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奈良、平安時代の律令体制下で民衆同士が犯罪や租税滞納を監視し合う制度「五保(ごほ)」が実施されていたことを具体的に示す平安時代前期の文書が秋田県仙北町の国指定史跡「払田柵跡(ほったのさくあと)」で出土した。奈良時代に始まった五保は江戸時代の五人組のルーツと呼べる統治制度。律令時代の社会制度に詳しい三上喜孝・山形大助教授(日本古代史)は「実施記録が見つかった例は聞いたことがない」と話している。
昨年9月、県埋蔵文化財センターが、平安時代前期(8世紀末〜10世紀)当時、国の出先機関であった払田柵跡から見つけた。文書は、ほぼ円形(直径14センチ)の和紙に書かれていた。和紙は、漆が染み込んでいることから、漆を保存する容器のふたとして再利用されたと考えられる。赤外線カメラで撮影したところ、肉眼で見えにくかった文字が読み取れた。
和紙には「一保長■(欠損)子部圓勝保口壹拾陸人請稲」などと記されていた。保の代表者である保長「子部圓勝」の名前を記した上で、「保の構成員(保口)16人が稲を請うた」ことを示す文書が書かれていた。
律令制度では5家族で1保を作り、10保で小規模集落、郷(ごう)を作ると定めた。律令体制の衰退に伴い五保は崩れたと考えられ、その実態はこれまでほとんど明らかになっていなかった。
見つかった和紙には郷や戸で同様に稲を要求したことも記されていた。国が農民に稲などを利息付きで貸し付ける制度「公出挙(くすいこ)」を記録した書類の一部である可能性が高い。
三上助教授は「律令制度下で民衆が連帯責任を負う制度が、平安時代前期に機能していたことを示す文書だろう。蝦夷(えみし)と対じする軍事的最前線の重要拠点だったからこそ、律令制度が厳密に実施されていた可能性もある」と話している。【田所柳子】
◇五保
中国の制度をまねて、大宝律令(701年)などで整備された古代の組合組織。隣り合う5戸で構成し、代表者の保長がいた。犯罪告発のほか、租税滞納、逃亡した組合員捜索などの連帯責任を負わされた。平安後期には崩れたとされる。
[毎日新聞2月11日] ( 2004-02-11-03:00 )
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/shakai/20040211k0000m040128000c.html