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シアトル――第二次世界大戦から60年近くたった今、ナチス・ドイツによる大虐殺(ホロコースト)の生存者がコンピューターのデータベースやインターネットの力で、消息不明だった家族や友人との再会を果たしている。戦争やホロコーストで消息不明になった人を探している赤十字ホロコースト・戦争犠牲者追跡情報センター(HWVTIC、本部メリーランド州ボルティモア)によると、この4カ月だけで少なくとも40人が生き別れていた相手を発見した。
シアトル在住のジョージ・ゴードンさん(77)もその1人。「イエージ・ブジンスキー」としてポーランドのカトリック家庭に生まれたゴードンさんは、14歳でポーランド人専用の収容所に送られ、後に移送されたブッヘンヴァルト強制収容所で終戦を迎えた。1951年に米国に移民したゴードンさんは、レジスタンス(対ナチス抵抗運動)に参加したことや、父親と弟がナチス親衛隊に銃殺された日のことを周囲に語り続けた。母と2つ下の妹はワルシャワで死亡したと聞かされていた。捜索を依頼したドイツ赤十字も、家族の生存記録はないと報告していた。
しかしHWVTICに調査を依頼したところ、HWVTICとポーランド赤十字は今年夏、ゴードンさんの母親の死亡記事をポーランド紙で発見。ここから、ゴードンさんの妹が故郷ヴロツワフで生存していることが判明し、兄と妹は9月に故郷で再会した。ゴードンさんは、「自分にとって妹はずっと12歳のままだったので、街で通り過ぎても分からなかっただろう。でも声を聞いて、すぐに妹だと分かった」と話した。
米国在住のレオン・シッパーさん(75)も今月初め、HWVTICを通じて劇的な再会を果たした。1942年当時14歳だったシッパーさんは、同じように両親をナチスに殺された子供たちとともにブリュッセル郊外の孤児院にいた。ナチスの命令で孤児がアウシュビッツ強制収容所に移送されることになり、収容所行きの列車を待つ待機所に移されたとき、孤児院院長の嘆願を受けたベルギー女王の指示で孤児たちは孤児院に戻されることになった。
孤児院に戻るトラックへ仲間と急いだシッパーさんは、両親と別々にされてアウシュビッツ行きの列車を待つ幼児6人を発見。監視兵がいないのを見たシッパーさんたちは瞬時に決断し、ひとりひとりが幼い子供1人を抱きかかえて脱出。アウシュビッツ行きの列車ではなく、孤児院行きのトラックに一緒に乗り込んだ。シッパーさんが助けた4歳の子供はマックス・コーンという男の子で、両親ときょうだいはアウシュビッツへそのまま移送され、収容所で死亡したという。
シッパーさんは孤児院を点々とし、戦後にブリュッセルで一度マックスさんと再会したが、その後は消息が分からなくなっていた。戦後は米・カリフォルニアで航空技師となったシッパーさんは、マックスさんのことを気にかけ続け、HWVTICのことを知ると調査を依頼。その結果、マックスさんは戦後カナダで養子になり、「マイケル・ハートッグス」と名前を変え、現在は米国で暮らしていることがわかった。
現在65歳になるハートッグスさんは、ロサンゼルス空港でシッパーさんと再会。「本当にびっくりした」とシッパーさんを抱きしめた。
HWVTICは90年、東欧革命後に旧ソ連や東欧諸国が公開したナチス関連文書4700万部を調査するために設立され、これまでに約1000人の消息を確認した。しかし家族や知り合いを見つけた人全員が、幸せな再会を果たすわけでは決してない。HWVTICのエリーズ・バビットさんによるとほとんどの場合、収容場所や乗せられた汽車の情報から判明するのは、その人の死亡日時だという。
大戦中すでに成人していた人々の近親者探しは、時間との競争でもある。HWVTICと情報を共有している米国立ホロコースト博物館(ワシントン)には、昨年1年間で約3万4000人から問い合わせがあった。インターネットの普及も、調査を後押ししている。バビットさんによると、誕生日検索サイトで見つかった尋ね人もいる。
「戦争で生き別れた人探しのことを、世間は『もうとっくに済んだ事じゃないのか』と思いこんでいる。だから、人探しはまだ続いていると、より多くの人に知ってもらいたい」とバビットさんは話している。
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200312250013.html