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http://kumanichi.com/news/local/main/200402/20040214000043.htm
熊本市の個人宅に保存されていた古文書類が、戦国時代に瀬戸内海の水軍として活躍した村上氏に関する史料と分かった。羽柴(のちの豊臣)秀吉が毛利氏を攻める際に村上氏に援軍を求めた直筆書状や、秀吉の動向を詳しく伝える書状などがあり、歴史が大きく動いた時期の秀吉や村上水軍の動向を伝える第一級の史料という。
村上氏の子孫にあたる熊本市の個人所蔵で、戦国―江戸期の九十五点。三年前に同市の新熊本市史編纂(さん)室に持ち込まれ、同編纂委・近世専門部会長の森山恒雄さん(熊大名誉教授=近世初期史)が解読した。
その結果、うち十六点は永禄―寛永期(一五五八〜一六四四年)の書状で、村上氏に関する未発表の史料と判明。このほど発行された「市史研究くまもと」最終号に森山さんが論文を発表した。
森山さんによると、書状の一点は羽柴筑前守秀吉の直筆。村上水軍の一員である村上越後守にあて、援軍を要請している。秀吉が織田信長の命を受けて中国地方の毛利氏を攻略した天正十(一五八二)年四月のものとみられる。
秀吉が太閤(たいこう)になった後の書状は数多く残っているが、羽柴姓のものは少ない。秀吉が水軍を構成する一族に個別に書状を送った例も珍しいという。
さらに森山さんが重視するのは、休夢斎善慶という人物から越後守あての書状。手の筋を患った「内府様」(秀吉)が「坂本」に来ており、そこへ来島(くるしま)村上氏や越後守の息子がお礼に参上したことを伝え、病気が治り四国へ渡るので警固船を出すよう求めている。
秀吉が近江国坂本の寺社に病気平癒を祈願させ、長曽我部氏を討つため四国に渡った事実と符号し、天正十三年六月のものと推定される。休夢斎の存在はこれまでの研究では知られておらず、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう=大名の話し相手を務める側近)の一人とみられる。
秀吉の病気の個所や時期、坂本へ来ていたことなどが詳しく分かるほか、一時期は内府と呼ばれていたことを裏付けるきわめて重要な史料という。森山さんは「機密事項を知らせていることから、秀吉は越後守を相当信頼していたようだ。調べれば調べるほど興味深い」と話している。
(文化生活部・三國隆昌)