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▲【イスタンブール爆破テロ!!】
平和な町を破壊する者は誰か?
【 平和な町イスタンブール】
イスタンブールという町をご存じだろうか。
アジア大陸とヨーロッパ大陸との境界にあるトルコ最大の都市だ。旧市街には有名なトプカプ宮殿や青のモスク、そしてビザンティン時代の城壁や水道橋も残されており、1985年(昭和60年)には世界文化遺産に登録されている。市内にあるバザールの真ん中には有名なオリエンタル・カフェがあり、この喫茶店がある小さな小さな交差点こそが「東西文化の交流点」とも言われる。アジアとヨーロッパを隔てる海峡に架かるボスポラス橋や、ハリチ湾のガラタ橋周辺は観光客が多く、活気を呈している。
同じトルコでも、アナトリア地方などを旅すると、小さな子供たちがはにかんだ笑いを浮かべながら、それでも興味深げに日本人旅行者に近づいて愛想をふりまく。大人たちの多くは日本人ファンで、日本人を見つけると何か手助けはできないかと声をかけてくる。トルコの田舎は遙か昔の日本のような感じで、家々は鍵などかけることもなく、ベンチに忘れたバッグは翌日までそのまま置かれているようなところだ。
だが、イスタンブールはそうではない。スリや泥棒の類が大活躍していて、ここもトルコなのだと思い知らされるほどヨーロッパ的な町だ。
とはいえ、やはり平和そのものといった町である。放浪の旅をしていた友人がかつて数カ月間イスタンブールに滞在していた。「この町にいるとすべてを忘れてボンヤリできるんだ」――。放浪の果てに、彼はイスタンブールに一時、安住してしまった。そんな雰囲気は私自身も十分味わっている。こんなに気分の良い町は、世界中にないだろう――。
昔、兼高かおるという女性がどこかのTV局でずっと世界中を旅する番組をやっていた。その彼女、長年放映したこの番組の最後で、アナウンサー氏の質問にもう一度だけ旅をするとしたら「イスタンブール」だと答えたが、その気持ちは良くわかる。本当に素晴らしい町、人情味があり心が温かで平和で、ちょっとだけスリルがあり、それでいて結構色気がある町だった。
わかりやすく言えば、東京と同じ町だ。
そんな平和な町に爆弾テロが起きた。
1件目は11月15日の午前だった。2カ所のシナゴーグ前でほぼ同時に自動車爆弾が爆発し20人以上が死亡、250人以上が負傷するという大惨事が起きた。シナゴーグとはユダヤ教の教会で、この日はちょうどユダヤ教の安息日。大勢のユダヤ人たちが教会を訪れていたのだ。直後にはIBDA−C(大東方イスラム戦士戦線)と名乗る組織がテロの犯行声明を出している。
2件目はそれから5日後の11月20日の午前中に起きた。
イスタンブールにある英国総領事館前と英系銀行HSBC前で自動車を使った自爆テロが起きたのだ。この爆発で26人が死亡、少なくとも450人が負傷するという惨事となった。このテロに関しては、アルカイーダ系列の「アブハフス・アルマスリ旅団」(Abu-Hafs al-Masri Brigades)が犯行声明を出し、同時に「米国の追随者、英・伊・豪・日本にはすでに警告してある」と、これらの国々に対しても同様な攻撃を行うと再度予告している。
テロなどとは無縁の、平和な町を襲った自爆テロ。
この事件の背景を辿って行くと、世界中を震撼させる恐怖の真実が出現する。
【シナゴーグとHSBC】
余談になるが爆弾テロ攻撃をされたシナゴーグとHSBCについて若干の解説をしておこう。
シナゴーグ(Synagogue)とはユダヤ教の教会のこと。じつはシナゴーグの言葉は『旧約聖書』にはなく『新約聖書』のみにあり、「集会所」という意味で使われているものだ。(ユダヤ教は旧約を基にしている宗教。)歴史的には、バビロンの虜囚となって離散したユダヤ人たちが、それぞれの場所で礼拝したり勉強したりした場をシナゴーグと呼び、これが現在にまで引き継がれたとされる。シナゴーグには「ベート・ハ・クネセト(集いの家)」と「ベート・ハ・ミドラシュ(勉学の家)」とがある。
トルコは基本的にイスラム教スンニ派が主流で穏健派が多いのだが、トルコに在住するクルド族は歴史的にユダヤ人との関係が深く、長い年月の中でユダヤとの混血が進んでいる。こうしたクルド族や、イスラエルから逃れてきたユダヤ人なども含め、人種の坩堝とも言われるイスタンブールには、相当数のユダヤ教信徒がいると考えられる。
