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学者仕事も善し悪し〜松浦玲「新選組」を読む〜 [閑日閑話:神津 陽氏]
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投稿者 あっしら 日時 2004 年 1 月 28 日 23:37:06:Mo7ApAlflbQ6s
 


学者仕事も善し悪し〜松浦玲「新選組」を読む〜 <その1> 投稿者:神津 陽  投稿日: 1月25日(日)00時01分41秒

 明治政府が明治七年に朝敵の汚名を外した後も、庶民の間で新選組は明治時代を通して語ることさえもタブーだったようだ。新選組の全容に迫る歴史研究は、新選組活動期から60年を経た昭和三年に子母澤寛「新選組始末記」と平尾道雄「新撰組史録」が出てやっと陽の目を見た。子母澤寛は主に日野宿の伝承を調べ、平尾道雄は町田市の名主家に残されていた史料を読み込んで取材を重ね、ともに近藤勇局長を主役とした系統的な新選組本をまとめたのだ。しかし現在に至るまで新選組研究の基本書として読まれている両書も、進歩史観が強かった歴史学界からは無視され、冷遇されてきた。朝敵新選組を歴史学者が評価対象にもしないという進歩的歴史観ゆえの偏見は、現在も続いているようだ。
 
 そんな学問環境の中で平成十五年九月夏に刊行された松浦玲の「新選組」は、歴史学界の幕末史研究の第一人者が初めて正面から新選組を扱った力の入った書下ろし本として、多くの読者の注目を集めている。史実を踏まえ新撰組の全体像を検討するには、新書版で年表・索引も付いたこの本は格好の入門書と言えよう。
 松浦玲は前書きで最近の新選組研究はスター性のある土方歳三と沖田総司に偏っていると指摘する。それは司馬遼太郎の「新選組血風録」と「燃えよ剣」のテレビ放映の主人公が土方歳三であり、テレビを見て司馬の本を読んだ世代が今の新選組研究家の最前線を担っているからなのだと言う。だから近藤勇は人気がなく、そのせいか勇が何度も郷里の知友に出した長い手紙類は殆んど無視されていると強調するのだ。
 そこで松浦はまともに取り扱われていない局長近藤勇の書簡類を並べて徹底的に読み込み、それらをベースに新撰組の真相を探り、伝聞的要素の強い従来の新選組の歴史に筋を通すと言う。ちょうどNHKの近藤勇中心の「新選組」放映が予定されていた折でもあり、時宜を得た好企画と言えよう。
 松浦玲は執筆準備中に近藤勇全書簡集の類の刊本はなく、町田市小野路の小島資料館の小島政孝氏が散逸している近藤書簡を長年収集していて近く刊行予定だと知る。そこで松浦と岩波書店は小島氏に頼み込んで原本や写本類を閲覧し、全文引用はしないと約束し、長文は引用せず地の文に組み込んで論じる工夫をして、大手出版社の刊行本では初めて近藤の未刊行書簡類を本格的に紹介することにしたのだそうだ。
 新選組関係の新資料や近藤勇の未公開書簡などは、小島鹿之助の直系子孫である小島政孝氏が地元の三十一人会発行の「幕末史研究」や「新選組研究」や小島資料館発行本でコツコツと紹介し続けている。だから松浦が未刊行の近藤勇書簡類に触れるなら、まず小島政孝の先行研究をきちんと評価するのが筋だろう。だが大手出版社の緊急企画でトンビが油揚げをさらうような強引な手法は、学者の仕事としては感心できないと苦言を呈しておく。 
 さて松浦玲は小島資料館などで所蔵してきた近藤勇の未刊行書簡類を精読して、何を発見したのだろうか。
 大手出版社の刊本では紹介されていない近藤勇の書簡を縦横に引用しつつ松浦は<武州多摩出身の近藤・土方らは佐幕攘夷思想を奉じて浪士隊から新選組の実権を握り、尊王派と抗争して池田屋事件を起こし、時代変化を読めず幕府に殉じ、新政府に抵抗して悲劇的結末を迎えた>との一般的新選組像に異を唱える。局長近藤勇は一貫して尊王攘夷思想の持ち主であり、偏狭な左幕派ではなかった。だが元治元年(一八六四)の池田屋事件直後の米英仏蘭四ケ国艦隊の下関砲撃で長州が敗れ幕府も恭順した後に考えを改め、「尊王」は放棄せぬが「攘夷」は捨てたのだと評価する。
 確かに近藤勇の書簡は、用向きだけ伝える土方歳三や沖田総司の手紙と違い、天下国家を論じて愛国心を吐露し文中に尽忠報国・赤心報国・捨命報国などの決意表明が乱舞する。だが日野市有山家蔵の書簡「志大略相認書」を見ても、近藤の尽忠報国の主意は国家的に攘夷を実現せよとの主張と解するのが妥当だろう。
 はっきりさせておくべきなのは開国か攘夷かは政策選択の問題であり、勤王か佐幕かは政策を実行する政体選択の問題だとの概念区分だ。幕府が開国を選び過激諸藩が攘夷を掲げたために、尊王主張は国家的統合シンボルとして幕府と過激諸藩の双方に使用されたのだ。四国艦隊下関砲撃により攘夷不能の認識が一般化する中で、政争軸は公武合体での幕府延命策か過激諸藩の勤王倒幕かに移ったのだ。近藤らは勤王倒幕を排し公武合体の国家統一を願い、公武合体が潰れたので取り残されて佐幕に殉じたのだ。

