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(回答先: Re: 絶対忘れずしつこく追求すべきだ! 投稿者 戦争屋は嫌いだ 日時 2004 年 1 月 01 日 19:38:13)
だが、嘘も百万遍いえば真実になるし、大衆は小さな嘘よりも大きな嘘に魅力を感じる
「嘘も百万遍いえば真実になる」 「大衆は小さな嘘よりも大きな嘘に魅力を感じる」
――――ナチス宣伝相 ゲッペルス
以下を参照されたい。(「である」調に統一)
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-2.html
『偽イスラエル政治神話』
(その2)訳者はしがき2.
[中略]
著者のガロディは、この本の後段で、「歴史は、見直し論でなければ、変装したプロバガンダである」(p.153)と喝破している。周知のごとく、人類史の全体像についても、次々と新しい発見が加わり、その度に常に「見直し」が行われている。ところが、「言論の自由」を中心的スローガンに掲げる日本の言論界の諸組織は、『マルコポーロ』廃刊事件の場合と同様に、本年11月15日号の記事をきっかけとする『週刊ポスト』へのバッシングには、一様に口をつぐみ、ユーゴ戦争でも「変装したプロパガンダ」の役割を果たしたばかりの"ジェノサイド真理教"の見直しを、ためらっているのである。何が怖いのであろうか。
[中略]
拙著『アウシュヴィッツの争点』でもすでに指摘したことだが、パレスチナ分割に関しては、冷戦時代にも、アメリカとソ連の意見が一致していた。パレスチナ人は、冷戦構造の「はざまの存在」だった。「世界の孤児」とも呼ばれていた。しかも、「ガス室」問題ともなれば、さらに、その奥深く潜んでいた連合国(国連のこと。のちに説明)の創世期ばかりか、今の今、複雑に進行中の最大の恥部である。この問題は、ことほど左様に、実証を抜きにした感情的な議論が高まり易い問題をはらんでいる。しかも、大手メディア報道が、それを数倍に増幅しているのである。
多数意見に同調する強烈かつ必須の本能
マスコミ業界と言えば、もう一つ、これまでの論争で、非常に興味深い現象を観察できたのだが、それは、良く言われる「マスコミ人が一番マスコまれている」という市民からの批判に、ピッタリ一致する現象であった。
私は、前述のように、「ガス室はなかった」という趣旨の記事掲載で問題となった『マルコポーロ』(95・2)よりも5か月前の『噂の真相』(94・9)に、「ガス室」に関しては、ほぼ同趣旨の記事を書いていた。
しかも、私は、湾岸戦争以来、『フリージャーナル』と題するB4判の、手作り個人新聞を出していた。その内の24号(94・7・23)では、この『噂の真相』記事の前宣伝をも兼ねていた。一面の大見出しは、「ホロコーストは『なかった?!』で揺れる欧米歴史学界」となっていた。この号は、日本ジャーナリスト会議(JCJ)が例年、敗戦記念日に主催する8・15集会でも、参加者全員に配布した。これらに対しては、JCJの会員たちからも、「本当?」ぐらいの軽い挨拶しかなかったのである。疑わしそうな顔をする者もいたが、トゲトゲしい顔は、まるで見掛けなかった。おそらく誰しもが、直接の利害関係を持たず、反論材料の用意もなかったのであろう。
ところが、『マルコポーロ』廃刊事件が起きて、大手メディアが一斉にバッシング報道を始めるや否や、様相が一変した。折りから発行直前の状態になっていた拙著に対しては、まるで何も調べずに「忠告」という形で、出版を断念しろという声が、むしろ仲間内から高まったのである。
念のために確かめると、別に誰も、新しい反論材料を得てはいなかった。しかし、「これが世論」だと言うのである。これには呆れてしまった。もちろん、ごく少数ながら理解し、励ましてくれる仲間もいたが、こんなところが日本の文化人の掛け値なしの水準なのであろう。
と丁度ここまで書いていたところへ、この現象と見事に照応する自然科学の記事が現われた。『現代』(97・2)に載った「大特集・ここまで分かった『脳』の不思議」の内の一つ、「『三つ子の魂』の神経物理学」である。執筆者の田中繁の肩書きは、その専門的で先端的な仕事の性格を反映してか非常に長い。「理化学研究所国際フロンティア研究システム脳回路モデル研究チーム・チームリーダー」である。参考になったのは、脳には情報の「自己組織性」があるという考え方なのだが、田中は、これが「社会現象においてもしばしば見られる」と説明し、こう続ける。
「人間は自分の所属する集団の多数意見に同調しようとする性質があるため、特定の意見が自己増殖的に肥大化して行くことがある」
いわゆる「付和雷同」の性質であるが、私の考えでは、人間どころか哺乳類以前に形成された強烈かつ必須の本能である。小はイワシから大はマグロまでの魚が必ず群れをなすように、海中における生物進化の過程で獲得した知性以前の基幹的な状況対応能力に相違ない。
ジャーナリストとか、文化人とか称するマスコミ業界の商売人のほとんどは、しきりと「知性」を誇示するのだが、実は、それ以前に、この「性質」が人並み以上に発達し、機敏に「多数意見」に「同調」し、それをいかにも自分が推敲を重ねた意見であるかのように吹聴し、巧みに集団の中心周辺に潜り込む訓練を重ねた個体生物なのである。
反体制の場合でも、基本的な実情は変わらない。反体制とか「市民派」の場合には、「同調」する対象が、反体制とか、環境保護派の市民の方の「多数意見」に変わるだけの相違である。
もちろん、マスコミ業界の商売人といえども、頭を使っていることは確かである。しかし、以上のような「情報収集」による「多数意見」への「同調」行為と、「考える」とか、「思考する」とかいう言葉とは、厳密に区別するか、または、「自立した思考」などと明記して、特別に定義する必要がある。真に「自立した思考」とは、既成概念や多数意見の「すべてを疑う」ことから出発するものでなければならないのである。そこからひるがえって見直すと、マスコミ業界やアカデミー業界のほとんどの商売人たちは、真に「自立した思考」とは真反対の頭の使い方をしていることになる。
「御題目」という言葉があるが、これは、日蓮宗の信徒が丸暗記で唱えさせられる「南無妙法蓮華経」の七文字を指すのだそうである。意味は分からないのに一字でも落としたら大変なことになる。丸暗記は、条件反射的行動である。深く考える必要はない。本件では、まさに条件反射的に、「南京虐殺を否定するのと同じことだ」という反応を示すマスコミ業界人、アカデミ業界人が、非常に多いのが目立った。
自力で事実を確かめようとせずに、いわゆるコミンテルン史観、ニュルンベルグ史観、東京裁判史観を、丸暗記で唱えてきた日本の平均的文化人たちは、「自立した思考」ができなくなっている。その結果、体制派たると反体制派たるとを問わず、本書のような、つぎの性格を持つテーマは、まずは少数意見として位置付け、まずは冷たく反発し、議論の材料を吟味もせずに、避けて通るのが当然の反応となる。
[後略]