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でも最近の「テロとの戦い」というのは、最初から屈しない戦闘を想定しちゃってるから、どうしても捕虜やら弱者を見捨てる判断を下さざるを得ないですね。「そうしないと今後、第二、第三のテロが」という発想にならざるを得ませんね。これは国(の権力者)と市民弱者が乖離して行く道のように思います。アメリカはわざと力でそのような道をゴリ押ししている感があります(まるで自分の権威・力ある立場をじっくりと味わうかの様に)。本当だったら、テロを引き起こすような市民を生まないような政策を、権力者が採るようにしていればいいのに。
寺島実郎氏が「世界は最早、強者主導の世界(戦争が起こり易い)ではなくなっており、国際協調と法治主義でまとまりつつある」と述べていました(http://www.asyura2.com/0311/war43/msg/580.html)動画→(http://oriharu.net/jvideo.htm#20030321_WBS
)。それに、イラクの子供まで「こんなの(アメリカの爆撃)人間のやる事じゃない」と言いました。
「最早、力でゴリ押しする時代ではなくなって来た(そういう認識が広まってきた)」にも関わらず、当時のネオコン勢のアメリカは【大統領の奥さんがフセインの密使に殺される危険性があったとの話。ブッシュ大統領の靴とフセインの靴が同じだとかいうことで、フセインの異常接近[?]もあったりで】、恐怖や畏怖やハンマーという語句と共に、ブッシュ大統領は「嫌いな一個人を排除する為に」空爆を始めてしまった(と思う)。「テロと戦う」という言葉・説明は口実に違いない。テロとは個々人の行動に拠るのであり、最も効果的なのは、「情報」の筈です。ビンラディンだって、米ソ冷戦が終わったときにアメリカ(CIA)からポイ捨てされたから当然の如く怒った。アメリカがビンラディンと友人のままでいれば良かったのだ。たったそれだけの話じゃないんですか? そういう情報を発していればアメリカが攻撃される可能性自体はずっと小さなものだったかも知れない。もし「国際協調と法治主義で世界がまとまりつつあった」のならば、そのまま行けば「テロの発生原因の懐柔・溶融」であり、個々人の心の中でのテロすら生まれていなかったかも知れない。
テロと戦ってはダメですね。テロは溶かすものですね。そうすれば、権力者と市民が接近してゆく道が生まれますね。