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三神たけるのお伽秦氏
「天神・少名彦命」
三神たける
1月19日
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大阪に「服部天神宮」という神社がある。天神とあるように、ここでは菅原道真を祀っている。神社の由来によると、かつては神社の傍らにあった祠に菅原道真を祀っていたものを天神信仰の高まりとともに、合祀するようになったのだという。つまり、服部天神宮の天神とは、この菅原道真に由来するらしい。
しかし、実際にご当地に足を運ぶと、意外なことが見えてくる。服部天神宮の服部とは、もともと地名からとったもの。かつては、ここ一帯は機織部が数多く住んでいた。機織部の中心は、いうまでもなく秦氏である。服部氏が秦氏であることは有名だ。服部天神宮も、古くは秦氏が創建したものであると社伝にはある。
面白いのは祭神である。服部天神宮は少名彦命を祀っているのだ。少名彦命は、名前の通り、体の小さな神。大きな体の大国主命とペアで、国土を開発したといわれている。
また、古くから少名彦命は医薬の神であるともいわれ、病を治す温泉の発見者として崇拝されることが多い。大陸の進んだ医療技術をもっていた秦氏は、医薬の神として少名彦命を祀ったのが服部天神宮のはじまりであろうというのだ。
さて、ここで先に掲げた天神の由来である。本当に、服部天神宮の天神は菅原道真のことだったのだろうか。もともと天神を祀っていたところへ、菅原道真への信仰が高まり、天神を抱き合わせで祀ったとは考えられないだろうか。
その理由は、少名彦命だ。あまり知られていないが、少名彦命は天神でもある。京都の五条天神の例に見るように、少名彦命を天神として祀る神社がある。一般に、天神は天の神、天空の神。その性格を畏怖とともに象徴されるのが雷だ。天神は、イコール雷神でもある。北野天満宮の本当の由来が、実は火雷神を天神と祀る信仰にあるのも、そのためである。
では、少名彦命が、どうして天神、すなわち雷神なのか。この理由は記紀神話を眺めても、答えは出ない。
鍵は秦氏が握っている。かつて、日本に大量にやってきた秦氏は、その高度な技術を見込まれて全国に入植させられた。結果、広まった分、勢力が弱くなったときがある。雄略天皇の時代だ。これを憂いた秦氏の首長、秦酒公は同胞を集めてくれるように願い出た。膨大な貢物をしている秦氏の願いである。天皇も、快く承諾。配下の者を遣わし、秦氏を中央に呼び集めた。
と、このとき秦氏を集めたのが小子部雷という人物だ。雷と書いてスガルと読む。彼は雷神にも見立てられるほど力をもった人物であった。が、その一方で小子部という姓は、どこか小人を思わせる。つまり、小子部雷には小人の雷神というイメージがある。これは、そのまま天神・少名彦命のイメージだ。
これは、恐らく偶然ではあるまい。天神・少名彦命には、小子部雷の姿が投影されているのである。はたして、これが意図的なのか、それとも習合してしまったのかは不明だが、担い手が秦氏であることは間違いないだろう。
なぜなら、少名彦命を医薬の神として崇めたのが秦氏なら、小子部雷は秦氏一族の恩人であり、しかも彼自身、秦氏であったからだ。小子部氏は、多氏と同族。小子部雷を祀った神社は秦之庄にあり、近くに多神社もある。多氏は秦氏の支族であったのである。
そう考えるとき、筆者には、この小さい雷神が、どこか12使徒のひとりヨハネに思えてくる。ヨハネはイエス・キリストにもっとも愛された弟子のひとりで、福音書とともに黙示録を書いた人物である。彼は気性が荒く、兄弟のヤコブとともにイエス・キリストから雷の子「ボアネルゲ」と呼ばれていた。ヨハネは12使徒のなかでも、もっとも若い人物であったらしく、最後の晩餐においては隣に座って、イエスの胸に寄りかかっていたともいう。
さらに、一説には、ヨハネはイエスが再臨するまで死ぬことはないともいわれた。
もし、雷の子と呼ばれたヨハネが古代の日本を訪れていたとしたら、どうだろう。ユダヤ人原始キリスト教徒であった秦氏は、全国各地から、こぞってヨハネのもとに集まったに違いない。そこで彼は、雷の子という称号から、日本名で小子部雷と名乗った可能性はないだろうか。
もちろん、これは仮説だ。壮大な空想といっていだろう。だが、そんな空想がリアルに思えてしまうほど、秦氏がつむぎだす伝説は奥が深いのだ。
http://www.kitombo.com/mikami/0119.html