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外務省機密文書: 米側発表を日本は疑問視 トンキン湾事件
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20031224k0000m010078000c.html
ベトナム戦争に米国が本格介入する転機となったトンキン湾事件(1964年)について、北ベトナムの攻撃だとする米側発表に、当時日米両政府内で疑問視する見方のあったことが分かった。24日公開される外務省機密文書で明らかになる。ただ、情報と分析の不足から「北ベトナムによる攻撃」との認識で固まり、米国は泥沼の戦いへ進み、日本政府はこれを支持していった。
外務省がベトナム紛争に関する文書を公開するのは初めて。
事件直後の在ワシントン日本大使館からの公電は、米高官の「個人的見解」として「北ベトナムの動機は全く不可解。特に2回目の攻撃の場合、米駆逐艦は、戦闘機により護衛されているので北ベトナム側が勝つ見込みは全くなく、“神風”のごときものだけにその動機は一層理解に苦しむ」といった内容を伝え、米政府内にも2回目の攻撃に懐疑的な見方があったことを示している。
同事件をめぐる日本外務省の「第294回外交政策企画委員会記録」によると、同12日に牛場信彦外務審議官や担当課長らが話し合った。
ここでも「(1回目の攻撃後に)米国の警告があったのに北ベトナムが2回目の攻撃を行った動機は分からない」「米国側で、北ベトナム魚雷艇の隻数などをつかんでいないのはおかしい。暗夜とはいえレーダーがあるはずだ」などの指摘があり、「米国の謀略説」という発言もあった。しかし、結局は「米国のことだから、物的証拠があるのだろう」などと締めくくられ、米国の認識に沿う形で2回目攻撃を肯定的に受け取った。
事件後の中国の出方については「中国、ソ連は米国との対決を避けんとする空気が強い。中国の支持のもとに北ベトナムが攻撃に出たとは思えない」(在仏大使館)、「中国としては、直ちに軍事的援助もしくは、介入を行うとは思えない。朝鮮戦争と違い、現地に米軍の地上部隊はいない」(在英大使館)など、各国高官の冷静な分析を伝えている。
このほか、ベトナム戦争関連文書では「ベトナム紛争第1巻 昭和31年3月〜48年2月」、「ベトナム紛争第2巻 昭和35年6月〜42年10月」が公開される。
第1巻では、南北ベトナムの分割を事実上、決定づけた「ジュネーブ協定」(1954年)をめぐる関連文書のほか、南ベトナム解放民族戦線から少数民族を切り離し、南ベトナム政府、米軍側に引き寄せるための「少数山岳民族対策」などを収録。また第2巻では、解放民族戦線の戦いを南ベトナム政府・社会に対する「テロ活動」ととらえ、その現地の「被害状況」を詳述している。【薄木秀夫】
◆トンキン湾事件◆
64年8月2日、北ベトナムのトンキン湾で、米駆逐艦マドックスに、北ベトナムの魚雷艇が攻撃。米政府は、同4日にもマドックスが攻撃を受けたと発表した。
最初の衝突は、北ベトナムが「領海侵犯(米国は公海上と主張)した米艦を攻撃した自衛措置」と認めた。しかし、2回目は、当時の米国防長官だったマクナマラ氏の回顧録などによると、関係者の証言から「駆逐艦の乗組員や現地軍事関係者の誤判断や思い込み」との見方が強まっている。
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外務省が公開するベトナム戦争関連文書で、最も注目されるのは、北ベトナムが米駆逐艦を攻撃したとされるトンキン湾事件に関する記述だ。
真偽が問題となっている2回目の衝突に対し、事件直後の米高官の「個人的見解」を示す公電、外務省当局者の「本音」が示された「外交政策企画委員会記録」の中で、日米とも政府内に疑問視する指摘があった。事件の「あいまいさ」を裏付けた形となった。
もう一つの注目点は、中国が直接参戦するかどうかの分析である。
当時、米国は「南ベトナムの共産化がアジア諸国の共産化につながる」という「ドミノ理論」を支えにインドシナ紛争に介入した。共産主義を一枚岩と考え、中国、ソ連が、裏で協力しながら覇権を進めているとの判断によるものだ。朝鮮戦争(53年休戦)の記憶もあり、特に中国の出方を懸念していた。実際には、北ベトナムの狙いは、民族主義に基づく「統一」であり、中ソから指示、命令される立場ではなかった。西側諸国に在勤する大使も「中国の直接介入はないだろう」との内容の公電を打電。こうした情報を受けた形で外交政策企画委員会で「中国義勇軍の早期介入はない」と結論づけている。
しかし、公開される文書を見る限り、情報不足の感は否めない。米国では、極端な反共主義「マッカーシズム」で、中国やアジア専門家が外交畑から追放されていた。現地情報を掘り起こし、的確な情勢分析をする能力が欠如しており、それに依拠しがちな日本の情報収集能力も限られていたと推察される。
この事件が引き金になり、米国は、大統領にベトナムへの武力行使権限を与える決議を上下院で圧倒的多数で可決。65年2月、北爆を開始し、同3月には米軍がダナンに上陸し地上戦に入った。
マクナマラ回顧録は、米国のインドシナに対する認識不足、判断ミスが戦争をエスカレートさせたと指摘している。同事件はその象徴であり、今回の文書は情報不足の中で、戦争の「大義名分」が、徐々に作られていく過程を浮き彫りにしたといえよう。【薄木秀夫】
[毎日新聞12月24日] ( 2003-12-24-00:00 )