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学者仕事も善し悪し〜松浦玲「新選組」を読む〜<その2> 投稿者:神津 陽  投稿日: 1月24日(土)23時55分24秒

 安政五年(一八五八)に日米修好条約を結び開国を強いられた幕府の弱腰外交批判は国内に充満し、幕府は攘夷論懐柔策として文久三年(六三)浪士組を作った。近藤勇は攘夷即刻実行派との分離の密命を受けていた故に、清河八郎ら東帰後も京に残留した。そこで募集理由の将軍上洛警固にこだわる残留浪士組と将軍を滞京させ朝廷の影響力拡大を目論む過激諸藩が、清河らと縁切り出来たので即刻に東帰したい将軍家茂や老中を朝廷命令で押え込む。次に過激諸藩をまとめた長州が攘夷不能の幕府を勅命違反で追撃する方針に転じ、会津藩預かりの新選組は将軍東帰後の京都での討幕派監視と排除のため残留する。
 松浦は浪士組と過激諸藩は尊王攘夷思想で一致しており将軍滞京延長主張で歩調を揃えたと指摘する。だが尊王攘夷をどう進めるかの討幕主張を巡っては、新選組と勤王派は水と油の関係だったのだ。松浦の浪士組と勤皇過激諸派の同類視には、新左翼の□派と反米右翼の△派がアメリカのイラク政策を侵略行動だと非難しているから同類だと評価するような滑稽さがある。松浦の尊皇攘夷評価は、ポイントが思想ではなく政策に外れているのではないか。特定分野のある時点での政策内容が似ていても、それをどう実現するかの政権構想がまったく異なれば、思想軸が共通と言えぬのは理の当然だ。
 松浦が近藤勇の尊皇攘夷思想の一貫性に着目するのは学者的嗅覚の妙だが、近藤勇の尊皇思想で新撰組が動いてきたと考えると迷妄に陥るだろう。思想は個人に宿るが、時代環境と結合して他人に影響を与えるのだ。黒船級外圧が相次ぎ幕府が国辱的開国を強いられる中で、文久三年は松浦が言うまでもなく、殆ど外国事情も分からぬまま日本中が攘夷思想に沸いていたのだ。
 外圧が巨大だから反発根拠は各藩から国家大に拡がり、幕府が頼りないから尊皇による統一期待に傾く。当時の尊皇攘夷論は小インテリのハシカのようなもので、彼我関係が分かると尊皇倒幕に移行したのだ。このからくりは第二次大戦後の反米論とその終わり方でも同様だ。自衛隊イラク派遣に関して小泉首相は<いま反対が多くても、そのうち開国か鎖国かの論議のように必ず理解される筈だ>と述べるが、外圧に屈する選択としては同類だ。
 巨視的に見れば新撰組は時代変動を察知しつつ展望を見出せぬ幕府の弥縫策から生まれて捨てられ、自力で打開策を模索したのであり、思想的大義は貸衣装の類に過ぎない。
 松浦玲の近藤勇の尊皇攘夷論の変遷への評価には、阿倍公房が「榎本武楊」でフランス流の蝦夷共和国を掲げる武楊に土方歳三の滅び行く幕府への信義遵守を批判させたと同様の、人間の行動を知識や思想で測定する学者的な歪みがある。正しい理念が人間行動を促すとの理論主義の誤りは、政治の世界ではすでに明確になっているが、歴史学分野はまだ遅れているようだ。


