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☆マハ・スビタニ/パレスチナからのメール
イラク戦争のちょうど一年前にあたる昨年 3 月、イスラエル軍のパレスチナ侵攻があった。いまも、パレスチナ自治区は、「軍事占領」状態に置かれている。
昨年の侵攻時、アラファトが監禁された自治政府議長府の隣人からのメールが届くようになった。いわば最前線からのレポート・メールは、その後、1ヶ月以上にわたって送られつづけた。その詳細については、『戦時化する世界』(枝川公一著・太陽企画出版) に詳しい。
侵攻の現実を、そのもっとも近くで見つづけ、ネット上に「戦争日記」を公開したのは、アメリカ国籍のマハ・スビタニという女性である。久しぶりに、去る 11 月 17 日付けで、彼女からのメールが来ている。「ハムラの冒険-メアリーへのアドヴァイス」と題された、その短い文章は膠着状態に陥り、憎悪が「内向」するパレスチナを鮮やかに伝える内容である。
以下に、紹介しよう。
友人のメアリーが、ジェニンの難民キャンプへ行く、いちばんいい行き方を訊いてきたところです。小さな子どもたちにおもちゃを届けたくて、ハムラの検問所を通っていくことを考えています。彼女はアメリカ人で、ただ子どもたちにおもちゃを届けるだけだから、問題はないと考えているのです。そこで、いくつか背景となる情報と、私自身のハムラ検問所での冒険と併せて、私からアドヴァイスをしようと思います。
メアリー、ここパレスチナに於ける、イスラエルの検問所は、だれにとっても悪夢です。イスラエルの兵士相手の経験はたくさんしているし、アメリカ市民なのに、私たちの政府が資金援助している人々から始終、人間以下の扱いを受けるのはなぜなのか、いやになるくらい考えています。そして、私なんかの 100 倍もひどいいじめに遭っているパレスチナ人がどう感じているかと思います。
この前ジェニンへ行ったときは、認可済みの黄色いプレートの個人タクシーで、運転手は、イエルサレムの身分証を持っていました。だから、文句ないはずです。タクシーには、バックパックを 55 個積んで、それぞれに、ノート 5 冊、定規、消しゴム、鉛筆削りが入っていました。6 歳から 12 歳の恵まれない孤児たちへの贈り物でした。
ハムラに着いてみると、クルマは通過できないし、運転手もここまでだと言われました。バッグを持ち込みたいし、私が持っていけるわけはないし、それに、向こう側にタクシーがいる保証もないということを説明しようとしました。入って行くタクシーはみな満杯で、止められて尋問されています。そこに待っていれば、ぼくがタクシーで入れるかどうかチェックするよ、と兵士は言います。45 分経って、兵士は戻ってきましたが、同情をこめて謝りながら、「どうしようもないんだ!!! ここは軍事地域なんだ」と言いました。(ここで重要なのは、「軍事地域」は、かならずしもはっきりしていないのを知っておくことで、パレスチナ占領自治区のなかのいかなる地域でも、数時間、数週間、あるいは数ヶ月数年の間、軍事地域だと宣言することができるのです。)
私に残された選択肢はふたつです。待ってクルマに乗れる望みを持ち続けるか、バッグの配達をあきらめて戻っていくか。私は待つことにしました。一時間ぐらいして、子どもたちと女性ふたりで満員になっているミニバスが、私と、バッグでいっぱいの箱を拾ってくれました。私は子どもをひとり膝に乗せて、ハムラを越えていきました。
ときどき内部検問所が現れるので、村にたどりつくには、それらを通り抜けなくてはいけないのが、ほんとうに厄介でした。ある内部検問所では、私たちが 10 分待ったところで、兵士たちが、はっきりした理由がなにもないのに、ジープに乗り込んで、走り去っていきました。べつのところでは、救急車が一台止められて、捜索され、当然のことに遅れてしまいました。
私たちは内部検問所の多くを回避するために、幹線道路を外れて、困難で危険な脇道をとらねばなりませんでした。ある脇道で、ミニバスの運転手が私たちに、クルマから降りて、荷物も下ろしてくれと言いました。私にはその理由がわかりませんでしたが、指示にしたがいました。見ていると、そのクルマはとても危険なカーヴのところで、大きな石を乗り越えました。私はただ息を殺して、祈り、その男の勇気と決意を讚えました。涙をほとんどぬぐいもせずに、自分の箱をひとつずつ運び、クルマに戻した私でした。5 時間後、村に着きましたが、貧しい子どもたちはずっと待っていました。
子どもたちにバッグを届けられたのは朗報です。しかし、ハムラを通り抜けて帰る旅は悪夢でした。私を迎えた兵士は、馬鹿丁寧な男で、私に、ショルダー・バッグの中身を全部ぶちまけるようにと言い、それから、もう一度バッグに入れ直すようにと指示したのです。手まねで、あっち行けという動作するのは、私がまるで虫けらみたいに邪魔臭いという感じで、私が歩きはじめると、彼は言います。「だめだ、あんたはフェンスをぐるっとまわらなくてはいけないんだよ」(舗装をしていないほうを歩けと)。私にそう言うのが楽しくてたまらない彼は、顔中口にしてにっこりしていました。私を侮辱することで、彼の一日は楽しくなったのですよ!
