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「悪の検事総長・原田明夫」の権力犯罪を弾劾する――「三井環不当逮捕」は「現代のドレフュス事件」である(その1) 04・2・21
昨年6月の本サイトで、「三井環氏と私の思い出」ということで、「三井環不当逮捕」のことを取り上げましたが、たまたま昨日(2月20日)、東京はお茶の水の中央大駿河台会館で、三井氏の講演会があり、私も傍聴に行ってきました。
講演で三井氏はいきなり、「私が悪徳検事の三井環です」とギャグをかまして会場の笑いを取ってから、本題に入っていきましたが、そこでは聞くもおぞましい検察最高首脳の頽廃ぶりが明るみにされました。そこで、三井氏が昨日の講演で披露したネタをここで明かすとともに、今回はさらにもう少し踏み込んで、法務・検察ぐるみでの「デッチ上げ」であるこの事件の背景を解説していきたいと思います。
いやあ、この事件は知れば知るほど、トンデモナイというか、この「自・公全体主義政権」であるがゆえに、出るべくして出た権力中枢の恥部という思いを強くしています。
講演のタイトルは「戦後最大の検察スキャンダルとメディアの責任」ということで、問題の本質はズバリ、これにすべて集約されていますが(笑)、で、私は講演を終えた三井氏と握手を交わし、しばしの再会を楽しみました。
会うのはちょうど私が毎日新聞の高知支局時代以来ですので、ほぼまる13年ぶりです。しかし、三井氏の顔だちあの当時とほとんど変わりがなく、顔色のツヤもチョーよくて元気マンマンだったことに私もうれしかったのですが、「いやー、古川君も全然、かわっとらんなあー」と三井氏に言われて、何と感じていいのやら(#未だにワシは大学生と間違われるしな)。
じつは、講演に向かう前に、三井氏が不当逮捕から325日間の拘束を経て、保釈後の昨年5月に光文社から刊行した『告発! 検察「裏ガネ作り」――口封じで逮捕された元大阪高検公安部長の「獄中手記」』を買い求め、しばし、読みふけっていました。
三井氏とは、ちょうど私が記者1年目である毎日新聞の高知支局で事件担当をしていたときに、氏が高知地検の次席検事だったこともあって、しょっちゅう官舎に夜回りに行ってネタを取っていたという思い出は昨年6月の本サイトで書きましたが、なぜ、彼が検事を志したかということを、この本を読んで私は初めて知りました。
本に書かれてある、三井氏が交通事故に遭って九死に一生を得た際に、輸血が原因で肝炎にかかり、酒が一滴も飲めなくなったということは、既に当時、知っていましたがでも、「どうして検事を志したのか」というところまで、なかなか夜回りで話すことはありませんでしたので。
んで、三井氏が検事を志した動機が「河井信太郎の生き方が好きだったから」というのを聞いて、「ああ、やっぱりそうだったのか」と、「なるほど」と改めて納得した次第です。
「河井信太郎」という人は、まさに「知る人ぞ知る人物」で、「特捜の鬼」と言われていた検事です。そもそも捜査の根底に「何が真実であるのか」ということを愚直に追い求めて、それを実践した人です。
昭和電工事件、造船疑獄といった、戦後の名だたる大贈収賄事件を摘発し、その膨大な帳簿の中から、サンズイ(=汚職)に至るカネの流れを掴んで、事件にもっていく手法を編み出し、東京地検特捜部の「帳簿捜査方式」の産みの親ともいわれています。
たまたま昨日の講演が、中央大のお茶の水キャンパスのあった場所で行われたのですが、三井氏もその中央大の出身で、退官後の河井信太郎が出身校の中央大で教鞭を取っていたため、学生時代、河井氏の授業を取っており、その薫陶を受けたことが、検事を志した動機にもなっているといいます。
「生まれ変わっても、また、私は検事になりたい」
昨日の講演の中で、私の心にいちばん響いた彼の言葉でした。
法務・検察内部では、戦前の思想検事の流れを酌み、時の政権中枢と癒着する「永田町派(公安派)」と、敢然と権力中枢の汚職に切り込んでいく「現場派(捜査派)」の二つの流れがあり、この河井信太郎とは、まさに「現場派のエース」でした。
そこで有名なのは、昭和20年代に起こった造船疑獄で、佐藤栄作、岸信介ら与党の超大物議員が捜査のターゲットになりますが、当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、犬養法務大臣の「指揮権発動」によって、捜査がストップし、逮捕を免れます。
