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2003年10月17日
6月から8月にかけて、姜サンジュンさんと、3回のトーク・イベントを行いました。その内容を、ほぼ無修正で再録した本が、双風舎という新しい出版社から、間もなく発売されます。仮タイトルは『挑発する知』。以下に目次を掲げます。
『挑発する知』双風舎
第1章 戦争と暴力
第2章 思想と哲学
第3章 非暴力社会の不可能性
第4章 丸山真男からアジアを考える
第5章 メディアと正義
第6章 知識人を考える
ちなみに10月15日に発売された『ニューズウィーク』10月22日号「拉致ヒステリーの落とし穴」
の記事と奇しくも同一趣旨の部分がありますので、「そんなことは一年前から言ってるぜ」と
自慢するために(笑)、宮台発言のみ紹介します。
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宮台◆ それにしても、北朝鮮問題をめぐる日本のメディアや世論の動向は、ひどい状況
です。政府やマスコミに戦略的コミュニケーションの能力がないので、世論を国民益に資
する選択に向けて誘導することができません。気が付くと、日本は六カ国協議の「蚊帳の
外」。拉致被害者家族の帰国交渉どころじゃなくなっている。なのに、どうしてそうなっ
たのか全然わかっていない。
日本が「強制帰国」を決めれば、日本の手札がなくなって家族の帰国交渉も何もかも暗
礁に乗り上げ、北朝鮮は日本を相手にせずにアメリカ相手に核カードを切るぞと、「強制
帰国」決定直後にマスコミで言明したのは、私を含めてごく少数です。完全に言った通り
になりました。
拉致問題解決や、戦争回避や、北朝鮮ハードランディング回避だけが、問題なのではあ
りません。たとえば、アメリカの政府内でも北朝鮮と不可侵条約に準じる約束事をしよう
ではないかという議論が出ていますが、そういう議論に対して、今度はブッシュ政権周辺
や日本の防衛大学校周辺から、肯定的にせよ否定的にせよ「もし不可侵条約を結ぶなら日
本の核武装するしかなくなる」という議論が巻き起こってきています。
確かに、日米安保条約と米朝不可侵条約は、内容において完全に矛盾します。日米安保
条約は「何かあったら日本を助けるぞ、そのためにはアメリカは北朝鮮と戦争もするぞ」
との内容を含みます。米朝不可侵病約は「アメリカは北朝鮮と戦争しないぞ」という内容
を含みます。当然、両立しません。ならば、思考停止の左翼が叫ぶような「不可侵条約を
結べ」といって済む問題ではありません。そこまで物事を考えている人がいますか。
別の例をだすと、万景峰号が船内装備を改装のうえ新潟港に入りたい、または新潟港に
入ってから改装したいので入港をさせてくれという要求が、再び北朝鮮から出されていま
す。すると日本では「断固認めるべきではない!」という声が噴出します。まるで「北朝
鮮に対して強行策に出る」という手札を、日本が自由に切れるかのように勘違いしている。
本当に馬鹿ですね。頭を働かせばわかるでしょう。時期を考えてみてください。直後に
六者協議があるからこそ、北朝鮮は日本に(万景峰号という)ボールを投げて、「日本の
対応次第で北朝鮮は六者協議でどうとでも出るぞ」という具合に、試して来たんですよ。
要は「日本が強硬に出るなら、六カ国協議で日本には交渉の余地を与えないぞ」という
通告です。それなのに日本の報道や世論ときたら、安部晋三的な「馬鹿の一つ覚え」の強
硬策。それはつまり、六カ国協議で日本が座る座布団がなくなってもいいと表明したのと
同じです。それなのに、同じ人間が、拉致被害者家族を断固帰国させろなどとホザいてい
ます。
結果は私が予想した通りになりました。日本は六カ国協議で何の手札も持てず、「北朝
鮮の御厚意」をポカンと口を開けて待っている「馬鹿面状態」です。この馬鹿面こそ、最
大に国辱的じゃありませんか。だとすれば、いったい国賊はだれなのか。
馬鹿の一つ覚え的強硬策と、拉致被害者家族の帰国を断固達成せよとの主張は、両立し
ません。もし家族帰国を優先するなら、北朝鮮との交渉余地を何としても継続することが
必要です。もし馬鹿の一つ覚え的強硬策を優先するなら、北朝鮮が脅迫に応じて帰国させ
ることはありえないので交渉余地が消えて帰国はありえなくなります。幼稚園児が考えて
もわかることでしょう。
さて、私のところにいろいろな質問がきます。「確かに今の日本外交は幼稚園並みだが、
対米従属のせいだろう。対米従属を脱して一人前の国になるには、やはり核武装しかない
のではないか」という質問が一番多い。答えは簡単。どう答えるべきなのかが、オーソドッ
クスな枠組みでは完全に決まっているのです。どう答えるべきなのか、お分かりですか。
ポイントは、核とは、抜かずに飾り置く「伝家の宝刀」。抜いたら終わりということで
す。その意味で、まさしく戦略兵器なのです。そう。戦略兵器制限交渉でいう戦略兵器と
は、核兵器です。まさに戦略のために「持つ」わけですから、戦略的コミュニケーション
