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この嗤うべきシオニスト狂信除去こそ目下の急務で似非紳士朝日新聞などのホロコースト狂信は愚の愚の下!
以下の毎日新聞記事の中で、実に面白い表現は、「ユダヤ人の始祖ヨセフの墓とされる場所」である。あくまでも、「される」であって、何らの証拠もないのである。ところが、ここへの「参拝」が、血みどろの暴力の応酬に引火するのである。靖国神社とやらの参拝も揉めるが、その比ではない。
その狂信を支える最近の大嘘が、ホロコーストである。だから、ホロコーストを護持する阿呆の典型、似非紳士朝日新聞とかNHKとか岩波書店とかは、戦争犯罪の推進者なのである。
もともと、現在のパレスチナに、旧約聖書のユダヤ人の国があったという証拠も、まったくないのである。
はい、以下、一応、その実に面白い記事の全文を紹介する。一部分だけを捉えて、主旨をねじ曲げて、揚げ足取りをするような下司な似非紳士たちとは、金輪際、一緒にされたくないからである。
---------- 引用ここから ----------
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/kokusai/20031213k0000m030039000c.html
パレスチナ:ユダヤ人が参拝強行、銃撃され7人負傷
【エルサレム樋口直樹】ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルスで12日、イスラエル軍の命令を無視してユダヤ教の聖地を訪問したユダヤ人グループがパレスチナ人に銃撃され、7人が負傷した。うち2人は重傷。参拝を強行したユダヤ人グループの行動に、地元の武装グループが怒りを爆発させたものとみられる。
ロイター通信によると、負傷者を含む17人のユダヤ人グループが、ユダヤ人の始祖ヨセフの墓とされる場所を参拝し、車で帰路についたところを武装したパレスチナ人に襲撃された。同地は93年のパレスチナ暫定自治合意以来、パレスチナ自治政府の管轄下にあり、墓の参拝にはイスラエル軍の許可が必要。一行は許可を得ないまま、軍の検問所をう回して参拝を強行した。
イスラエル紙ハーレツ(電子版)によると、事件後、イスラエル軍は違法に自治区へ立ち入った疑いで残りのユダヤ人参拝者を逮捕した。また、軍は現場一帯を封鎖して襲撃者を追っている。
ナブルスは自治政府の管轄下にあるが、00年9月にイスラエル・パレスチナ間の衝突が始まって以来、事実上、イスラエル軍に再占領された状態が続いている。一部のユダヤ人グループはこれまでも自治区内にあるユダヤ教の聖地への強行訪問を繰り返しており、これに反発する現地住民との間で小競り合いが続いている。
[毎日新聞12月12日] ( 2003-12-12-19:03 )
---------- 引用ここまで ----------
以下の拙著を読まずに、中東とかパレスチナとかイスラエルとか平和そかと語るなかれ!
騙るのなら、もっと上手に騙れ!
---------- 引用ここから ----------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-33.html
『偽イスラエル政治神話』(その33)
訳者解説(その1)
本書の数多い主張の中には、まだまだ複雑な問題が潜んでいるが、ここでは四点についてだけ、補足をして置きたい。
第一は、イスラエル国家、またはパレスチナの場所の問題である。
本訳書では、八八頁〜八九頁に、エリコとアイの場合の、遺跡の考古学的発掘調査の実例が紹介されている。それらの調査結果は、旧約聖書の物語と食い違うのである。
しかし、最近の考古学の成果を見ると、意外にも、これまでは軽視されがちだった口承伝説には、かなりの真実が含まれているようである。なぜ旧約聖書だけが、という疑問が残る。
ところが、ここに、旧約聖書の固有名詞の読み方が間違っているのだという、有力な説があるのである。旧約聖書の地名、人名、部族名などの固有名詞の解読が間違っていたとしたら、当然のことながら、考古学的な知見とは矛盾が生じる。もしも、この旧約聖書誤読説が当たっているとしたら、これまでのすべての研究は、ご破算となり、全面的な見直しが必要になるだろう。