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学者仕事も善し悪し〜松浦玲「新選組」を読む〜<その3> 投稿者:神津 陽  投稿日: 1月24日(土)23時50分20秒

 政府・政党は自らの掲げる天下国家主張実現に責任を持ち、時勢に外れたら潔く撤退・解党すべきだろう。だが行動集団は目的達成評価が出処進退の基準で、天下国家論議は道路標識区別ほどの意味しかないと考える。その観点を確認する意味で、松浦玲が刊本で最初に積極的に主張した近藤勇の「天狗」問題への新説を検討してみよう。
 つい先日だが新選組ファンの友人から「浪士組上洛後に近藤勇が天狗になったと、天然理心流の多摩組から非難されたことは知っているだろう。だが松浦玲が<天狗>の意味は、流布されている近藤勇が京都にきてから高慢な態度になって困ると同郷者が怒ったとの俗説ではなく、近藤が水戸の「天狗党」の芹沢鴨の同類になったと危惧しているのだと、新説を述べている」と連絡があった。まさかと読み進めると、確かにそのように書いてある。
 松浦玲は、文久三年に中仙道を上った浪士組の少し後に、東海道を将軍家茂に随伴し三月四日に上洛した井上松五郎の旅日記(日野市井上信衛家蔵。日野の古文書を読む会発行「八王子千人同心井上松五郎文久三年御上洛御供旅日記」所収)に注目する。
 のちの新撰組六番隊長井上現三郎の実兄の松五郎は八王子千人同心で、在京十日予定の公用で上洛したが六月まで滞在が延び、同時期に京都にいた浪士組の同郷者の消息も聞いている。
 先に壬生に入った浪士組では清河八郎が勤皇倒幕の上書を提出して主流は江戸へ帰還するが、尽忠報国の大儀にこだわる残留浪士は松平容保預かりとなり京都滞在延長となる。天延理心流グループを束ねる近藤勇は、残留浪士組代表格の芹沢鴨と組んで将軍東帰に反対し、書面作成や対老中交渉などに忙しく動いている。だが他のメンバーは初の京都で閑だが金もなく、着た切り雀でむさ苦しく、多摩の「だんべえ」言葉もバカにされ行き場もない。
 そこで浪士組の井上源三郎・土方歳三・沖田総司らの壬生屯所と、同郷の井上松五郎の二条の宿との行き来が始まる。松五郎は現三郎の兄で理心流道場などで顔見知りだったのか、浪士組の多摩連中は何かと理由を付けては酒席を重ねていたようだ。
 井上松五郎は京都への出発前の文久三年二月一日から七月四日の日野宿各所への帰郷報告まで、こまめに日記を付けていた。井上松五郎の「上洛日記」のうちで、松浦が特に注目するのは四月一七日の追加記入分だが、その内容は以下である。
  
