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連載第十二回:社会統合とは何か?(MIYADAI.com)
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1114.html
投稿者 まさちゃん 日時 2004 年 4 月 14 日 13:21:29:Sn9PPGX/.xYlo
 

◆ 連載第十二回:社会統合とは何か?
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=90
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■連載の第十二回です。前回は「制度とは何か」をお話ししました。私たちの行為は「二
重の偶発性」に晒されています。二重の偶発性とは「『私の偶発的な振舞いに対する他者
の予期次第で、その他者の行為が偶発的に左右される』と私が予期する状態」のことです。
■言い換えると「『私がどのように反応する人間なのかについて他者が抱くイメージ次第
で、他者の振舞いが変わるだろう』と私が思う状態」です。私たちはこの二重の偶発性の
下で、予期外れが起こらないように偶発性が消去されることを必ずしも必要としましせん。
■現に私たちは「あらゆる人々があらゆる規範に合意している」との前提では行為しない。
そうした合意はあり得ません。それでも先に進めるのは、私たちが「私の偶発的な振舞い
に対する他者の予期」(「他者の予期」と略)を操縦することに注意を向けているからです。
■抽象的に言えば、私たちの注意が「他者の行為」それ自体というよりむしろ「他者の予
期」に焦点づけられているがゆえに、行為水準の予期外れに一喜一憂するよりむしろ「他
者の予期」をコミュニケーションの履歴を通じて操縦することに、私たちは努力します。
■「他者の予期」の操縦というのは、私(たち)がどのように反応する者(たち)なのか
を相手に思い知らせることです。しかし知らない者たちと出会う機会の多い複雑な社会で
は、出会う度に、操縦に向けてコミュニケーションの履歴を積み重ねるのは、不可能です。
■そこで「他者の予期」の操縦を免除する機能を果たすのが「制度」です。制度とは「『任
意の第三者の予期』について私が予期を抱く状態」です。つまり「『誰もがそう思う』と
私が思っている状態」です。制度があれば手間暇かけて思い知らせる負担は免除されます。
■単に私が「お巡りさんに訴えれば助けてくれる」と思うだけでなく、「誰もがそう思う」
と私が思っている場合、私にとって制度はある。制度があれば、仮に助けてくれなかった
ら「?すぐに社会的反応を動員でき、?警官もそれを弁えるだろう」と、当てにできます。
■それゆえに制度には二重の偶発性について、「『他者の予期』の操縦に必要なコミュニ
ケーションの積み重ねを負担免除」し、かつ予期外れに際する社会的反応への予期を通じ
て「『他者の行為』の予期外れがありうることとした上で免疫形成」する機能があります。


