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私は元自衛隊員の神浦元彰の存在を1993年に知ったので一応の評価を記す。
10年ひと昔とやら、
以下は、(第一次)湾岸戦争後、カンプチアPKO出兵の取材などを重ねて出した旧著の一部である。
ここに、神浦元彰の文章によって得た情報を記録してある。情報は、広く収集すべしである。
最後には、元外相の大来佐武郎(故人)が出てくるが、この元外相の大来佐武郎が、さる12月19日には私が講師を勤め、来春・1月30日には元レバノン大使、天木直人を講師に迎えるワールド・フォーラムの源流である。
世間は広いようで狭いのである。
木村愛二著『国際利権を狙うPKO』1994.01.20.緑風出版。
(p.116-121)
第六章 日本も独自に十数年来の準備作業
[中略]
ここでもう一度、宮沢首相の国会における説明を読み直してみよう。
「過ぐる湾岸戦争におきまして、我々の協力が財政的なものに戦争中は限られたということについていろいろ国民的な反省がございました。これについていろいろな議論があったわけでございますが、その結果として、この法案を御審議いただいておるわけでございます」(「参議院PKO特別委」91・6・1)
マスコミもこぞって、こういう印象の「発表報道」を流し続けていたのである。ところが、この宮沢「劇場政治」発言は真赤な大嘘だという明確な証拠が、もう一つあるのだ。
一九八四年に日米諮問委が平和維持活動に自衛隊派遣要請!?
さて、本書冒頭の「はしがき」では、一九八一年の鈴木首相とレーガン大統領の日米共同声明などの古証文や当局側資料を紹介した。だが、私は別に、日米関係とか安全保障関係の専門家ではない。
湾岸戦争やカンプチアPKOに直面するまでは、ごく一般的な世間常識程度の記憶しか持ち合せていなかった。それらの断片的な記憶は、当然、年表的に整理されたものではなかった。だから、プノンペンの日本大使館で小林正雄一等書記官から、「途中で湾岸戦争が起きたので云々」といわれた時、頭の中で舞ったつむじ風が、記憶のゴミを巻き上げてしまったわけである。「はしがき」に記した歴史的部分ののほとんどは、カンプチアで得た刺激をバネにして、帰国後に資料収集したものである。
そこで再び、私自身の体験的事実の告白を通して、この問題の情報ギャップを浮き彫りにしてみよう。意外にも、偶然の出会いによる情報獲得が多いのである。
カンプチアとヴェトナムへの取材旅行から戻って、私は、湾岸戦争以来の市民運動の仲間と一緒に続けている「民衆のメディア連絡会」で現地報告をした。この会の協力を得て『軍隊の影に利権あり』というヴィデオを作った。このヴィデオの縁で色々と人脈が広がったのであるが、その一つに、労働大学発行の『まなぶ』という月刊誌からの執筆依頼があった。その際、編集者が「参考に」と『まなぶ』一九九二年十月号を送ってくれた。グラビアに「カンボジア」「自衛隊の行く国」「写真=神浦元彰」が載っていたからである。「神浦元彰」に関しては、その後、月刊『宝島』で「軍事ジャーナリスト」という肩書きを知ったが、それまではまったく未知の人であった。『まなぶ』のグラビアを見た時には、写真が専門の若い人かなと思っていた。だから、写真の次にあった「グラビアに寄せて」というページを、単なる写真説明の積りで気楽に読み始めた。ところが、次のような出だしの数行を読んだ途端に、私の頭の中にプノンペン以来時々思い出したように舞い続けていたつむじ風が、突如、ハリケーンと化したのである。
「自衛隊に海外の国連PKO活動をさせる。政府がそんな構想を持ち始めたのは、日本の国際貢献が問題となった、一昨年の湾岸戦争の頃と多くの人が思っている。
残念ながらブー(間違い)である。もし、この問題に興味のある方は、お近くの図書館で一九八四年九月一八日の毎日新聞(朝刊)を探して下さい。この一面のトップに『国際平和維持活動対象に 自衛隊の派遣要請 日米諮問委が最終提言』と書かれた記事がある。これで自衛隊の海外派遣は、なんと八年も前から日米間で周到に準備されてきた話だとわかる」
大手各紙が一斉に一面で扱った記事がなぜ忘れられたのか
いうまでもなく、私は直ちに近所の図書館に向けて自転車を飛ばした。
近所の図書館には、毎日の他にも、朝日、読売、日経の各紙の縮刷版がある。問題の一九八四年九月一八日朝刊の紙面では、各紙とも「日米諮問委の最終提言」を一面に載せていた。ただし、トップ記事扱いではなかったり、見出しの付け方が違っていたりした。
毎日の報道の仕方が、PKO問題を一番重視していた。
一面トップで「国際平和維持活動対象に/自衛隊の派遣要請/日米諮問委が最終提言」という五段抜きの大見出しの記事である。因みに、外務省・日本政府は、この時すでに、「作戦」(オペレーション)を「活動」と曲訳する伝統的策略を開始しており、大手メディアはこぞって無批判な発表報道で追従している。