  八木氏宅江参り 土方・沖田・井上二逢、
  万端聞承知いたし候、
  何分近藤天狗二成候而、他浪士・門人一同集 
  近藤二腹ヲ立テ下拙方へ談事、
  水・会 私一そんの取計ニ相成兼候間、
  何分宜敷御文通 願度候、 

 文面は<浪士組屯所で同郷の天然理心流グループから、道場主の近藤勇が最近どうも慢心し「天狗」になってしまい困っていると聞いたが、皆が「近藤二腹ヲ立テ」ていると言われても、自分の一存ではどう取り計らう事も出来ない>と困っているとの内容の単純な主旨だ。 <文通を願いたい>と書状の下書きのような形の走り書きだが、道場主の近藤勇と、同門で同郷の浪士たちと、理心流では近藤勇の兄弟子の井上松五郎の関係を考えると、気の置けない仲間内部でのグチ話のメモと読むのが妥当だろう。
 上洛してから何度も酒席をともにしている井上松五郎と多摩出身の浪士組の間では、多摩の各自の実家や日野宿や天燃理心流道場の様子を情報交換したり、時には天下国家を論じて浪士組の行く末を案じたかも知れない。雑談の折に当時四十歳で理心流の大先輩の松五郎に対して、芹沢鴨と共同歩調を取る近藤勇に対し、多摩組の意見を聞けとか、経緯を詳しく報告せよとか、皆も怒っているとか愚痴や不満が出た事は十分に推測できる。 
 だが松浦玲はこれは、文面どおりの単純なものではなく、近藤勇が天狗になったとは「芹沢鴨の同類になった」ことだと新説を披瀝する。浪士組結成の翌年の文久四年の天狗党筑波山蜂起は有名だが、もともとは水戸天狗とは天保期の藩政改革派への呼名で、改革派の分裂後は過激派の下士や浪士が天狗党とされ、水戸城下を離れて流浪する者も多く、浪士組入った芹沢鴨らも天狗党の一部だと、松浦は言う。天然理心流多摩グループは、近藤勇が芹沢に接近し天狗党になると、残留浪士組の連名序列の上位は天狗党一色になり、天狗党に支配される事を危惧し怒っているのだそうだ。
 だがこの松浦玲の新説は早とちりの暴論だと考える。

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学者仕事も善し悪し〜松浦玲「新選組」を読む〜<その4> 投稿者:神津 陽  投稿日: 1月24日(土)23時44分54秒

 松浦玲が引用する「御上洛御供旅記録」によると、井上松五郎と浪士組の面談と酒宴は3月6日に始まり8・13日、更に4/8・10・17・20・22・24日、5/22、6/1と続き、6月10日大坂での松五郎送別会で終わる。だが近藤天狗問題と関連がある記述は、4月8日に井上源三郎・土方歳三から「近藤事聞」と、4月10日に源三郎と歳三と話したが「芹沢殿心差ヲ認事弐人共差留て居候」との二日だけだ。水戸天狗党の名前は出て来ぬし、「芹沢殿心差」は決意であり天狗党主張とは読めない。
この時期の源三郎や歳三が近藤を通して芹沢の考え方を聞く以外に水戸天狗党への予備知識を持っていたとは思えない。この件に関し松五郎が佐藤彦五郎などに連絡した書状は出ていないし、近藤勇と芹沢鴨はこの天狗話のあとも更に親密に将軍再滞京運動を続けている。近藤と芹沢は将軍帰府決定後も滞京新方針で一致しているのであり、多摩組から格別の不満も出ていないのだ。
 この件で松浦玲が、近藤勇の芹沢鴨への接近を、近藤が芹沢に洗脳されて天狗党になったとか、浪士組が天狗党に乗っ取られると多摩組が戦戦兢兢だと考えるのは、史実的裏付けがない。また多摩在住者なら知ってる者の多い常識的推測とも合致しない。