【認知的制度/規範的制度と、真理システム/法システム】
■先の例で、制度があれば、警官に訴えても助けてくれない場合、「『?すぐに社会的反
応を動員でき、?警官もそれを弁える』と当てに出来るようになる」と言いました。ここ
で、当てにできるとは何なのか、警官が弁える社会的反応とは何なのか、検討しましょう。
■連載第八回で、予期には、予期外れに際して「学習的態度」を取ることが先決された「認
知的予期」(〜だろう)と、予期外れに際して「貫徹的態度」を取ることが先決された「規
範的予期」(〜べし)とがあることを述べました。制度に関わる予期はどうなのでしょう。
■「任意の第三者の予期A」についての予期Bの、それぞれについて検討します。まず、
予期Bは認知的予期でなければなりません。なぜなら、他者一般=社会が、単なる「べき
論」を超えて、現に一定の反応をしてくれるという想定が調達されねばならないからです。
■「誰もがそう思う」との予期が外れていた場合、直ちに学習して、想定していた社会的
反応(他者一般の反応)が得られないという新たな前提──新たな想定──を構築し直さ
なければ、先に紹介した制度の機能(負担免除と免疫形成)から永久に見放されるのです。
■言い換えれば、「任意の第三者の予期」についての私の予期は、どんな社会的反応を想
定できるのかという線引きですから、現実的な想定と非現実的な想定との区分線を、絶え
ず引き直す態度が要求されています。件の私の予期=予期Bが、認知的予期たる所以です。
■さて次に、任意の第三者の予期=予期Aはどうか。結論から言うと、認知的予期でも規
範的予期でもあり得ます。予期Aが認知的予期の場合を「認知的制度」と言い、規範的予
期の場合を「規範的制度」と言います。それぞれで担っている機能が全く異なります。
■規範的制度=「『任意の第三者の規範的予期』についての認知的予期」は、違背処理機
能を果たす「法システム」に結びつきます。認知的制度=「『任意の第三者の認知的予期』
についての認知的予期」は、体験伝達機能を果たす「真理システム」に結びつきます。
■「法システムとは何か」「真理システムとは何か」については別の機会に詳述しますが、
先の警官の例や前回扱ったマクドナルドの例は規範的制度に関わるもので、予期される社
会的反応(任意の第三者の反応)は「憤激」であり、最終的に法システムを支えとします。
■法システムは「合法/不法」という一般化されたコード(指令情報)を用いて、社会的
反応が動員可能だと想定できる行為=不法行為と、社会的反応を動員可能だとは想定でき
ない行為=合法行為に、行為空間(可能な行為の集合)を直和分割する機能を果たします。
■これとは別に、認知的制度は、他者一般の学習的態度を予期し得ることで、他者の体験
を自分の体験のように利用し得る可能性を与えます。例えば私たちは「地球は太陽を回る
惑星だ」という認知的制度──任意の第三者の認知的予期についての予期──を生きます。
■そのお陰で、私は「地球が惑星であること」を自分の目で確認していないのに、せいぜ
いが特定の他者の体験であるに過ぎないこの命題を、自分自身が体験した事実である「か
のように」前提にして振る舞えるのです。これを「体験伝達機能」と呼ぶことができます。
■真理システムは「真理/非真理」という一般化されたコードを用いて、誰もがそう思う
ことを想定できる「事実」──万人共通の体験──と、誰もがそう思うとは必ずしも想定
できない「非事実」──人によって異なる体験──とに、体験空間を直和分割するのです。
■ちなみに、真理システムが指示する「真理/非真理」の区分とは異なる差異を体験した
場合──地球が惑星でないことをこの目で確認してしまった場合(!)──、私たちを訪
れるのは「憤激」(許さんぞ!)ではなく、「驚愕」(まさか!)という感情になります。

【社会統合とは「行為の統合」か「予期の統合」か】
■社会システム理論の制度概念は、私たちの注意が「他者の行為」よりも「他者の予期」
に焦点化されがちなことを前提とし、かつ「他者の予期」に予期貫徹的な「行為」に繋が
る規範的な場合と事実学習的な「体験」に繋がる認知的な場合があることを前提とします。
■こうしたシステム理論的な制度概念は、社会統合を「行為の統合」だと見做す通俗的な
見解を排し、「予期の統合」──「『任意の第三者の予期』についての認知的予期」を社
会的に調達すること──こそが社会統合の名に値するのだと、再措定する機能を持ちます。
■ちなみに従来「社会統合」の概念は、社会統合が「行為の統合」だとの前提の下で、「社
会秩序」という概念とほとんど互換的に使われてきました。社会システム理論はこの前提
を解除し、「社会統合」の概念を、行為ではなく、予期に照準したものへと組み替えます。
■社会システム理論でも「社会秩序」は行為の織りなす秩序ですが、連載で述べた通り行
為の同一性は「どんな行為に後続しうると予期され、かつどんな行為を後続させうると予
期されるか」で決まるので、最終的には予期の配列と無関係に社会秩序を記述できません。
■お気づきの通り、社会統合を「行為の統合」だと見做す立場は、連載第八回で紹介した
社会秩序の「合意モデル」と結びつく一方、社会統合を「予期の統合」だと見做す立場は
社会秩序の「信頼モデル」と結びつきます。社会システム理論は、もちろん後者です。
■社会秩序の「合意モデル」は、人々が合意した規範や価値の内側でだけ行為が展開する
場合、「秩序がある」と見做し、「信頼モデル」は、合意の有無と無関係になされる信頼
(制度的予期)が破られない範囲内で行為が展開する場合、「秩序がある」と見做します。
■社会統合を「予期の統合」だとする社会システム理論の見解は必ずしも非伝統的ではあ
りません。近代社会学の祖デュルケーム(xxxx-xxxx)は『自殺論』で、自殺や犯罪の存在
は、「社会病理」という呼称にもかかわらず、それ自体病理でも何でもないと喝破します。
■なぜか。それは例えば、犯罪なら犯罪に対応した司法制度があるからです。社会は一定
割合の犯罪が起こるという前提の下で動いているということです。司法制度が円滑に作動
しているという信頼が破られるのでない限り、犯罪は通念に反して通常的な事態なのです。
■これは免役の比喩で語れます。私たちは体内への異物の侵入を以て有機体秩序の紊乱だ
とは考えません。有機体には異物が侵入するのは通常的な事態で、免役システムがそれを
通常的に処理します。免役システムのキャパを超えるまでは秩序は微動だにしていません。
■同じことで、社会システム理論に戻せば、逸脱行為の存在は社会統合の紊乱を直ちには
意味しません。それが認知的なものにせよ規範的なものにせよ、制度が──任意の第三者
の予期への予期可能性が──毀損されるのでない限り、社会統合は微動だにしていません。

