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ウォーラーステイン 評論 第118回
サダム・フセインは敗北したか?
サダム・フセインは負けたのだろうか。アメリカ政府のイラク担当官に言わせるなら、この答えは明らかだ。近ごろ、米イラク総督ポール・ブレーマーが「生死にかかわらず、イラクにおけるこの男の役割は終わった」と述べた。
かれの分析は誤っている。ジオポリティクス【1】という競技場で、いつも強者の側に立ってきた競技者は視野が狭い。だから、きわめて限られた短期の展望しか持たず、目の前の結果から勝ち負けを判断しようとする。しかし弱者の側に立ってジオポリティクスの勝負に挑むなら、おのずと戦い方が違ってくる。視野を広くして、中期の展望を持たなければならない。
では、サダム・フセインの立場からイラク戦争を眺めると、何が見えてくるだろうか。読者といっしょに考えてみよう。
一九五八年、急進派のナショナリストたちがイラク王政を倒し、アブドル・カリム・カシムが政権を奪う。新政府のメンバーは、自分たちが汎アラブ運動を進め、アラブ世界に革命をもたらすと考えていた。カシムは、アメリカの後押しで成立したバグダッド条約機構【2】からイラクを脱退させ、石油産業の一部を国有化している。カシム政権はイラク共産党の支持も得ていた。イラクがソ連との関係を深めるとみて、アメリカは警戒する。
六三年、第二のクーデターによってバース党が権力を握った。バース党はアラブの数カ国で活動してきた団体である。宗教とは距離をおいて社会主義を目ざし、ナショナリズムを唱えて汎アラブ運動を進めてきた。ただ、共産主義には敵意を抱いてた。CIAがバース党の権力掌握を助けたと広く信じられている。政権を手にしたバース党はイラク共産党を弾圧した。
当時、サダム・フセインはバース党の将来を担う若い指導者であり、新大統領の甥でもあった。かれは知性とともに残酷さを備えていた。一九七九年、サダムは叔父を辞任に追い込む。血まみれのクーデターの始まりである。支配者となったサダムは反対派の粛清を繰り広げ、止むことがなかった。
権力を握ること以外にサダムは何を望んでいただろうか。アラブが世界政治に果たす役割を強めたいと彼は願い、アラブが広く団結することを求めていた。アラブ世界の指導者になるのは自分以外にいないと、おそらく信じていただろう。サラディン【3】の再来である。現代のサラディンになろうと夢見た者は何人もいた。それは間違いないけれど、ナセルが亡くなってからは、サダムほど実力を持つものは他にいなかった。しかもバグダッドは、カイロと並んでアラブ世界の中心地である。いつの時代でもアラブ=イスラム世界に覇を唱える者たちの舞台となってきた。
こういう目標を掲げると、敵がたくさん現れることはサダムも知っていた。アラブ世界にいる主な敵は共産主義者とイスラム教主義者だった。両者ともサダムを憎んでいた。アラブ以外では、イランとイスラエルが宿敵だった。この両者もサダムを忌み嫌っていた。アメリカとロシアは[サダムの野望を見過ごすことはできないが]、それぞれ相手がサダムにもっと嫌われればいいと願っていた。
すべての敵と一度に戦うわけには行かない。ソ連との関係は残したまま、サダムはアメリカと黙約を結ぶ。ロナルド・レーガン時代のことだ。取引の確認をするために、イラクまで出向いたのは他の誰でもない、ドナルド・ラムズフェルドだった。取引とはなにか。武器の支援と引き替えに、イラクがイランを攻撃することである。
サダムにしてみれば、いくつか目的があった。新たな領土獲得すること。[絶対多数がシーア派であるイランを攻撃することによって]イラク国内で[スンニ派を基盤とするバース党と]対立しているシーア派の勢力を弱めること。汎アラブ運動の旗手としての威信を高めること。そして自国の軍隊を強化することである。
アメリカは、中東地域に持つ自分たちの利益を脅かすのは主にイランだと考えていた。だから、この取引は名案だと膝をたたいて、直接に(あるいはサウジアラビアなどの同盟国を通じて)通常兵器や生物化学兵器を供給した。サダムに情報を与えて、戦争の手助けもした。(公平のために言っておく必要がある。核兵器を手に入れようとイラクが考えたのは、アメリカがイラク=イラン戦争の援助を始める以前から、フランスが原子力発電所の建設を支援していたからだ【4】。しかし、この施設はイスラエルの爆撃によって破壊された)
サダムの立場からするとイラク=イラン戦争は失敗である。八年も闘ったあげく何も変わらなかった。おびただしい数の人命が失われ、莫大な損害をこうむった。それでも、この戦争にイランが忙殺されたのは、アメリカにとってプラスである。サダムは報酬を要求したが、アメリカやサウジアラビアの対応は鈍かった。
ちょうどこの時にソ連が崩壊し、冷戦が終わる。サダム・フセインは別に痛手だとは思わなかっただろう。逆に、これこそ天の助けだと考えた。それまでイラクはソ連から武器の提供を受けていた。だからソ連に配慮して、米ソ関係を緊張させるようなことが何一つできなかった。ソ連の崩壊によって、この制約からサダムはついに自由になる。
