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(回答先: イスラエル、アラファト議長殺害は計画せず=シャロン首相 (ロイター) 投稿者 エンセン 日時 2003 年 10 月 28 日 17:33:52)
ヤーセル・アラファトPLO議長
パレスチナ暫定自治政府長官略歴
(Mr.Yaser Arafat, Chairman of the Executive Committee of the Palestinian Liberation Organization, President of the Palestinian Authority)
平成15年4月現在
1.氏 名 ヤーセル・アラファト
(Yaser Arafat)
2.生年月日 1929年8月4日エルサレム生
3.学 歴 1942年: パレスチナ義勇軍入隊(カイロ)
1950年: カイロ大学工学部入学
1952〜56年: カイロ大学卒業、技術者としてクウェイトへ
4.主な職歴 1959年: アル・ファタハ創設に貢献
1964年: 初の対イスラエル・コマンド活動後、地下へ
1968年: アル・ファタハ公式スポークスマン就任
1969年: PLO執行委員会議長に就任
1974年: 国連総会に出席し演説
1988年: パレスチナ国家独立宣言を行う
ジュネーブ国連総会で演説、テロ放棄とイスラエルの生存権承認という穏健路線を打ち出す。
1992年: Soha Tawil女史と結婚
1992年: スーダン訪問後、リビア南部で搭乗機不時着九死に一生を得る。
1993年: PLO・イスラエル「暫定自治原則宣言」に署名(於:ワシントン)
1994年: ガザ・ジェリコ合意に調印(於:カイロ)ノーベル平和賞受賞
1995年: 暫定自治拡大合意に調印(於:ワシントン)
1996年: パレスチナ立法評議会選挙により、暫定自治政府の長に選出される。
1997年: ヘブロン合意に調印
1998年: ワイ・リバー合意に調印
1999年: シャルム・エル・シェイク合意に調印
6.家 族 ソーハ夫人及び一女
7.宗 教 イスラム教
8.訪日歴 1981年: 日本・パレスチナ議員連盟の招待
1989年: 非公式政府招待
1996年: 非公式政府招待
1999年4月: 非公式政府招待
1999年10月: パレスチナ支援調整東京会議出席
2000年8月: キャンプ・デーヴィッド首脳会談の結果説明のため訪日
アラファト長官の横顔
1929年、エルサレムで生まれる。若い頃は、詩や女性に心を引かれ、ゲームや騒ぎに興じるのが好きなごく普通の青年であった。家庭は、裕福でブルジョア生活を続け、財産や車もあった。カイロ大学で土木工学の学位を取った後、クウェートに土木会社を開き、何不自由ない生活を営んでいた。
しかしパレスチナ人のために働くことを決意し、自らの意志で貧しい人達の苦しさを担うべく、裕福な暮らしと縁を切った。69年、PLO議長に就任した際には、まず前任者が使用していた2台のリムジンを売り払ったと言われる。
暖かい人間性は良く知られるところであり、会談する際には、お互いに十分目が見え、手を伸ばせば肩もたたき合える程、近くで話し合うことを好む。ボディーガードによれば、自分で靴を磨き、ボタンがとれれば自分で縫いつけるなど、個人的なことでは人にほとんど頼み事をしない由。
大の子供好きであり、特に殺されたパレスチナ人の遺児達の中には特別奨学金を与えられた者もいる。
疲れ知らずのタフであり、一晩せいぜい3〜4時間しか寝なくても、精力的に職務をこなす。
92年4月、搭乗機がリビア砂漠に不時着した事故では、乗務員に死者も出る中、軽傷を負ったのみで、強運の持ち主でもある。
94年7月にガザに帰還して以降は、ヘリコプターでガザ・西岸間を東奔西走することに加え、外国訪問も多く、家族(夫人と長女)と過ごす時間もないほど多忙な生活を送っている。
95年11月のラビン元首相暗殺事件の際は、レア未亡人をテルアビブ郊外の私邸に弔問に訪れる心遣いも見せた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/plo/cv/r_arafat.html