この問題を私自身が知り得たのは、拙著『湾岸報道に偽りあり』(92)の発表直後に、ある読者が、これをぜひ読めと、当時すでに絶版の本、『聖書アラビア起源説』(草思社、88)を提供してくれたからである。
著者のカマール・サリービーは、「ベイルート大学の歴史学教授で、中東史の権威である」(同書の「訳者はしがき」より。以下同じ)。
訳者の代表はパレスチナ問題を追い続けている広河隆一だが、その解説から一部を引用すると、「旧約聖書の舞台はパレスチナではなく、サウジアラビアのメッカの南、アシールと呼ばれる地方だというのである」。
この本の内容を知っている日本人は、ほとんどいない。だが、「欧米での刊行後、『ニュウズウィーク』『クリスチャン・サイエンス・モニター』『サンデー・タイムズ』などを含む世界の主だった紙誌に取り上げられ、一大センセーションを巻き起こした」という。
日本語版の出版は一九八八年だが、その当時すでに、英・仏・独・オランダ・スペイン・アラビア・フィンランドの各国語版が出ており、インドネシア語版は準備中だった。論証の中心は「セム語学および固有名詞学の一分野である地名学」による旧約聖書の地名の照合にある。旧約聖書にはふんだんに地名が現われるが、現在のパレスチナ地方の地名とはほとんど一致しない。確かな証拠となる遺跡もない。エルサレムはアラビア語の「アル・シャリム」と同じく、「祝福された場所」の意味で、日本ならば「鎮守」の社とか森のような名称である。この地名は、あちらこちらにあり、もちろんアシール地方にもある。ソドムとゴモラは火山の爆発で消滅したとされているのに、パレスチナ地方には火山はない。ところが、アシール地方には類似の地名があるし、火山の爆発の跡が残っている。
アシール地方には、古代からのユダヤ教徒の子孫もいる。同書には、現地の「ユダヤ人」の写真が収録されている。肌色は、むしろ、アフリカの黒人に近い。縮れ髪を編んで垂らしている。私はかつて、旧著の『古代エジプト・アフリカ史への疑惑』(74)で、セネガル人の研究者による古代エジプト人の黒人説を紹介したことがある。その際、エデンの園のサハラ砂漠説の可能性を指摘していたので、この写真を一目見ただけで興奮を抑え切れなかった。いずれ現地にも足を運びたいと願っているが、とりあえず、つい最近の現地探訪記事だけを紹介しておこう。
日本経済新聞(97・5・27)の「文化」欄、京都大学霊長類研究所教授、庄武孝義の紀行文、「マントヒヒの楽園発見」には、つぎのような描写がある。
「サウジといえば砂漠というイメージを抱いていた私はアシール地方の緑の山々に目を見張った。国立公園でもあるこの山岳地帯は標高三千メートル、サウジ有数の避暑地だ。
ヒトにとって快適な気候は、マントヒヒにも都合がいいようだ」
お隣りのサハラ砂漠の山地の洞窟には超古代の黒人文明の壁画が残っている。そのころのサハラ砂漠は緑に覆われていた。アラビア半島全体も同様だったのである。
考古学的な議論だけなら、こういう超古代の有様を、ゆっくりと楽しんで研究すればいい。だが、「『サンデー・タイムズ』紙(84・8・12)が言うように、『イスラエルのユダヤ人は、間違った場所に住んでいるのかもしれない』」という議論になれば、話は血なまぐさくなる。
考えてみれば、日本列島なら縄文だ弥生だという時代のことである。旧約聖書が文字で残されるようになったのは古代ユダヤ・イスラエル王国の崩壊後とされている。本来は口伝えの伝承である。古代からの文明の中心地にあったから位置が確かだというものでもない。逆に、歴史の十字路といわれるほどの激しい戦乱の明け暮れを余儀なくされた地方だから、考古学的な証拠にもとづく厳密な鑑定が必要である。
現在のパレスチナ地方は、古代ギリシャ神話の最大のテーマ、トロイ戦争の舞台と隣接してるのだが、ギリシャ神話には、ユダヤ人がまったく出てこないという指摘もある。つまり、伝承文学上の証拠でも、古代ユダヤ・イスラエル王国のパレスチナ地方説は、決定的に不利だということになる。
[後略]
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