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http://faculty.tama.ac.jp/aoyama/no4/143.htm
143 外債だよりの戦争 01.5.16
1904年の5月は、わが国が国際金融市場で認知されたときであった。5月11日、英国で1000万ポンド(1億円)の公債発行が成功したのである。「高橋是清自伝」から、そのイキサツを紹介しよう。
日露戦争は2月にはじまっていた。だが、わが国には戦費がない。政府が外国で債券を発行して、戦争に必要な資金を調達するほかなかった。この大任をまかされたのは、日銀の副総裁であった是清だ。かれのそれまでの人生はまさに波乱万丈であったが、その経歴が外債発行にも役にたった。
わが国が外債を発行するのは初めてではない。1870年、1873年に実績があり、1899年6月には是清が米欧を訪問して、1000万ポンドの外債をロンンドンで発行している。その経験もこの日本の非常時に役立った。
是清は少年のころ、仙台藩から横浜へ英語の勉強のため派遣されて、ある英国銀行のボーイとして働いていた。そのときの上司がシャンド氏という人で、日露戦争の資金調達に行った頃、バース・バンクという銀行のロンドン支店長になっていた。最初は米国へ行って、そこでの外債発行は見込みがないとして、すぐロンドンへきた是清は、シャンド氏の紹介でバース・バンクの頭取をはじめ、ロンドンの銀行界の大物と次々に会い、わが国の外債発行の交渉をすすめる。話がすすんだとき、是清の選択は銀行団に外債発行をまかせるか、ロスチャイルドのような個人の大資本家にまかせるか、であった。そのときも、かねての人脈が役だって、適切な人からアドバイスを受け、ロスチャイルドのような、利益をすべて自己の手におさめる個人資本家とちがって、銀行の利益は多勢の株主のものである、したがって、銀行は債券の発行もむやみに自己の有利な条件を主張することはなく、正当な条件なら納得する。日本政府にとっては、ロスチャイルドよりは銀行団に外債を引き受けさせるのがよいと判断した。
ロンドンで500万ポンドの外債募集のメドがついた。その内祝いとして、是清の友人であるヒル氏が晩餐会をひらいてくれた。そこへ米国クーンロープ商会の首席代表のシフ氏がきていた。是清はシフ氏に日本の現状、見通し、今回の外債募集について説明した。おどろいたことに、翌日シフ氏が、ロンドンでの募集額とおなじ500万ポンドを、クーンローブ商会が一手にひきうけて、米国で販売すると申し出があった。
それで、当初の予定1000万ポンドの募集は成功した。
日露戦争の戦費はどんどん増加して、明治政府は是清に最初の1億円にあきたらず、外債の追加募集を依頼する。結局、どのくらいにふえたか。高橋亀吉の「財界変動史」によれば、日露戦争の戦費は約20億円、うち10億円は是清が尽力した外債、6億8千万円は国内債に依存した。戦争には勝ったが,賠償金は入らない。
外債の担保は日本の港にある税関の関税収入であった。われわれの先輩たちは「坂の上の雲」をみながら、建国につとめた。それを支えたのが、是清の海外での資金調達力であった。
外債の償還はあとで、わが国のたいへんな重荷になるが、日露戦争に負けなかったことには、軍人ではない是清が大きな貢献している。わがくには100年以上まえから国債の負担に苦労してきた。だが、是清の時代はわが国も外国で公債を堂々と発行できるようになったことを、よろこんだ時代であった。