一九九〇年、イラク経済は危機を迎えていた。世界市場では原油が安く取引されていたし、イランとの戦争で被った損害も大きかった。戦争の資金を貸し付けていたクウェートが借金の返済を迫ってきた。またクウェートは、イラクの油田にむかって斜めにパイプを掘り下げ、イラクの石油を盗んでいたかもしれない。
そしてイラクには、元を正せばクウェートは自国の領土だという言い分があった。オスマン帝国の時代に、イラクとクウェートは同じ地方に属していたのに、第一次世界大戦のあと、イギリスが自分の都合で勝手に二つの国に分けたのではないか。
そこで、経済問題を解決するために、サダムは賭<ルビ・か>けに出た。クウェートの侵略である。
この企てはイラクのナショナリストたちの訴えに応えるものだったし、もし成功していれば、イラクがアラブ世界の首領国となっていた。そればかりか、イラクはパレスチナの救世主になっていたかもしれない。あのころPLOとイスラエルの交渉が決裂したばかりだった。
おそらくサダムは次のように計算を立てていただろう。
──クウェートに兵を向ければ、間違いなく不法な侵略行為だと見なされる。それでも居なおってみせることができるか? どの国が邪魔だてしてこようか? 強硬な介入ができる国があるとすればアメリカの他にはないが、あの大国は長いあいだイラクに対してあいまいな態度を取っている。
今なら私たちも知っていることだけれど、イラクに在駐していたエイプリル・グラスピー米国大使が、クウェート侵攻のわずか数日まえに、イラクとクウェートの外交問題についてアメリカは中立の立場をとるとサダムに伝えていた。そうすると、これは五分五分だとサダムは考えた。
──アメリカが軍事介入に打って出るか、あるいは言い訳をするだけで、まともに取り組もうとしないか。もし何もしてこないなら、自分の勝ちだ。もし軍事介入をしてくるなら、戦争になる。しかし、とてもアメリカにはイラクを侵略することはできない。だとしたら、たとえ勝利を得られなくても、敗北することはない。
もちろんサダムの計算は正しかった。初代ブッシュ大統領やシュワルツコフ将軍が説明していたように、イラクを侵略すれば米軍の戦死者は耐えがたいほどの数になり、イラクを占領すれば政治上の泥沼に踏み込むことになる。
サウジアラビアとトルコは[それぞれ自国の少数派であるシーア派とクルド人の動きを警戒して]イラクが分裂することを恐れていた。イラクの南部にシーア派の国家が生まれ、北部でクルド人が独立することになるかもしれないからだ。
こういう事情があったから、第一次湾岸戦争が終わったとき、サダムは戦争が始まる前と同じところまで兵を引いただけで停戦を結ぶことができた。確かに損害があった。陸軍と空軍のいくらかを失った。南部にシーア派の国家はできなかった。しかし北部ではクルド人が独立を唱え、正式に承認されていないにしても、国家が建てられた。
サダムは国連の監視下におかれ、彼が保有していた大量破壊兵器はすべて廃棄されることになった。一九九八年、国連の査察団をやっと追い出したときには、大量破壊兵器はほとんどなくなっていた【5】。
ジョージ・W・ブッシュが大統領に就任したとき、危ないことになるのがサダムにはわかった。ブッシュのアドバイザーを務める上級閣僚たちのほとんどが、ほんの数年前に、サダム政権を叩きつぶせと公言していたからだ。そして九・一一事件が起きる。アメリカの報復攻撃を受るはオサマ・ビンラディンではなくて、結局は自分だとサダムは見抜いていたに違いない。
そこで、サダムは国連の査察団を呼び戻すことにした。今にして思えば、サダムは持っていた大量破壊兵器を廃棄していたようだし、新しく配備しなおした様子もない。査察団が何も見つけられないことは最初からわかっていた。
ところが、すぐに明らかになったように、サダムがたとえ何をしようとアメリカのイラク侵略をくい止めることはできなかった。そもそも侵略の目的はサダム政権を倒して、中東にアメリカの武力と政治力を確立することだった。
大量破壊兵器を持っていないのなら持っていないと、どうしてサダムは言わなかったのか。実際には、もう何も残っていないとサダムは訴えていた。しかし誰も信じようとしなかった。サダムに何ができただろうか。兵力は限られている。二度目の戦争に勝てないことはわかりきっている。
もし、あなたがサダムだったとしたら、勝つ見こみのない第二次湾岸戦争を前にして、どんな対策を立てるだろうか。選択はひとつしかない。第三次湾岸戦争に備えることである。では、あなたはどんな準備をすればいいだろうか。
第一に、全軍のなかでは少数だが、自分に忠誠を誓う勇猛な兵士をできるだけ失わないようにすることだ。だから米英軍の攻撃を受けて立つにしても、早い段階できっぱりと抵抗を止める。
第二に、大がかりな略奪を組織しておこない、国内を混乱させる。