HSBCと言えば英国最大の金融機関として良く知られている。世界81カ国に7000以上のオフィスを持つ巨大な銀行である。ところがこの「HSBC」の意味さえ最近の若者は知らないようだ。今さらになるが、HSBCは「Hongkong and Shanghai Banking Corp.Ltd.(香港上海銀行)」の頭文字で、19世紀中頃に上海とロンドンに同時設立された銀行。現在でも香港ドルの発券を行っている銀行である。
HSBC(香港上海銀行)は設立以来拡大膨張を続け、19世紀末にはタイ、シンガポール、フィリピン、日本、マレーシア、ミャンマー、ベトナム等に支店を置くようになっていった。アジア以外にも米国(サンフランシスコやニューヨーク)、欧州(リヨン、ハンブルグ等)に支店を広げ、いち早く洋上銀行を開いた銀行として有名だ。(クィーン・エリザベス号やクィーン・メリー号で銀行業務を開設。)第2次世界大戦後には英国中東銀行(British Bank of the Middle East )を買収。その後は中東から東南アジア、中国にかけて大買収作戦を展開し、かつて7つの海を支配していた英国の植民地権益をそっくりその手に収めた銀行として知られる。
トルコ最大の都市イスタンブールで起きた爆発テロは、シナゴーグと英国領事館、そしてHSBCを狙ったものだった。
この事実は、しっかり理解しておく必要がある。東京でテロが起きるとしたら、当然ながらどこかにその延長の意味があるからだ。
【トルコとイスラム文化圏】
すべての物語に歴史がある。トルコの歴史は、世界史すべてと言っても過言ではないほどの波瀾万丈のものだった。
トルコ人が中央アジアから現在のトルコの地に辿り着いたのは紀元前6000年以上昔、つまり今から8000年も昔のこと――わが国の縄文文化の初期の時代だった。
縄文中期の紀元前3500年くらいには、トロヤ文明が栄えている。その後この地には、世界でいちばん最初に鉄器を持ったといわれるヒッタイトが王国を起こし、やがてトロヤが再びこの地を征服したが、ギリシアとの「トロヤ戦争」(木馬逸話の戦争)で敗北したりしている。
わが国が弥生時代を迎えた紀元前4世紀頃、この辺り一帯はアレクサンドリア大王の支配下に置かれる。紀元前後の頃にはここはローマ帝国の領土となり、やがてローマ帝国が2つに分裂したときには、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の首都がトルコのコンスタンチノープルに置かれるようになった。このコンスタンチノープルこそが現在のイスタンブールである。やがて14世紀には元(モンゴール)がこの地に侵出してきた。
元が姿を消した後に登場したのがオスマントルコである。オスマントルコは14世紀半ばにはバルカン半島にまで勢力を広げた巨大な帝国となり、コンスタンチノープルをイスタンブールと改めてここを首都とした。
その後オスマントルコ帝国は、西アジア、北アフリカはもちろんのこと、地中海全域から東ヨーロッパを勢力下に収め、我が世の春を謳歌した。
14世紀、15世紀、16世紀、17世紀、18世紀という時代に、もし空飛ぶ円盤に乗った宇宙人が地球を来訪したとしたら、彼らは間違いなくオスマントルコの首都イスタンブールを訪れただろう。とにかく文化的にも軍事的にも、この地球にはトルコ以外には見るべきところが無かったはずなのだ。
19世紀に入るとオスマントルコの内部はガタガタに崩壊していった。北アフリカではエジプトがトルコから独立。そしてギリシアも独立を果たした。こうしたオスマントルコ帝国の弱体化を目の辺りにした欧州列強は次々とトルコの財産を纂奪しはじめる。そして決定的となったのが1914年(大正3年)に起きた第1次世界大戦である。
第1次大戦でドイツ、オーストリア側についたオスマントルコは、その敗北で極端な領土割譲を余儀なくされた。そればかりではない。スルタン(土侯)制度に支えられてきたオスマントルコは国家崩壊、民族壊滅の危機に向かっていた。
こうした時代に立ち上がったのが、30代の若き青年将校(当初は参謀大尉、後34歳で将軍に就任)ムスタファ・パシャ(ケマル・アタチュルク)である。
アタチュルクは日本の姿にトルコの未来を見い出していた。
