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米占領行政理解の一助:猛将パットンが箝口令をしいた親衛隊員への集団「リンチ処刑」
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投稿者 木村愛二 日時 2003 年 12 月 31 日 09:51:36:CjMHiEP28ibKM
 

米占領行政理解の一助:猛将パットンが箝口令をしいた親衛隊員への集団「リンチ処刑」

 戦後の日本でも、日本の新聞や放送が、犯人を「大男」とだけしか報道できない犯罪が激発した。
 
  私は、その時期、立川基地の米兵が「慰安」を求めて訪れるダンスホールになっていた京王閣のそばに住む小学生・中学生だった。京王多摩川駅の駅前商店街の店番をしていた子供たちは、米兵の掻っ払いの恐ろしさを、口々に訴えていた。

 私は、そういう基地周辺の体験者だからこそ、現在のイラク「占領」の実態を、具体的に想像できるのである。

---------- 引用ここから ----------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-14.html
(1995年発行の拙著)『アウシュヴィッツの争点』

(その14)猛将パットンが箝口令をしいた親衛隊員への集団「リンチ処刑」

 この拷問の事実を資料で裏づけようと努力をしているおりもおり、アメリカ兵が無抵抗状態のドイツ軍の親衛隊員の捕虜を、大量に虐殺していたことがわかった。しかもその場所は、「シンプソン陸軍委員会」が、その中心的な調査対象としてとりあげていたダッハウ収容所であった。

 なぜダッハウでドイツ軍捕虜の虐殺事件が発生したのかというと、それには一つの有力な原因が考えられる。ここを解放したアメリカの第七軍団は、有名な「バルジの戦い」でドイツ軍の戦車部隊によって中央をやぶられて苦戦しただけでなく、そのさいに、「マルメディ事件」とよばれる虐殺事件で大量の犠牲者をだしていた。その報復をもとめる戦場心理が、大量虐殺と、それにひきつづく拷問への起爆材の一つとなったのではないかと推測できるのである。

 一九九四年八月二〇日の午後六時から、テレビ朝日が放映した『ザ・スクープ』の新聞テレビ欄での紹介は、「秘話!封印された日系米兵のナチ収容所解放▽裏で親衛隊処刑」であった。

 日系米兵の苦労話は省略する。その最後の活躍がフランス国境に近いナチ収容所、ダッハウの解放である。ところがなぜか「ダッハウについてしゃべるな」という箝口令がしかれ、この活躍はこれまで「秘話」になっていた。箝口令の理由の一つが「裏で親衛隊処刑」であった。ただし、「処刑」をしたのは日系米兵ではなくて、戦車軍団で有名な猛将パットンがひきいる普通の白人中心の部隊だった。日系米兵の活躍が「秘話」になっていたのは、どうやら、その不始末な残虐行為の隠蔽工作のまきぞえらしいのである。たまたま直後に現場のメイン・キャンプをおとずれて慘劇の跡を見てしまった日系米兵の一人は、「事実をしゃべると軍法会議だ」とおどかされたという。

 事実が世間にあきらかになったのは、問題の軍団の医療部隊に所属していた軍医、ハロルド・A・ビュークナー大佐の著書『復讐者の一時間』によってである。

 わたしは、ウィーバーがもっていたその本の実物を、「歴史見直し研究所」で見せてもらった。ウィーバーは、この本と虐殺事件のことを『歴史見直しジャーナル』(93・5/6)に書いていたのである。

 ダッハウ収容所を解放した直後、捕虜になったドイツ人の中から親衛隊員だけが別あつかいにされ、石炭置き場の前に整列させられた。責任者だった中尉が「見張れ。逃がすな。逃げようとしたり動いたら撃て」と命令して現場をはなれたのち、親衛隊員の何人かが身体を動かした。するとだれかが「撃て!」とさけび、一斉にライフルと機関銃が火をふいた。『ザ・スクープ』の解説は「乱射」と表現している。ビュークナー大佐の著書には現場の写真も何枚かのっている。一斉射撃でもたおれず、両手を頭のうえにあげて立っている親衛隊員も何人かのこっている(写真[5].Webでは省略)。そのときに死んだ親衛隊員の数は一〇〇人とも、七〇人か六〇人とも、いまも生存しているアメリカ側の隊員の記憶に相違がある。