歩きながら、私は大変大きな「過ち」となってしまうことをしました。私が経験させられる、この状況を撮影したのです。一般道に戻ってくると、兵士がひとり待っていました。彼は、「あんたは写真を撮ったね」と言い、私も「ええ撮ったわ」と事実を認めました。すると彼が尋ねます。「なぜ撮ったのかね」と。私はほんとうのことを言いました。「私が歩かねばならなかった通路の経験がおもしろいと思ったので、その写真を撮りたくなったのです」 私のパスポートをぱらばらやった兵士は、「きみに煽られてやつらが我々を攻撃することになるだろう」「馬鹿なこと言わないで、私は記念に撮っただけですよ」 私はそう答えました。すると彼は声のトーンを上げて、言いました。「きみを逮捕させようじゃないか」 私はフィルムを放棄するという提案をしました。「こんないざこざはいやだわ、フィルムをあげるから」 彼は拒絶します。「それは受け取れない」 そして私のパスポートを返してよこすと、そのまま歩み去っていきます。私はすぐに尋ねました。「私は行ってもいいんですか」 彼は私のほうを見ないで言いました。「いいよ」
ほっとしてクルマに乗り込み、幸せに家路に就こうとしました。しかし、検問所では幸せが長続きすることはありません。彼らは、運転手の身分証を持ち去って、待っているようにと命じていたことが、すぐにわかりました。時間は経ち、交通手段などあるはずもなく、兵士たちは、望むだけ私を留めておけることを知っています。私たちは、なぜ解放されないのかについてなにも知らされずに、一時間待ちました。
運転手は、大慌てで警察に電話をしようとし、警察のほうが軍よりものわかりがいいから、兵士は身分証を返さないわけにはいかないだろうと言いました。私のほうは自由にしてもいいことになったのだから、別のタクシーが通りかかったら、それに乗ってこの場を離れることにすると、運転手に話しました。そこで運転手が兵士に私の言ったとおりに伝えると、それを知った兵士は激怒し (彼にはもはや私に罰を与えることができないからです)、私を引き止めておけと、運転手に要求しました。怒り狂った兵士がクルマのところまで来て、「あんたのパスポートをよこせ」と言いましたが、私は拒絶し、彼は、自分にはそうする権利がないことを知っているので、去っていきました。
とうとう、3 時間待ったところで、警察がやってきて、数分も経たずに、誤解があったから、ふたりとも「行っていい」ということになりました。
親愛なるメリー、ここでなにが進行しているかについて、あなたにより鮮明なイメージを与えられたのではないかと思います。たしかに、我が国の領事館にかけあうことはてきるでしょうが、あなたがおもちゃを届けるを手助けしてあげることはなにもできないと、かならず言われるでしょう。この地で人道的な支援をしようとしている米国市民の安全に対する、米国政府の馬鹿げた態度は、受け容れがたいものですし、パレスチナの人々の利益を顧みない態度は犯罪的です。我々の政府は、現実を直視し、犯罪的、非人間的にして、邪悪で非合法な占領への支持をやめることが必要です。
アドヴァイスを少し。
・イスラエルの検問所では十分に気をつけること。ハムラも他と変わらずひどい。
・兵士の不当な行為について、苦情を言える地元警察の電話番号をつねに持っていること。保証はできないが、役に立つかもしれない。
・アメリカ政府やアメリカのパスポートをアテにしてはいけない。イスラエルの監獄にはたくさんのアメリカ人が入れられている。次はあなたかもしれないのだから!
・お願いだから、写真を撮って捕まらないで!
http://www.edagawakoichi.com/WAVETHEFLAG/w-mahasupitani.html