それを現場で指揮していたのが、河井信太郎だったのですが、こうした「上からの圧力で事件を潰された」ことに、河井は涙を流して、膝を叩いて悔しがったといいます。
こうした「永田町派VS現場派」のストラグルは、その後も綿々と続いてきて、現在に至っていますが、法務・検察の戦後史で見た場合、じつは「99年体制」の確立と相まって、こうした「現場派」の息の根が完全に止められてしまった象徴が、じつは今度の「三井環不当逮捕」であるようにも思います。
確かに、今度の「三井環不当逮捕」は、それ自体がそもそもトンデモナイ人権侵害であるのは間違いないのですが、99年以降の「政局的文脈」で見た場合、この事件は本当に重いというか、根の深い問題を秘めています。今回はそこにも目を配らせて、論じていきたいと思います。
そこで昨日の三井氏の講演に戻りますが、調活(調査活動費)という名の裏金づくりを検察が組織ぐるみで行っていたということは、ほぼ大体の人は知っていると思いますので、問題は、その実態を三井氏が大阪高検公安部長という現職のまま、内部告発をしようとしたところ、最高検検事総長の原田明夫とその2、3人の側近が共謀して、三井氏を口封じのために不当逮捕にもっていったということも、既によく知られていることだと思います。
最近、北海道警で署長も勤めた元幹部が実名でケーサツ内部の裏金づくりの告発を行ったことで、ケーサツという「対岸」で裏金問題というボヤが上がってきているようですが、ケーサツと法務・検察の裏金づくりで決定的に異なる点(架空の情報提供者をデッチ上げるなどの手口はクリソツですが)とは、ケーサツは上はサッチョウから下は所轄警察の係長まで、全体的に満遍なく「裏金づくり汚染」が蔓延していましたが、その点、法務・検察だと、そうした裏金の恩恵にあずかれるのは、地検では検事正、高検では検事長、最高検では検事総長と、いずれも組織のトップだけだったというところです。
んで、その調活の金額(年間)は、東京地検で3000万円、大阪地検で2000万円、それ以外の中小地検で400―500万円ということで、実際、三井氏がその調活の裏金づくりの全貌を知ることになる高知の場合だと、年間400万円で、検事正の判断ですべて好きなように使いまくれるってことで、法務省や高検の幹部が視察に来たときに、接待したり、酒の好きな人は夜の街で酒を飲み倒したり、ゴルフが好きな人はそのカネでゴルフ三昧に明け暮れるといったふうに、まさに「裏金」ですから、検事正(検事長、検事総長)の独断で好き放題に使えるというわけです。
調活とはもともと、公安マターにおける過激派対策と称して、その調査のために使うために設けられたもので、戦前に思想検事がいたころはちゃんとそういう本来の目的で使っていたようですが、戦後のいつの頃かわかりませんが、そうした「過激派対策」は表向きだけになってしまい、検察トップが使える「裏金」として、代々、受け継がれてきた「既得権」になってしまったとのことです。
ところが、外部に対しては、ナントカの一つ覚えのように「捜査の秘密」をタテに(このあたりの隠し方もケーサツとクリソツですが)、会計検査院のメスも入ることができない、まさに「聖域」だったのです。
そこで面白かったのは、会場から「検事正クラスなら、手取りの年収が軽く1000万円を越えていて、カネに不自由しているとは到底、思えないのに、どうして、そんな裏金づくりに手を染めていたのか」という、何とも素朴な質問が出たことでした。
一つには、そうした裏金づくりが内部では「当たり前」として行われていたため、「おかしい」という感覚がなかったこともありますが、それがまさに「既得権」の「既得権」たるところでしょう。
そこで、三井氏が言っていたのは、こういうことです。
「警察だったら、裏金づくりの問題が表面化した段階で、幹部が謝罪して、処分者を出している。ところが、法務・検察はこのごに及んでも、まだ、『裏金づくりは事実無根』と言い張っているんです。だって、もとは血税ですよ。外務省などの他の役所の人間がやったら詐欺で摘発されるのに、まったく同じ犯罪を犯していても、自分たちだけは刑事責任を問われることがない。おかしいですよ。もし、私が本で書いていることが『事実無根』であるとすなら、明らかな名誉毀損だ。名誉毀損でも誣告罪でも早く私を逮捕すればいい」
