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14日の朝日新聞は、自民党の若手議員が今年の大学入試センター試験の「世界史」の問題に「強制連行」という表現が使われたことを批判し歴史教科書から記述の削除を求める運動に取り組む方針としたことを伝えている。この記事の伝えるところによれば「強制連行は戦後日本を批判するための造語」という新しい歴史教科書を作る会の意向にそってのことらしい。
「強制連行」は「従軍慰安婦」など国家権力の犯罪を想起させるから都合が悪いとでも言うのだろうか。こういう言い分で言えば「拉致」ということも「戦後の北朝鮮を批判するための造語」だったということになるだろう。こういう衝動には国家権力の悪や犯罪を隠して置きたいという心性がある。依然として国家は宗教的な要素を持っており少しでも神聖化しょうとする動きは絶えず出てくる。そして犯罪などは隠して置こうとする動きがそれに即応してある。
国家の命令は神の命令であり、真理である。国家の宗教性はつづめればこういう言葉になる。現人神としての天皇の命令であっても、ヒットラーの命令であっても、毛沢東の命令であっても同じである。あるいはフセインの命令でも、ブッシュの命令でも同じである。国家の宗教性はその命令に強制力を持たせる根源だが、その場合の強制力は包括的な力である。歴史的に見ればこの強制力は逓減している。宗教的力が逓減しているからだ。かつての天皇の命令と小泉の命令の差異を見れば歴然としている。
この差異は国家の宗教性が薄れていくことに根拠を持つが、国家の存在を絶対化したい連中はそのことに危機感を持つ。国家の命令は神の命令であり、真理だというところで発生する強制力が薄れていけば、国家の力は小さくなるからだ。国家の命令で「人を殺す」戦争の力は逓減する。彼らはそれを危惧する。それは歴史的な必然であり、国家の宗教性を逓減させていくことが現在的な課題なのにである。
第二次世界大戦は近代日本が明治時代以降に営々として築きあげてきた「国家の神聖化」という宗教に痛撃を与えた。天皇が現人神というベールを脱ぐほかなかったのはその象徴だ。だか、それは戦争という血で国民があがなった歴史的成果であり、歴史的意味である。記憶として現在的に再生産すべきことである。この記憶を消したい衝動として、「強制連行は造語」だということが出てくる。
強制連行も従軍慰安婦も歴史的な事実である。そして国家の強制力を包括的に理解すれば一層このことははっきりする。強制力には戦争に協力させられることだけでなく、協力することに同意すること含められる。進んで協力することも含めてもよい。強制力の概念はこのように包括的なものである。国家権力の犯罪の根源にある強制力を僕らはこのように理解すべきだ。だから物理的力というより宗教的力に視線をやるべきだ。
「強制連行」という国家犯罪を隠したい。そこには国家の神聖化という信仰を保持したい動機がある。従軍慰安婦の場合もそうであったが、国家が淫売所を経営することを認めたくないということがあった。国家は軍費の捻出のために阿片の密売所を経営もした。淫売所も阿片の密売所も経営した。アジア解放という理念の下に国家権力は各種の犯罪を行ったし、それらは歴史的事実である。国家の神聖化を保持したいというこざかしい動機はこれらの権力犯罪を隠して置きたいという動機と同じ根から出てくる。北朝鮮の国家権力の犯罪を批判するのはいい。だが、国家権力の内包している犯罪に批判的であることにおいては日本もアメリカ同じであるべきだ。そのことを瞬時も忘れるべきではない。
それでも国家は存在している。それも事実だ。国家の宗教性を逓減させること、国家の強制力を必要最小減にまで抑え込むこと、それが統治権力の国民的な制御である。統治権力の持つ権力犯罪を減らすことは主権者としての国民の課題である。それは国家を開いていくことであり、その度合いは国家の宗教性の力を弱めることである。国家が歴史的に行ってきたことを記憶として保持し、現在的に再生することの意味はそこにある。国家の強制力と宗教性はパラレルである。それを逓減させる力も同じだ。国家権力の動向に対して不断に異議申し立てを続けることはそういう意味を持つ。