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中東には、「アメリカン」という名を冠した大学が、二つある。
レバノンにあるベイルート・アメリカン大学では、今から20年ほど前、マルコム・カーという著名なアラブ研究者が学長を務めていた。宣教師の両親を持つ彼は、ベイルートで生まれ育ち、アラビア語に堪能でアラブを理解し愛した、アメリカ人の歴史家である。彼のレバノン近代史に関する著作は、私の卒論のタネ本でもあった。
そのカー教授は84年、大学の講堂でイスラム過激派によって暗殺された。イスラエルがレバノンに軍事侵攻して2年がたち、アラブ・イスラム世界ではイスラエルとイスラエルを支援するアメリカに対する反感が、頂点に達していた時期のことである。
もうひとつの、カイロにあるアメリカン大学には私も在籍した。90年代の後半ともなれば、アラブ世界の中心たるエジプトとはいえ、「反イスラエル・反米」といったスローガンは風化しつつあった。
あるとき大学の教授陣が、今後の国際交流について議論していて、若手のエジプト人助教授が何げなく言った。
「そろそろイスラエルの大学と交換留学を始めてもいいんじゃないの?」
それを聞いて机をひっくり返さんばかりに怒ったのは、アメリカン大学に勤めて何十年にもなる、金髪碧眼(へきがん)、生粋のアメリカ人のおばあちゃん先生だった。
「あなたね、私たちが『アメリカン』の看板のもとでどれだけ苦労してきたと思っているの。アメリカはいつもイスラエルを支援ばかりしている、アメリカン大学はアメリカ帝国主義の手先だ、なんて言われ続けてきたのを否定し続け、そうじゃないことを証明するために一生懸命やってきたのに、そんな簡単に『イスラエルと交換留学』なんて、言わないでちょうだい」
アラブ滞在の長いアメリカ人教授たちは、「アメリカ」という看板のもとで、アラブ世界の激しい反イスラエル、反米感情の矢面に立たされてきた。そのなかで、「自分たちはアラブの理解者なんだ」ということを現地の人々に理解してもらうのに、どれだけ長い年月を費やしたことか。
善意と愛情をもって他国で働くとき、個人の意向が、自分の国の政府の、その国に対する政策と食い違っていなければ特に問題はない。だが知らず知らずの間に、「看板」が個人の意図とは別に、その土地の人々から反発されるようなメッセージを発し、「その看板を掲げるものすべてが敵である」と見られるようになったとき、個人は掲げられた看板の内容に、いや応なく責任を取らなければならなくなってしまう。
善意で動いていた人も、看板の内容次第で「侵略者の手先」と見なされ、命を失うことにもなってしまうのだ。
国民ひとりひとりには、看板を書き換える力はない。こんな看板は掲げていきたくないと考えても、看板を捨てることはできない。看板を負うことによって、負わされた人たちがどのような危険と懊悩(おうのう)にさらされることになるのか、そのあまりにも重い責任を、看板の内容を書く政治家たちが熟知していてくれることを、心より願う。
http://www.be.asahi.com/20040110/W12/0022.html