第三に、あなたがすることはゲリラ攻撃だろう。最初は米兵を標的にする。それから次第に攻撃の手を広げ、アメリカに協力するすべての者を狙ってゆく。
あとは何も急がずに、アメリカの体制が足もとから崩れていくのを静かに待つ。しばらくすれば流れが変わり世論が自分の有利に傾くだろう、とあなたは考える。アメリカとイラクの世論が必ず情勢を動かす。
アメリカでは市民が、じわじわと増えつづける戦死者の数におびえ、イラクの統治が何もうまくいかないことに不安になり、ブッシュ政権の得意技となっている嘘やごまかしに嫌気がさして、イラクでの作戦をもう支持しなくなる。
やがてイラクでは、虐殺と拷問で知られたサダムを、祖国のために抵抗をつづける英雄としてたたえるようになる。たとえアメリカがサダムを探し出して殺したとしても、サダムの姿は人びとの心に刻まれるだろう。アメリカが「イラク解放」を果たしたという物語を信じる者などいない。十字軍を打ち破ったサラディンの威光には及ばないけれど、敵に武力で劣るのだから、サダムもほどほどで満足しなければならない。
サダムの政府を叩きつぶせば勝利は我がものとなる、とブッシュは信じていた。一方サダムは、ブッシュを政権からひきずり降ろして最後に勝つのは自分だと計算していた。どちらの読みが正しいか。勝負の行方はやがて見えてくる。
Immanuel Wallerstein, "Has Saddam Hussein Lost?" Commentary No. 118 (August 1, 2003).
http://fbc.binghamton.edu/118en.htm
【1】山下範久(歴史社会学)によると、「ジオポリティクスという言葉は、通常は地政学と訳され、特定の地理的な空間を条件として展開するパワーゲームに注目する政治分析を指すが、世界システム論においては、資本主義世界経済というひとつの空間的な実体を条件として、そのなかで展開する大国間の政治的・軍事的抗争のダイナミズムを指す」。
【2】1955年4月に成立した条約機構。加盟国は、イラク王国・トルコ共和国・連合王国(イギリス)・パキスタン自治領(英連邦)・イラン王国。
【3】サラディン(1138年〜93年)は、イラクのティクリートで生まれた。アーリア系クルド族の出身。69年、シリア軍の司令官としてエジプトに遠征。ファーティマ朝エジプトを廃し、アイユーブ朝の始祖となる。エジプトからシリアやイラクへ勢力を広げ、87年7月、ハッティンの会戦で十字軍を破る。同年10月、聖地エルサレムを異教徒の手から90年ぶりに奪回した。十字軍の遠征を受けてもエルサレムを守りぬき、サラディンは史上最も名高いサルタン(イスラムの王)となった。サダム・フセインにとっては故郷ティクリートの英雄でもある。
【4】1975年、シラクがフランス首相としてバグダッドを訪れ、当時副大統領だったサダム・フセインと会見し、イラクがフランスから原子炉を購入することについて交渉している。翌年、フセインがフランスを訪れ、シラクに案内されてフランスの原子力施設を見学した。この訪問の際に取り交わした合意書にもとづき、フランスは発電のための大型原子炉と研究のための小型原子炉をイラクに売却。さらにフランスは、イラクに原子工学を教授し、600人の技術者と科学者を養成する約束をしていた。
【5】1991年から98年まで国連特別委員会の主任査察官を務めたスコット・リター氏によると、国連の対イラク兵器削減プログラムは成功を収め、90%から九五%の兵器が廃棄された。特に生物・化学兵器を始め、核兵器の開発に関連する施設は完全に破壊され、イラクは98年までに軍事的脅威ではなくなっていた。この事実はイラクの周辺諸国も、イラクに侵略されたクエートやイランさえも、認めている。またリター氏は、98年にイラクが査察団を追放したという話はアメリカのプロパガンダだったと証言した。事実は逆で、同年12月に「砂漠の狐」作戦でイラクを爆撃するために査察団に退去を要求したのはアメリカだった。査察団に潜入したアメリカとイギリスのスパイが集めた情報がこの作戦に利用された。もちろん、査察団によるスパイ活動は違法行為である。国連もこの事実を確認している。2001年、リター氏は、兵器廃棄プログラムを妨害したのはイラクではなくアメリカであると抗議して国連の職を辞した。
著作権(2003年)原文に関するすべての権利はイマニュエル・ウォーラーステインが留保する。
( )は原文の挿入語句。
[ ]は訳文の補助語句。
【 】は訳者による注釈。
翻訳/安濃一樹・別処珠樹
ヤパーナ社会フォーラム
フェルナン・ブローデル・センター 研究所サイト
http://fbc.binghamton.edu/index.htm
コメンタリ 総合目次
http://fbc.binghamton.edu/commentr.htm
コメンタリ 日本語目次
http://fbc.binghamton.edu/jpcmhp.html
コメンタリ #118 「サダム・フセインは敗北したか?」
http://fbc.binghamton.edu/118jp.html