人類史上、考えられない「鎖国」という奇策により国家そのものを世界の歴史から抹殺してしまった日本。そして、欧州列強と米露という巨大な勢力がそれを呑み込もうとした瞬間、無名の若者たちが立ち上がり一気に国家体制を変えてしまった日本。脱亜入欧を掲げて、あっと言う間に欧米列強と肩を並べるまでに成長した日本。
長い長い栄華を誇ったオスマントルコ大帝国の基本が破壊され、国家・民族が崩壊の危機に陥っているトルコに必要なものは、明治維新を成し遂げた日本の魂である――青年アタチュルクは、そう確信していた。だから彼にとって、日本こそが総て、日本こそが手本だった。
アタチュルクは軍人としてイタリアのトルコ侵略戦争(バルカン戦争)に参加。その後第1次大戦でも参謀本部に所属して負け戦を戦ったが、第1次大戦後に英仏連合軍がトルコに勝手に侵出しようとしたチャナッカレの戦いでは、敵を殲滅して国民的英雄となった。そのアタチュルクが終生自分の居場所に掲げていた写真がある。――それは明治大帝の御真影だった。
第1次大戦後、次々と領土割譲を余儀なくされたオスマントルコ大帝国。そうしたなか大戦8年後の1922年(大正11年)、アタチュルクはギリシアとの外交戦争に勝ち、翌1923年、オスマントルコに代わるトルコ共和国を成立させた。
多少の改正を続けながらも現在に引き継がれているトルコ国憲法は、このときアタチュルクによって制定された。その憲法の中身は(世界中の人々の常識ではあるが)、わが国の『大日本帝国憲法』そのままである。――長い鎖国から一気に西欧列強と並ぶだけの国力を得た日本に学ぶ。アタチュルクの思想がそこに反映されていた。
トルコ共和国誕生の折りに、欧州その他の国々と交わした条約がローザンヌ条約(1923年)である。条約締結直前にギリシア軍はもちろん、仏軍、伊軍などを撃破したアタチュルクの戦術戦闘技術と、その機を逃さず条約締結に向かった外交戦術の巧みさは評価されるべきだろう。この条約により、第1次大戦勝利国の英仏蘭伊などの軍隊、艦隊はトルコから撤退し、トルコは主権を回復したのだ。
ところが、このローザンヌ条約には、秘密の「隠し条項」が存在したと噂されている。今日に至るまで、その隠し条項など表面には出ていないから、そんなものは存在しなかったと考えるのが妥当だ。ただし、トルコの人々のみならずトルコ周辺の人々は、その隠し条約の存在をずっと信じていた。信じ続けていた。
その隠し条約とは、「トルコは条約締結後80年間は、かつての領土(オスマントルコ領土)の権益に手を出すことはない」というものなのだ。
1923年に締結されたローザンヌ条約。秘密の隠し条約の期限は、80年後の2003年7月に切れる。
もしこの「隠し条約」が実在したとしたら……。トルコは今年(2003年)7月以降、オスマントルコの旧領土の権益に手を出しても問題はない。――そして、オスマントルコの旧領土とは、エジプト、ギリシア、シリア、ヨルダン、レバノン……もちろんイラクもその中に入る。
【ブッシュ大統領の要請】
米軍のイラク侵略戦争に先立ち、ブッシュ米大統領はイラクと国境を接しているトルコに支援要請を行った。支援の具体的内容はトルコ国内に6万人以上の米兵が駐留することで、トルコがこれを承認すれば米国は150億ドル(約1兆6500億円)の経済支援を行うという破格の内容だった。ところがトルコは、米軍の駐留を国会否決したのだ。北側のトルコ領からのイラク攻撃ができなくなった米軍は、たいへんな苦境に陥った。最終的には米軍機のトルコ領通過を容認され、何とか恰好だけはつけられたようなものだった。
イラク戦争が一応の終結となったが、現実にはイラク国内での対米、対英等のテロ活動が活発となった。そこで今年9月末、ブッシュ大統領はトルコに対して「イラク派兵」の要請を行った。これを受けて10月7日、トルコ国会はイラクへの派兵を決定。エルドアン首相はその規模を明確にはしなかったが、米軍サイドは「米英に次ぐ第三軍」とこれを大歓迎した。
わが国の新聞TVを見る限り、このときトルコは1万人規模の派兵を決定したかのような推測記事を掲げている。ところが現地トルコ周辺では、エルドアンが「10万人規模のトルコ軍をイラクに派兵」を決定したと報道された。
【トルコ正規軍10万人がイラクに派兵される!】
これは周辺国にとっては大衝撃を生んだ。当然のことである。
たとえば現中国東北部、かつて満州と呼ばれた地域で紛争があり、わが国の自衛隊が10万規模で派兵を行ったら、韓国、北朝鮮、支那北京政府、台湾、ロシア等々はどう感じるだろうか?
