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南側からのぞむ黒塚古墳。
名称は玄武に由来?(天理市柳本町)
http://www.nara-shimbun.com/n_arc/040213/arc040213a.shtml
黒塚古墳は玄武?。三角縁神獣鏡の大量出土で知られる天理市柳本町の黒塚古墳(四世紀初め)。県立橿原考古学研究所付属博物館の今尾文昭・総括学芸員は、「黒塚」の名称が四神の一つ玄武に由来するという学説を、このほど発行された同志社大の論文集に発表した。
黒塚古墳の周辺は興福寺大乗院の荘園だった地域。墳丘の東側では、中心的な管理施設とみられる環濠(かんごう)屋敷跡も見つかっている。
荘園は土豪の楊本(やなぎもと)衆が管理を任されており、環濠が埋められる14世紀初めから戦国時代にかけて、江戸時代に柳本藩邸となる南側(楊本城)に拠点を移したとみられている。
「くろつか」の名称は興福寺の多聞院日記に初めて登場、天正5(1577)年10月、楊本衆の親分格だった十市氏が「楊本」と「くろつか」に分かれて争ったという。
黒塚古墳の調査では、前方部と後円部の境で幅6メートルの堀跡が見つかっており、付け城の役目を持たされていたらしい。本拠地は南側の楊本城だった。
今尾さんは、黒塚古墳を中心とする拠点の位置が東から南に移動したことに注目。楊本城の中心からみれば黒塚古墳は北側にあたり、四神思想の配色に合わせて「黒塚」と呼ぶようになったと推定した。
近世城郭も、山や川を四神(玄武、白虎、朱雀、青竜)に見たてた「四神相応」の地に築かれることが多かったという。
今尾さんは「古墳の名称として『くろつか』は珍しい。東側は荘園経営の中心施設だった可能性が強く、城郭へ移行する中で『四神相応の地』を意識するようになったのだろう」と話している。
(2004.2.13 奈良新聞)