さて、そこで三井氏が調活の内部告発を行ってきたことを、時間軸を追って見ていきますと、まず、99年1月に調活に関する「正義を求める検察組織の一員から」という内部告発文書が大手紙や民主党の菅直人、国民会議の中村敦夫らの国会議員に出回ったことで、これをきっかけに法務・検察の内部であわてて“綱紀粛正”を目指す動きが出てきます。
というのは、そこに書かれていた内容が「真実」だったからですが、じつは、この「正義を求める検察組織の一員」というのが、当時、名古屋高検総務部長の三井氏だったのです。
そこで、三井氏によれば、現場サイドでは「これを機会にこうした悪習は止めて、調活は廃止しよう」という声が大勢だったにもかかわらず、法務・検察のトップは、ここで調活を減らしたり、返上したりすると、大蔵省に睨まれて、「んじゃあ、今まで何に使ってきたんですか」と突っ込まれるため、「少しずつ、減らしていこう」ということで、そういった指示を口頭や文書(調活マニュアル)で行います。
しかし、法務・検察の首脳は「ここでこの問題を大新聞が書いて社会問題になったらどうしよう」とビビリまくっていましたが、その矢先に、あの「則定愛人スキャンダル」が、99年4月発売の「噂の真相」(同5月号)で発覚します。
これは朝日新聞が1面トップで後追いしたこともあって、当時、東京高検検事長で、「次期検事総長はまず間違いない」と言われていた則定が、何と、その3日後に辞職することでケリがついたのですが、三井氏によれば、彼が辞めた「真の理由」とは、愛人問題というチンケなものではなく、「このまま彼が辞めなければ、調活の裏金問題が波及してくる」ということからの、法務・検察首脳による“妥協の産物”だったといいます。
それゆえ、99年度は各地検、高検で知恵を絞って(笑)、著名人を呼んで講演したり、検察OBを使って何とか“正当”な目的で(というより、それまでは架空の領収書を切っていたのを、いちおう実在する名前の領収書を切るようになっただけですが)、使い切ることができたわけですが、2000年度に入ると、「喉元を過ぎれば熱さを忘れる」のことわざ通り、徐々に元に戻ってきたといいます。
そんな最中に、99年7月、三井氏は名古屋高検総務部長から、大阪高検公安部長へ異動になります。
そこで、三井氏と加納駿亮との確執を説明しますと、加納駿亮は三井氏が高知地検次席検事(88年4月〜91年3月)時代に仕えた3人の検事正のうち、いちばん最後の3人目の検事正です。
私は88年8月1日付けで毎日新聞高知支局に異動になって、91年4月まで同支局にいたので、三井氏とはまるっきり重なっているのですが、ただ、最後の3年目(90年4月以降)というのは、サツ回りを離れて、行政担当になっていたので、検察庁へは足が遠のいていました。
そのため、最初の2人の検事正はチョー仲良しだったこともあり、よく官舎にも夜回り(=夜遊び)にも行ったのですが、この3人目の加納というのは、確か1回くらいあいさつで検事正の部屋に行ったことは覚えていますが、私が事件持ち場という担当を離れていたこともありますが、前2人の検事正と比べたら、ムッツリというか、愛想がないというか、陰気な感じだったのを覚えています。
んで、三井氏も高知地検時代はフツーに「上司と部下」という感じで、滞りなく仕事をやっていたようですが、その加納との確執のきっかけとは、96年11月に京都地検が着手した京大付属病院の臨床試験を巡る贈収賄事件でした。
こういう独自捜査というのは、高検に報告し、高検の指示を仰ぎながら着手するのですが、この事件を大阪高検で指揮したのが、当時次席検事だった加納でした。
んで、このとき三井氏は大阪高検のヒラ検事で、京都地検の担当だったのですが、着手の際、出張で姫路に行っていて、捜査内容の報告を聞いておらず、戻ってきたときには、既に講師が逮捕されていたのです。
ところが、三井氏が資料に目を通すと、内偵不足が明らかで、聞けばその日に教授も令状を取って、逮捕する予定になっていたといいます。その結果、何とか三井氏の進言によって、教授逮捕はストップさせるのですが、何とそのことを加納が根に持って、その後、人事でいろいろと三井氏に冷や飯を食わせようとしたというのです。
というのは、三井氏は高松地検次席検事時代に、香川医科大などにおける新薬の臨床試験を巡る贈収賄事件を独自捜査で摘発していて、1年がかりで裁判でも有罪を勝ち取っていた経験があったため、「これでは公判維持は無理」と判断したわけです。
ここの経緯について、三井氏は昨日の講演でも少し触れていましたが、京大病院の事件では、カネの趣旨がチョー曖昧というか、「論文掲載の謝礼」という名目で出ていたため、賄賂姓がなかったとのことです。