トルコ軍派兵とは、そういった感覚で周辺諸国に受け取られるのだ。
しかもローザンヌ条約の隠し条約の期限が切れた2003年10月の話である。
そして、ここで考えていただきたいのは、そうした状況を理解したうえでトルコに派兵要請を行った米ブッシュ政権の意図である。ブッシュが――ではない。ブッシュを突き動かす勢力が、なぜ、この時期にトルコに軍隊を動かそうとしたのか――である。トルコ軍が旧オスマントルコ圏に軍隊を送り込めば、その地域すなわち中東全域が大混乱に向かうことは火を見るよりも明らかである。
周辺諸国のあまりの動揺ぶりに、エルドアン政権は驚愕した。
それ以上にブッシュ大統領も動揺した。イラク再建のために手を結んできたクルド人たちがトルコ派兵に猛反対をしたからだ。ブッシュとしては、この時点でクルド人の怒りを買うわけにはいかない。――こうしてブッシュ政権とエルドアン政権の双方がトルコ派兵を再検討する羽目となった。そして、トルコ国会がイラク派兵を決定して1カ月後、ついにエルドアン政権はトルコ派兵を見送ることになった。
11月9日、トルコ派兵による中東大混乱は、避けられる見通しとなった。
そして11月15日と20日に、大規模な爆発テロが起きたのである。
【混乱を演出する者】
自爆テロと報復攻撃の連鎖。パレスチナにおける戦乱、混乱はいつ終わるともわからぬ無限連鎖となっている。爆弾を抱え自らの生命を犠牲にして突っ込んでいく者は、その手段が正しいか否かは別として、間違いなく自らの意思で民族愛のために死んでいく。しかし実際のところ、彼らの愛国心をくすぐり自爆テロを勧めているのは、イスラエル諜報機関である。
民族愛に燃えて、自らの生命を犠牲にするテロリストたち。だが彼らは、イスラエル諜報機関に操られ、その使い走りをやらされているに過ぎない。アルカイーダも同様なのではないだろうか。
アルカイーダ(Al Qaida)とは本来、基地を表すアラビア語である。集会所あるいは仲間が寄り集まる家といった意味になる場合もある。元々はバラバラに存在していたイスラム系思想集団が互いに連絡を取り合い、そのネットワークとして「アルカイーダ」との言葉を使用したことに始まる。その後これがアフガンを中心とするイスラム過激組織の代名詞のようになったが、実態も首謀者とされるウサマ・ビン・ラーディンのことも正確にはわかっていない。
余談になるが、もしブッシュが右派シオニスト(またはネオ・コン)のいいなりに動く大統領であり続けた場合、ブッシュ大統領再選の大目玉としてビン・ラーディンの逮捕拘束(あるいは殺害)といったニュースが来年夏あたりに飛び出してくるかもしれない。
9・11ニューヨーク・テロに始まり、トルコのイスタンブール爆破テロに至るまで、すべてはアルカイーダの犯行とされている。だが、歴史というものは多くの場合、結果から逆に推測したほうがわかりやすい。アルカイーダの爆破テロの類はすべて、米国の反テロ戦争の拡大を正当化してきた。米国に巣喰う右派シオニストたちの野望を実現するためにだけ、アルカイーダが動いている。
アラブ世界のみならず欧州各地においても、「アルカイーダはモサド(イスラエル諜報機関)のエージェントだ」といった風評が流されているが、そうした見方が出てきてもおかしくはない。いや真実は、パレスチナの自爆テロリストたち同様、自分たちの意思で動いているつもりのアルカイーダは、じつは結果としてモサドに操られていると考えて良い。
【トルコがイラクへの派兵を断念した。】
その結果、中東全域が大混乱に陥ることは避けられた。――だからこそ、イスタンブールでテロが起きたと考えればわかりやすいだろう。
アルカイーダを操る勢力が企図しているのは、中東全域大混乱なのだ。いや、それどころではない。詳細は時間をかけて解説解読していく予定だが、彼らはユーラシア全域を混乱に導くつもりなのだ。混乱などという生易しいものではない。明らかに世界大混乱=世界大戦争――ハルマゲドンを演出するつもりになっている。
その悪辣な計画が成功するかどうかは、今のところ誰にもわからない。だが、そのために東アジアにも大混乱の刻がやってくる。早ければ明日にでも何かが起きるかもしれないが、最終的な大混乱の日までは、なお数年は要するだろう。
最終的な大混乱の日は、まだ先かもしれない。しかし、アルカイーダが警告する「対日テロ」は間違いなく起きる。
【単に自衛隊イラク派遣に対するテロではない。】
自衛隊派遣への抗議テロならば、そんなに恐怖しなくても良い。(とは言え、それでも何人かの犠牲が出るだろうが……。)問題は、アルカイーダを操る組織たちが、東アジア大混乱、ユーラシア大陸大紛争、世界最終戦争を企んでいるところにある。
これは絵空事の空想科学小説ではない。
次回(12月25日頃更新)は、解説を飛び越えて「東京最深度テロ」にどう備えたら良いかを掲載の予定。
http://www.gyouseinews.com/foreign_prospect/dec2003/003.html