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新春会談 (六)
氏名:西尾幹二 日:2004/01/28(Wed) 10:43 No.52
1月12日14:00〜18:00の九段会館における、中西輝政著『国民の文明史』のシンポジウムは、予想するよりはるかに多い参加者を数えることができた。1000人をかなり越えたとの報告を受けた。
ロビーに『国民の文明史』を50冊積んでおいたら開会前にまたたく間に売れた。扶桑社の人がもっとたくさん搬入しておけばよかったと口惜しがっていた。司会の私は冒頭その報告をして、これはおかしな話で、当会場に来ている皆さんは予め読んでおくのが暗黙の約束ではなかったかな、と言ったらドッと会場が笑い声をあげた。会衆の照れ笑いである。
会衆の集まりの良さは、当日朝『産経抄』に石井英夫さんが『国民の文明史』の中から名文句を拾って、本日シンポジウムあり、と書いてくださった力が与って大きかったと思っている。当日売りが250もあった。また本にシンポジウムの広告を入れておいたことも有効だった。2月1日の大阪シンポも同様の大きな人の波が予想される。(念のため 午後2時〜、会場:大阪メルパルクホール、当日売りあり)
何といっても中西さんの本の、ことに後半の面白さが原因だ。巾広い知識、観察の鋭さ、日本の潜在力に期待を持たせる国民への明るい信頼の情、断乎決然たる意思的表現等々に魅了された人が少なくなかったのではないかと思う。彼の言葉には私流のペシミズムの悲劇的色彩がない。それは庶民の心に訴えるものがある。
彼は大阪の商家の出身であり、私は東京の山の手の中産階級の出身である。彼は神仏信仰の徒であり、仏教や心学に傾斜しているのも大阪の風土である。江戸時代を考えると私はすぐ儒学に傾く。江戸の仏教には関心がない。また、石田梅岩も山片蟠桃も私はピンとこない。それに、法学部と文学部の違いも今度鮮やかに意識された。勿論イギリスとドイツ、経験論哲学と超越論哲学との違いもある。
シンポジウムでは入江隆則氏と片岡哲也氏とが最初に発言し、中西歴史学に対しべた褒めだった。それはそれでいい。しかしこうなるとバランスというものがある。シンポジウムが面白くなくなる。私は悪役に転じた。
縄文と弥生というが、ご本に考古学上の内容の裏づけがない。ただの概念であり、図式である。それなら「停滞と自足」の原理と「変革と自覚」の原理の二軸がある、というふうに抽象的に言った方が無難ではないか。
弥生が800年も時代を遡ることが考古学の新しい展開で、長江文明の役割が大きくなってきた。中国大陸には長江文明と黄河文明という二つのそれぞれ別起源の文明があった。稲作は前者から、律令・文字・儒教は後者からきた。日本は縄文時代にすでに長江文明とつながっており、三内丸山もその影響下にあった。ヒスイの輸出など三内丸山から長江上流への文化伝播さえもあった。
今までの狭義の弥生は前300年ごろで、長江文明の影響と刺戟を受けて国家を建設したと考えられてきたが、これは間違いかもしれない。大陸からは二度の文化情報伝播があった。5〜6000年前からの長江文明のゆるやかな影響と前1000年ごろの水田稲作の到来。これを弥生とみなすとすると、後100〜600年の古墳時代における黄河文明の影響と、律令国家へ向けての自己確立は何と呼べばよいのか。
弥生時代が800年遡るという新しい年代測定による変革は、縄文と弥生の対立操作という従来の、ものの考え方の根底をぐらつかせているのが現下の状況だが、『国民の文明史』にはそれへの予感がない。(一寸付言すると、『国民の歴史』は上記の考古学上の認識の変化をすでに予測のうちに入れている内容になっていて、書き直しをほとんど要さない。)
勿論、『国民の文明史』には縄文と弥生というフレームワークにしばられている、叙述上の不自由を別にすれば、それ以外の中に数知れぬ面白い知見、大胆な観察、魅力的な主張が述べられていて、ことに後半、室町時代から以後は巻を置くに能わざるほど一気に引きこまれて読ませる。
