天皇のリアリズムの前に屈し、半ば折れるように防衛協力を約束している。 こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。 ▲△▽▼
21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。 A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。 ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。 http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html ▲△▽▼
April 29, 2017 天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ift.tt/2oRPQmn 「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」 ―当時の背景は。 「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」 「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」 ―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。 「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」 https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/ ▲△▽▼
革命に恐れおののいていた天皇家の人々
梨本宮伊都子妃の日記
梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。 伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。
『昭和33年7月14日。 きみ、きっと、これが僕の運命だね。 明仁皇太子』 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』 (3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを
昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html ▲△▽▼
脅迫で可決した日本国憲法
マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。 GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。 ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。 ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、
GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。 若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。 東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。 例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。
東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。 日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。 リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。 http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html ▲△▽▼
新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。 当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。
そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。 1937年12月に日本軍は南京を攻略している。
中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。 そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988) 日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。
つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年) ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/ ▲△▽▼ ▲△▽▼
昭和天皇は日中戦争が勝てそうもなくなったので、
このまま行くと日本はソ連に占領される ソ連よりアメリカに占領された方がいい という判断をして、アメリカと八百長戦争をしたのです。 ソ連に占領されるとこうなるのが判っていたからなのですね: ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)
監督 アンジェイ・ワイダ 脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ 原作 アンジェイ・ムラルチク 音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ 撮影 パヴェウ・エデルマン 公開 2007年9月17日 製作国 ポーランド 言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語 動画 https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=
キャスト
マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘 マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母 ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死 アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺 ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹 マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹 パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘 アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母 クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校 スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人 クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。 ▲△▽▼
『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。
自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。
撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。 翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。 ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE 1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。 http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518
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カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。 「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。 経緯
1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。 ポーランド人捕虜問題
1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。 ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。 1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。 1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。 捕虜の取扱い
ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。 事件の発覚
スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。 1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。 発見当初の動静
1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。 1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。 これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。 ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。 第一次調査
調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。 発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。 また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。 1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。 撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。 西側連合国の対応
イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。 1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。 ソ連による「真相究明」
1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。 さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。 冷戦期のカティンの森事件問題
冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。 1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。 また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。 冷戦後の調査
ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。 1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。 1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。
2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6 ▲△▽▼
January 1, 2010 こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」 シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。 こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。 カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件 しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。 映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。 将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。 将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。 しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。 大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。 バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。 この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。 最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。 その歴史を反転させる革命こそが待たれている。 https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/ ▲△▽▼
「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日 http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。 http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html ▲△▽▼ ▲△▽▼
