現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ33 > 326.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
★私は正月休みに中沢新一著『精霊の王』を読んでいた。この本は柳田国男の『石神問答』の問題意識を引き継ぐものであり、そのテーマとなったのが、縄文に遡る古層の神である宿神(シュクジン)=石神(シャグジ)であった。
このシャグジは今日でも東日本では広範に信仰の名残が存在するという。(西日本では被差別部落民の神として残存したようである。)
さてこの記事にある遺跡名の石神というのも”シャグジ”ではあるまいか?
この遺跡については、他にも周辺に「狄ケ館」(アイヌの館?)や十三湖(中世の安東氏)が存在し注目している。(シジミ)
________________________________________
(以下東奥日報記事)
http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2004/0118/nto0118_7.html
森田村教育委員会が国の史跡指定を目指し発掘調査している同村の石神遺跡で、発掘された縄文時代の遺構や出土物を調べた結果、江戸時代に床舞地区から弘前藩に米を運んだ御蔵道(おくらみち)沿いに遺構が多く、この道が縄文時代からあった可能性が出てきた。縄文人たちは何百年かの期間を経て、遺跡周辺で丘陵地帯から水辺に集落を移動したと考えられることも分かった。十七日、村中央公民館で開いた発掘調査報告会で村教委の佐野忠史学芸員が発表した。
石神遺跡は約六千−四千年前の縄文時代前期から中期を中心に縄文後期、中世までの複合遺跡。縄文時代の円筒土器や土偶、石器が多数出土し、二百十九点が国重要文化財に指定されている。
二〇〇三年度は遺跡の範囲を確定する目的で発掘し、縄文中期の円環状配石遺構(ストーンサークル)が初めて見つかり、中央部の土中から墓壙(ぼこう)も確認された。御蔵道沿いには、ストーンサークルのほか数カ所の墓壙や石器製作場とみられる遺構もあり、縄文時代から道があった可能性が高くなった。
これまでの調査結果を基に、佐野学芸員は(1)遺跡南部の土器や住居跡は縄文前期中葉(約五千六百年前)のもので、北部の主な出土物より数百年古い(2)このことから、石神遺跡の人々は南の丘陵地から次第に北の、現在の狄ケ館(えぞがたて)ため池近くの水辺に生活圏の中心を移したと考えられる(3)移住の理由は、縄文時代の海進で石神遺跡に迫っていた汽水の古十三湖で捕れる魚介類を食料にしたのではないか−と推論する。
石神遺跡より南西部にある八重菊、鶴喰遺跡からは縄文時代草創期から早期(約一万年−九千年前)の土器も出土しており、数千年にわたって人々が移住し生活していたとみられる。
石田榮市教育長は今後の調査について「石神遺跡の発掘成果を基に、〇四年度はさらに南の藤山地区の調査を続け、範囲を確定したい」と話していた。
※写真=御蔵道沿いで2003年度出土した縄文中期のストーンサークル。中央部の土中で墓壙も見つかった