朝日の記事のウェイトは「日米摩擦」にあった。やはり一面トップで横見出しを含む六段だが、最初の大見出しは「『摩擦管理』の確立提言/日米諮問委/日本に特別委要請/米には輸出拡大促す」であり、リード記事のあとにもう一度、四段の「国連活動/自衛隊の派遣求める」という大見出しが追加されている。
読売も一面の真中で五段抜き見出しだが、「自衛隊」のジの字も見出しには出てこないという不思議な取り扱いであった。それでも「最終報告要旨」には「平和維持活動」「制服要員の派遣」などの提言内容が収録されており、後のページに「世論合意が前提/『報告書』の自衛隊派遣で防衛次官」という一段見出しの関連ベタ記事が添えられていた。
日経は一面の真中に四段抜き見出しで「市場開放に特別委/日米諮問委、最終報告で提言/自衛隊の海外派遣も考慮を」といった具合であった。
各紙ともに「日米諮問委提言」を「要旨」で伝えていたが、提言の終わりには、「日本は多国間平和維持活動に、物資面での支援と、非制服要員、そして可能であれば制服要員の派遣を通じて参加することを考慮すべきであろう」とあった。その前段をなす「平和と安全保障への協力」の項には、次のような「経済」に関する確認があった。
「東南アジア諸国連合(ASEAN)の経済をダイナミックに発展させるよう日米はASEAN諸国にそれぞれの市場を開放する最大の努力を払おう」
以上の証拠で明らかなように、こうした経過は、決して秘密にされていたわけではない。問題は通常、マスコミの「健忘症」とマスコミ報道への過信もしくは依存にある。
私自身も威張れたものではないのだが、こうして安心して告白できるのは、ほとんどの論者が同じような状態だったからでもある。私は、PKO法案やその前身の湾岸戦争に際しての国連協力法案に関して、さまざまな論文を読み、集会での何人もの専門家の講演から勉強し続けたが、この「日米諮問委提言」の話はついぞ出てこなかった。その後、私が会えた限りの何人かの専門家に聞いたところ、憲法学者、政治学者、法律家、政治家は、この件をまったく記憶していなかった。ある程度覚えていたのは、平和運動に関わっている軍事評論家だけであった。
私自身の記憶力の程度に限っていうと、一度文章に書いたり、人前でしゃべったり、議論したことでも、結構忘れている。単に切り抜きファイルしたぐらいでは、ほとんど覚えていない。改めてめくって見ると、アレッという感じの資料もある。
こんなことだから、個人的な記憶だけに頼っていると危険である。そこで人々は無意識に、膨大な情報をデータベースに蓄えているはずのマスコミの論評に頼るのだが、これがまた、何度もいうように「健忘症」患者の仕事なのである。当然、大手紙の切り抜きだけを片手に論評する専門家にはポカが多い。この件も、いわゆる情報洪水の中での情報ギャップの典型の一つとして、今後の教訓としたい。
右翼の笹川良一の寄附で設立された「米日財団」が補助金
さて、さらにこの「日米諮問委員会」をたどると、すでに『中曽根ファミリー』(青木慧、あけび書房)という詳しい研究があった。本書では資料の指摘にとどめるが、大平首相時代の「環太平洋連帯グループ」の報告書作成には、なんと、右翼の笹川良一の寄附で設立された「米日財団」が補助金を出していた。
私の手元には、この他にも、国会図書館調査立法考査局発行の『レファレンス』(90・8〜9)という月刊雑誌に連載された「太平洋地域協力構想の系譜」と題する合計七五ページの論文がある。『レファレンス』は、国会で議論になりそうな問題について、適宜取り上げているから、この時期に、太平洋地域協力が問題になるという予測があったと考えられる。
アジア・太平洋地域における協力構想は、戦後に幾度かの変遷を経ている。
一九七七年には、福田赳夫首相(当時)がASEANを歴訪し、のちに「福田ドクトリン」と呼ばれた東南アジア政策を発表した。このドクトリンの基本には、中ソ対立による平和への脅威を避けようとする狙いがあったのだが、不幸にして、その翌年末にはヴェトナムがカンプチアに侵攻し、日本の構想は一時中断となった。その結果の典型が、ヴェトナムへのODA中断である。
最近の日米関係では、一九八〇年に発表された大平正芳首相の「環太平洋連帯構想」以後に人脈的な継続性が見られる。大平の急死でピンチ・ヒッターとして登場したのは、鈴木善幸首相だったが、「ゼンコー・フー」という言葉が流行ったように、鈴木首相は、単なる派閥の力学で生れた臨時「角影」政権の主でしかなかった。実質的に大平の政策と人脈を引き継いだのは、中曽根康弘首相である。
一九八三年一月に行われた中曽根時代初の日米首脳会談における「日本はアメリカの不沈空母」という発言で、中曽根とレーガン大統領との「ロン・ヤス」の仲は一躍有名になった。このスキャンダラスな中曽根流の売国的パフォーマンスの裏で、同時に決定されたのが、日米諮問委員会の設置だったのである。
その後の中心的なブレインは、元外相の大来佐武郎(故人)、元東大教授・現慶大教授で改憲論の佐藤誠三郎らである。この人脈はまた、すでに紹介した外務省の外郭団体「財団法人・日本国際問題研究所」の継続的な共同研究につながっている。
[後略]