 さらにその後、二回目の事件がおきた。『ザ・スクープ』の解説どおりにしるすと、「インデアン」の中尉が、今度は一人で三四六人の親衛隊員を機関銃で撃ち殺した。

 アメリカの第七軍団では、この二つの事件をただちに調査し、軍法会議で裁くことにした。だが、軍団長のパットン将軍は、その調査報告書をやぶりすて、箝口令をしいたのである。

 アメリカの国立公文書館には、「極秘」と書かれた調査報告書が保管されていた。「主題」は「ダッハウのドイツ人看守にたいする誤ったとりあつかいの告発についての調査」となっている。大量虐殺の事実をうたがいもなく証明する裏づけがのこっていたのだ。

 この「誤ったとりあつかい」の大量リンチ処刑事件は、当時のアメリカ兵のドイツ兵、とりわけ親衛隊員にたいする気分と対応を象徴するものである。

 というのは、ダッハウ収容所に「ガス室」がなかったということは、すでに一九六〇年頃には定説になった。だが、アメリカ兵たちはダッハウで大量の死体(死因のほとんどはチフスだったが)の山を発見し、それが噂で聞いていた「ガス室」での処刑者にちがいないと信じた。しかも、実は、チフス菌を媒介するシラミを退治するための消毒室(写真[6].Webでは省略)だったのだが、「ガス室」の実物まで発見したと思いこんでしまったのである。ドイツの親衛隊員は、かれらアメリカ兵にとって、まさに殺してもあきたりない「悪魔の化身」だった。取材にあたった『ザ・スクープ』の担当者の感触では、「親衛隊員がおそろしかった」という米兵の実情もあったようだ。

「拷問」は、この大量のリンチ処刑の業火の焼け跡にひきつづいておきた「誤ったとりあつかい」でもあろう。だが、こちらにはもう一つの裏話がある。

 前項で紹介したアメリカの上院の議事録で、「非常にあたらしいアメリカ市民〜〜ヒトラー時代のドイツからの避難民」と表現されていた人々は、具体的に何者だったのだろうか。『六〇〇万人は本当に死んだか』では、この尋問と法廷での検事役をつとめた「″アメリカ人″」の氏名、シューマッカーとか、ローゼンフェルドとかを列挙し、「読者には、かれらが(中略)、この尋問を担当してはならないはずのユダヤ人であることが、即座におわかりになるであろう」と指摘している。この事情は、のちに紹介するニュルンベルグ裁判全体の状況の縮図である。ナチ党の圧迫から逃れてアメリカに亡命したばかりの「新参」のアメリカ人が、被告のドイツ人捕虜を尋問し、告発していたのである。これだけでも、「中立性」を旨とする裁判の原則に反している。まさに「復讐」そのものだったのだ。しかも「拷問」は、「ホロコースト」物語の立証のための、もっとも有効な手段であった。

 ところで、「ホロコースト」物語は当時すでに戦争宣伝としてひろく普及していた。「物的証拠」の発見はハイライトの大ニュースだったはずだ。そうだとすると第七軍団の広報機関は、このトピック・ニュースを記者団に発表すると同時に、大量リンチ処刑事件という、これも大スキャンダルの隠蔽工作に必死の努力をはらっていたことになる。この両者の関係はどうだったのだろうかという、あたらしい疑問がうかんできた。

 このアメリカ軍の「ダッハウの大量虐殺」事件の隠蔽工作は、もしかすると、ソ連軍の「カティンの森」事件の場合と同様に、ナチス・ドイツの過度の「悪魔化」への動機の一部をなしていたのかもしれないのである。

 この疑問はさらにニュルンベル裁判の全体像にもおよぶ。
[後略]
---------- 引用ここまで ----------

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