 多摩在住者の目から、近藤天狗問題に少し付言しておこう。
新選組関連「年表」を見ると、文久三年二月末の浪士組京都着から四月十七日の松五郎の天狗問題記載までの間に、清河八郎ら本流の東下、近藤・芹沢グル―プの京都残留陳情、残留浪士の会津候預り、何度もの将軍滞京延長交渉と事件が続く。前出の「志大略相認書」を見ると、清河ら主流派の東下後の芹沢・近藤らの残留派は、残留=存在根拠を掛けて在京幕閣幹部と将軍滞京延長による攘夷実現を繰り返し交渉しており、連名書執筆を含め代表は水戸出身の芹沢鴨で、近藤勇は多摩組を代表し協力している。
 江戸の試衛館で長く共に起居し日野道場はじめ多摩一円で天然理心流を盛り立ててきた多摩組の連中が、金もなく路線も確定せず見ず知らずの京都で「合宿」していれば、仲間うちの近藤勇の芹沢鴨との接近や意気投合が面白い訳がない。
 近藤勇の発言が急にインテリ的になり、壮士風に天下国家を憂える大演説を始めたり、説明不足のまま芹沢鴨執筆の連名書に署名を求めたりすれば、他の多摩組の連中がやっかみ半分で「多摩の百姓上がりが格好付けるんじゃないぜ」と不満を持ち、同郷の先輩の井上松五郎に<近藤勇は身のほどを弁えず、天狗になって困る>とぼやいても少しも可笑しくはない。
 しかし多摩組の連中は近藤勇の芹沢鴨との急接近に不満を持ちつつも、対外折衝を近藤に一任し、近藤も必死に打開策を模索している。だから近藤は郷里の支援者一統に対し天然理心流多摩組はここまで頑張っていると「志大略相認書」を書き送って理解を求めるのだし、土方もその三日後に「委細は近藤より申し上げ奉り候」と相互信頼の上の分担協業を述べる。多摩組も芹沢案と分かっていても近藤の求めに応じ連名書に署名しているのだ。
 この時期の近藤と他の連中の動きの違いは、相互確認のうえの任務分担である。事情は分かっていても面白くない多摩組連中が<近藤は芦沢に接近し有頂天で天狗になっているようだが、もしかして本物の天狗党になっちまうんじゃないか>と冗談話が盛り上がる事もあったかも知れない。だが近藤勇は井上松五郎より一回り歳下だが師匠筋に文句を言う立場ではないし、佐藤彦五郎も同様だ。近藤が生真面目に皆のために頑張っている事は郷党もよく知っている。そこで多摩組の近藤天狗批判のグチは聞くが、外から介入はできないと言う意で「自分の手にあまる」と書いたのだろう。これが「天狗」問題の本筋の読解だと考える。
 なお芹沢鴨は天狗党グループにはいたが、直情的な殺人事件を起こし浪士組参加時は除名されている筈だ。さらに井上松五郎は八王子千人同心の公職に就いていて、水戸天狗党情報も芹沢鴨の何をするか分からない粗暴な性格も承知している。実際に近藤勇が水戸天狗党グループに組織的に接近する感触があるならば、郷党有力者に相談する以前に、状洛中の上司に報告する筈だ。実際、井上松五郎はこの近藤勇天狗問題の起きた翌年の元治元年(一九六三)十二月には天狗党蜂起鎮圧の職務に出動している.
 つい最近に開館した日野市本町の井上源三郎資料館には、松浦が着目した松五郎の日記中の「近藤天狗問題」の箇所の現物が展示されている。 松五郎の子の井上泰助の曾孫の井上雅雄氏はこの近藤勇天狗問題について異説があることは承知していると言うが、現物の解説文は従来の通説どおり<近藤の高慢な態度に不満を述べた>旨になっている。なおこの「近藤天狗問題」に関して、異説を書いた松浦玲氏や岩波書店からは、何の連絡もなく問い合わせも来ていないそうである。 

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