そういえば、こうした新薬の臨床試験をめぐる贈収賄については、確か三井氏が高知地検の次席検事時代にも内偵していて、私がしょっちゅう、次席検事の部屋や官舎に遊び(=取材)に行ってたときに、「資料だけでこんなに分厚くて、それを読んで分析するだけで一苦労なんや」とこぼしていたのを覚えています(結局、高知のときは内偵だけで終わり、着手にまで至りませんでしたが)。
京大病院の事件は、逮捕した講師は処分保留で釈放され、ほとぼりも冷めて、世間の関心もなくなった97年3月頃、起訴猶予処分としました。
本来、独自捜査で失敗したのであれば、検察側もそれなりの責任を取って、処分を科すというのが「信賞必罰」という組織運営の鉄則です。
ところが、加納はその責任を取るどころか、自らの判断ミスを隠すため、当時の京都地検次席検事と特別刑事部長を異動で昇格させてしまったというのです(ちなみに、三井氏も高松地検次席時代に、捜査で同じように失敗したとき、処分を受けていると手記の中で明かしています)。
つまり、三井氏の“悲劇”の始まりは、本人が捜査官として優秀でありすぎたたところに、無能な上司に仕えてしまったのが運の尽きです(笑)。
まあ、そういう無能オヤジは潰れかかっている会社組織には、どこにも掃いて捨てるようにいますが(特に私のいた大新聞がそうでした)、要するに、そういったキャパのないバカオヤジの嫉妬、イヤガラセ、イジメに三井氏が運悪くターゲットになってしまったということでしょう。
こういう状況を見て、三井氏は「関西検察はアカン」と(検察庁も、私のいた毎日新聞と同様、東京と大阪で組織的には大きく二つに分かれています)、当時の大阪高検の検事長に「東の方に出させてほしい」と申し出たところ、98年4月に名古屋高検の総務部長に転出することになったということです。
そのときも、法務省サイドは高松高検の次席検事のポストを提示していますが、関西検察の実力者として君臨していた加納が「NO」と言ったため、蹴られたという経緯が、三井氏の手記『告発! 検察「裏ガネ作り」』には出ています。
んで、三井氏は99年7月、その名古屋高検総務部長から大阪高検公安部長に異動になりますが、ここでもまた加納の横ヤリが入ります。
本来、高検の公安部長の給料というのは、「検事2号棒ポスト」なのですが、三井氏は「3号棒」のままに据え置かれたというのです。これは、地検の特捜部長より下で、三井氏の知る限りでは、「そんなことはいまだかつてない」とのことです。
そこで、三井氏の主張はこうです。
――つまり、それは、給料の多い少ないを問題にしているのではない。これは検事としてのプライドに関わることだ。私は河井信太郎に憧れて、検事が好きで検事になり、独自捜査に命を賭けてきた。その進言で京都地検は捜査に確かに失敗したものの、「教授逮捕」という最悪の事態を免れることができたのであり、それは検察の信用を守ったことになる。そこでの捜査の失敗の責任は加納駿亮氏にあるのにもかかわらず、私を逆恨みし、人事権を乱用し、挙げ句の果ては、棒給まで抑え込んだ。これは私個人に対する侮辱ではなく、高検公安部長というポストに対する侮辱でもある、と。
こうした三井氏の姿を見ているとき、私が新聞社を辞めるにあたり、社内で取った行動にあまりにも酷似していて、びっくりするほどです。
まあ、私の場合は、毎日新聞と東京新聞と合わせて計10年にも満たりませんが、三井氏の場合は、30年も組織の中にどっぷりと漬かっていて、それなりにラインに乗っかって来ているなかで、よく、ここまで「志」を維持できいたと、驚くほどです。
こうした加納駿亮に対する私憤(というより、既にこの時点で、かなり義憤、公憤が相当入っていますが)から、三井氏は加納の調活裏金づくりを告発するに至ります。
01年1月10日発売の「噂の真相」(01年2月号)に、「ある検察OB」の名で「大阪地検の加納駿亮検事正が高知地検検事正時代に調査活動費を不正に流用し、遊興費に充てていた」との内部告発記事が掲載されます。ここに出てくる「ある検察OB」が、じつは大阪高検公安部長の三井氏だったのです。(この稿つづく)
http://furukawatoshiaki.at.infoseek.co.jp/article/2004/221.html
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