『国民の歴史』では「中世」が書けなかっただろうと、私は網野善彦にくりかえし厭味や非難を投げつけられたが――単に時間の不足で書けなかっただけなのに――私がなし得なかった不足分を『国民の文明史』の室町期の叙述で、私が書きたかったと同じような内容として存分に描き尽くして下さって胸のすく思いである。
題:新春会談 (七)
氏名:西尾幹二 日:2004/01/30(Fri) 09:12 No.53
中西氏が明治と大正の違いを内村鑑三と吉野作造のキリスト教信仰の違い、西欧と日本を区別し、日本のアイデンティティを守った内村と、西欧と日本を区別できず、西欧近代を普遍とみなして国家意識を失った吉野の対立像でえぐり出したのは、文明批評としてじつに見事な分析というほかない。
さらに大正と平成の類似、軽薄な「改革」の波に翻弄される両時代、金解禁と普通選挙法の否定面、幣原外交の破壊的悪影響のあたりの記述も、平成の経済と外交の運営をめぐる失敗と重ね合わせてよめて、とても面白い。
戦後は丸山真男や大塚久雄の役割はそれほど大きくないと中西氏は言う。宮沢俊義、我妻栄、横田喜三郎の法学三悪トリオの日本文明への犯罪的破壊力のほうがずっと大きな悪影響を後代に及ぼした――との指摘も、法学部ならではの力強い発語である。
さらに比較文明論T、Uとして、イギリスと日本の比較、東南アジアに対するイギリスの植民地経営法の表裏ある狡猾なやり方等のテーマも、ご専門らしく伸び伸びと、ゆとりある叙述になっていて、尽きず飽きない。
こうしてみると本書は後半のほうが面白く、自由な叙述である。そして後半には縄文と弥生の物指しはもはや使えず、しばられてもいない。とすれば、この本は叙述の順序を逆にして、後半を前にもってきて、長い歴史叙述の中から「停滞と自足」の原理と「変革と自覚」の原理を導き出すようにした方がよかったのではないだろうか。その方が自然であり、歴史を二原理で無理に割った、図式にしばられたような概念操作のイメージを与えなかったのではないだろうか。
それからもう一つの論理上の矛盾は「文明論」という考え方そのものにある。「文明論」は一種の宿命論、運命論に傾きかねない。平安時代の300年間、江戸時代の300年間が縄文の時期であるとし、戦後平和主義の現代日本も縄文に陥っているという御説であるが、だとしたらわれわれは今後250年も今の「停滞と自足」の時代感情のままに過ごさねばならないのだろうか。(ここで観衆は察知してドッと声をあげた。)
さて私のこれらの批評に対し、中西さんは少し感情的になった。私のもの言いも無遠慮すぎたのかもしれない。中西さんは私が考古学の最近の当てにもならぬ新説をもち出して、それに振り回されているのは遺憾である、との指摘を主たる基調にする反論を行った。
他のパネリストと中西氏とのやり取りはここでは割愛させていただく。本シンポジウムは内容的レベルもかなり高く、1000人もの観衆が身じろぎもせずに聴き入っていた会場の静寂と反応には、私は司会者としての満足と感動を覚えた。内容の雑誌再録は、分量の多さから、残念ながら今回は見送られた。発売されるビデオを見ていただきたい。
シンポジウムが終って地下食堂で鍋をつつきながら懇親会が行われた。私の前の席に中西さんが坐わり、かけつけてきた西村眞悟氏が左の席に坐った。私と中西さんはわだかまりなく談笑した。中西さんは「坂本多加雄賞」のようなものは考えられないかとの提言を述べていた。二人が仲良く話しているのを、伊藤哲夫さんが遠くから心配そうにうかがっていた。後できくと実際に心配していたそうである。九段下会議でこれから共闘する仲間同士がここで喧嘩したら大変だと思ったらしい。でも、そんなことはないのである。心配ご無用である。
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