【逸脱行為は社会統合を紊乱しない、か?】
■翻って知識社会学的に見れば、「逸脱行為は社会統合の紊乱を意味しない」との社会シ
ステム理論的な社会統合観は、複雑な近代システムを可能にした西欧近代の社会観を前提
とすると言えます。逸脱行為が社会統合を紊乱を意味するとの社会観もありうるからです。
■社会システム理論の内部でも、「信頼が制度的予期によって調達される」のは複雑な社
会での話で、単純な社会では「信頼が慣れ親しみ──面識圏内での社会的交流の履歴が生
み出す自明性──によって調達される」と考えるのだと、第八回と第十一回で言いました。
■ここで一つの例を挙げます。米国は、憲法修正第二条が保障する武装の権利に属すると
して、銃器の所持が合法的で、スーパーでも簡単に買えます。しかし他方で年間三万人も
の銃器による死傷者が出ています。銃器所持を禁じる日本では年間百三十人に過ぎません。
■私たち日本人は、あり得ない不合理だと感じます。しかしこの感覚は社会観に依存する。
どんなに銃による殺傷があろうが、ルールに従った処理が円滑になされる限り問題はない
というのが米国的立場です。そういう米国から見ると、日本の方が問題ありだと見えます。
■確かに日本には銃による死傷者は少ないが、「隣人訴訟」(83年判決)で隣人を告発し
た原告が袋叩きに会った顛末が象徴的ですが、どんな場合に司法を呼び出せるのかがアド
ホックな共同体の反応を参照せずして決まらない日本の方が、余程不健全だという訳です。
■一般化して言えば、共同体的な社会であるほど、社会統合を「行為の統合」だと見做し、
行為が予期外れを来すこと自体に激烈に反応しがちです。他方、脱共同体的な社会である
ほど、予期外れ云々より、どんな制度的予期を信頼できるかに専ら拘るようになります。
■第十回に紹介した社交文化の違いも同じ。制度的予期に照準する──ルールを知ってい
るかどうかを見る──欧米的態度と違って、個別的行為に照準する──相手がどう思うか
に一喜一憂する──日本的態度では、共同体に過剰同調的になり、ナンパ下手になります。
■どちらがいいかは文化的ないし個人的な価値観の問題です。しかし、社会統合を「行為
の統合」と見做す共同体的な価値観と、見知らぬ者との多種多様なコミュニケーションを
前提とする近代の複雑な社会システムとが、両立しがたいこともまた理論的事実なのです。

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