昭和天皇は日中戦争が勝てそうもなくなったので、 このまま行くと日本はソ連に占領される ソ連よりアメリカに占領された方がいい
という判断をして、アメリカと八百長戦争をしたのです。 ソ連に占領されるとこうなるのが判っていたからなのですね: の続き
天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。
ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。 彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。 スターリンの死後は第一副首相(en:First Deputy Premier of the Soviet Union of en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。 1953年6月のベリヤの逮捕後の裁判で、ベリヤによる著しい件数の強姦と性的暴行が明らかになった[19]。
ベリヤは大変な漁色家であり、誘惑を断ったが最後、その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致しては暴行する悪行を繰り返した[20]。流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたため被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。ある夜、ベリヤは通行人である未成年の女性をいつものように車に乗せ、本部に連行した後解放した。女性は帰宅しても何があったか両親に話そうとせず、結局その事件を苦に自殺してしまった。遺体を解剖した医師によれば、彼女の体にははっきりと暴行された形跡が見られたという。彼女の父親はベリヤの護衛を務めた警備隊長で、のちにベリヤが政争に敗れて処刑される際には処刑の執行人となりたいと嘆願したが、政府から「私刑は認められない」という理由で要望は聞き入れられなかった。また、米国の外交官と交際していた女性にベリヤが迫ったところ、ひどく嫌がられ関係を拒否されたため、彼は「収容所の埃となれ!」と言い放ち「米国のスパイ」という罪状で彼女を強制収容所送りにしてしまった。 ベリヤに対するこれら非難は近年まではソヴィエト連邦内外の政敵によるプロパガンダとして片付けられていたが、ベリヤが女性を暴行し、政治的な犠牲者を私的に拷問し、殺害していたという疑惑は歴史的な証拠を得つつある。ベリヤの性的暴行、性的サディズムの最初の嫌疑は、1953年7月10日のベリヤ逮捕の2週間後に党中央委員会本会議において共産党中央委員書記のニコライ・シャターリンによって告発された。シャターリンはベリヤが多くの女性と性的交渉を持ち、娼婦との関係の結果梅毒にかかったと述べ、ベリヤと交渉をもった25人の女性のリストについて言及した。やがてこの非難はより劇的な展開を迎える。フルシチョフは彼の死後に出版された回想録において「我々は100人以上の女性の名前を記したリストを見せられた。彼女たちはベリヤの部下によって、ベリヤの元へ連れて行かれたのだ。彼はいつも同じ手口を使った。女性が彼の家に到着すると、ベリヤは彼女をディナーに招待する。そしてスターリンの健康を祈って乾杯しようと持ち掛ける。その乾杯のワインには睡眠薬が混入されていたのだ」と述べている。 1980年代には、ベリヤが10代の女性たちを強姦したという噂まで出始めた。ベリヤの伝記を著したアントン・アントノフ=オフセーエンコ(Anton Antonov-Ovseenko)はあるインタビューにおいて、ベリヤが複数の若い女性たちの中から1人をレイプするために選び出す際、彼女たちに強いたといわれる明らかに倒錯した行為について語っている。このときに行ったとされる行為は、「ベリヤのフラワーゲーム」と名づけられている。それは、部下に5人ないし7人ほどの少女を連れてこさせ、靴だけ履かせたまま彼女たちに服を脱がせた上で、頭を中心に向けた四つんばいの姿勢で円陣を作らせるというものだった。ベリヤは歩き回りながら彼女たちを品定めして、そのうち1人の脚をつかんで引っ張り出して連れ去り、レイプしたという[21]。ここ数年の間にベリヤが私的に犠牲者を殴り、拷問し、殺害したという数多くの物語が流布している。 1970年代以降モスクワの子供たちは、ベリヤの以前の住居(現在はトルコ大使館)の裏庭、地下室、あるいは壁の中から骨が発見されたと言う話を繰り返し噂し合っている。2003年12月、ロンドンの日刊紙 デイリー・テレグラフは「(トルコ大使館で)キッチンのタイルが改装された際、大きな大腿骨と小さな足の骨が発見されたのは、ほんの2年前のことだった。この大使館で17年働いているインド人のアニルは、地下室で彼が発見した人間の骨が入ったプラスチックのバッグを見せてくれた」と報じた[21]。政治的に動機付けされた非難として、性的虐待とベリヤに対する強姦告訴については、妻のニーナ、息子のセルゴといった近親者と、元ソビエト情報部長官パヴェル・スドプラトフによる議論がある。 歴史学者のサイモン・セバーグ・モンテフィオーリによると、ベリヤは個人的知り合いであるアブハジアの指導者ネストル・ラコバが1936年末に粛清された後、その家族を拷問にかけた。彼の未亡人サリヤは独房で毎日拷問にかけられ、衰弱死。息子ラウフは死ぬほど叩かれ、その後強制収容所送りになったという[22]。後に生還している。モンテフィオーリは、ベリヤについて「強迫観念的な堕落行為をほしいままにする自身の力を利用した性犯罪者」と暴露している[23]。 ベリヤは小さな子供を拷問・強姦するために、自分の事務室に隣接した特別室を独占したという[24]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4 ▲△▽▼
天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは _ 2
ベリヤが支配した国はこうなる:
ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。 ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15 ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297 https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull
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【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945 http://3rdkz.net/?p=405
筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。
この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。 筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。
ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか
ブラッドランドは… ・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた ・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った ・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた ・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した …地域である。 ブラッドランドにおける主な殺害方法 1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。 ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。 その次に多いのは銃殺である。 その次に多いのはガス殺である。 ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。 ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人 http://3rdkz.net/?p=405 1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。
1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。 年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。 食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。 村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。 http://3rdkz.net/?p=405 ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。 三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。 ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。
《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。 人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。 “ 雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・ ” 33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。 彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。 “ ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。
” 大粛清ー犠牲者70万人以上
ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。 同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。 また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。 1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。
1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。 ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。 粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。 殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。 大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。 ポーランド分割ー犠牲者20万人以上
1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。 1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。 ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。 スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。 http://3rdkz.net/?p=405&page=2 ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がヒトラーよりもっとうまくやった。
ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。 ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。 同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。 独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。 http://3rdkz.net/?p=405&page=3
抵抗の果てに 戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。 それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。 ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。 戦間期のスターリンの民族浄化
独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。 1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。 1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。 1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。 同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。
このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ! おわりに 長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。 ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。 激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。
海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。 知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。 http://3rdkz.net/?p=405&page=4
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