能力の乏しい政府が核兵器をもったら、まさしく「狂人に刃物」でしょう(笑)。そして
日本には、昨今の外交を見ても分かるように、戦略的コミュニケーション能力が乏しい。
だから「一人前の国になるためには核武装」などと考えるのは本末転倒なのです。核拡
散防止条約が事実上発しているのは、「一人前の国だけが核武装できる」というメッセー
ジ。その意味で、核拡散防止条約には、単なる大国エゴという以上の合理性が、確実に存
在します。そのことをちゃんと言っている右や左の論壇人がいますか。
オチをつけると、物事を一つの物差しだけで理解することはできません。姜さんがいっ
たように、いまは複雑な状況です。姜さんの言葉でいえば、連立方程式を解かなければい
けない。つまり条件つき最適化をするしかない。単一の物差しだけを使って、「これが正
解だから行け!」というのは、間抜けな輩の言うことです。
ところが、現状は、物事が一つの物差しだけで括られています。複雑な状況を単純化し
すぎている。日本のメディアにとって、物事を単純化して見せたほうが、わかりやすいだ
けでなく、情動に訴えやすく、視聴率や部数を稼ぐのに好都合なんですね。「俗情に媚び
る」ことで「勝ち馬に乗る」というわけです。
しかし、これまた仕方のない部分もある。メディアも資本主義の中で飯を食わなくては
いけないからです。「姜や宮台が複雑なことをいっている。そんなことをいわれても視聴
率や売上があがらない。ならば二人には登場を断念してもらい、もっとわかりやすく視聴
者に伝えよう。そうすれば三倍儲かるから、社員の福利に還元しよう」となるわけです。
とはいえ、再び「しかし」です。ここで公共財の考え方が出て来るべきなのです。個人
や企業の利益追求は、ある土俵の上で行われるゲームから得られます。土俵自体が破壊さ
れれば、ゲームは継続できず、利益追求は不可能になる。利益追求が、下手をすると土俵
を壊す結果をもたらしはしないか、と危惧するべきなんですね。そして、それを危惧する
のが、近代の市民ないし国民として、最低限必要な民度でもあるわけです。
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宮台◆ メディアを支えている職業のひとつに、リサーチャーというものがあります。日
本でリサーチャーといえば、クイズ番組の問題をつくる人だったりする。姜さんから下請
け労働者の話がありましたが、日本だとそういう職種です。でも、アメリカやイギリスで
は決してそうじゃありません。
リサーチャーといったら本来、研究者と訳してもいいし、調査者と訳してもいいもの。
優秀なエキスパートとして、番組や記事のために、取材情報や研究情報を提供するという
仕事です。私も、BBCのつくった援助交際を扱うドキュメンタリー番組で、援助交際の
エキスパートとしてリサーチャーをしたことがあります。
でも、そういう意味でのリサーチャーを起用したうえで、時間をかけて番組をつくるテ
レビ会社は、民放には事実上ありません。BBCは、昔からそういう番組づくりをする会
社です。NHKはまる一年、新聞だけ読んで帰るようなディレクターもいるほどですから、
番組製作にある程度の時間をとれる。
ポール・ラザースフェルトという社会学者が、ミドルマンという非常に有名な概念を提
示しています。メディアによる世論形成を正しく行うには、エキスパートと大衆では駄目
で、そのあいだを媒介する人間が必要だということです。彼は「コミュニケーションの二
段の流れ仮説」でも知られていますが、そこで言われるオピニオンリーダー──メディア
情報を受け取って小集団の他成員に媒介する存在──も、まさしくミドルマンです。
わかりやすくいえば、こうなります。専門家がなにか言っている。例えは大学の知識人
が何か言っている。彼らの言うことは難しくて大衆には分かりにくい。。専門家には概し
て万人に分かるようにしゃべる力がない。だから大衆は、専門家の言うことを理解できぬ
まま、単純な図式に押し流される。
だとすれば、専門家がしゃべる難しいことを、一般大衆が聞いてもわかるように、しか
も大きな誤りを含まないように、かみ砕いて、イメージ化して、伝える。そういう責務を
負う存在が、ミドルマンだ、とラザースフェルトは五○年前にいっています。
私はこのことをいつも思い出します。リサーチャーとはまさにミドルマンなのです。専
門家の言う難しいことをすべて完全に理解した上で、一般大衆に分かるように、かみ砕い
て、イメージ化する仕事をするのが、リサーチャーだからです。
ところが日本にはリサーチャーのシステムがない。だからそういうシステムを作ってく
れと、私はいろいろなところに提案しています。また、大学教育の目的として、リサー
チャー養成という項目をちゃんと立ててくれとも、提案しています。
日本にはリサーチャーがいないので、私は専門家であると同時に、リサーチャーとして
の役割も果たしています。学会で難しい話もするけれど、メディアで一般の人が聞いて分
かる話もしたい。本当ならば専門家ではない誰かが引き受けたほうがいい。専門の仕事に
専念できるから。でもメディアと専門家のうち、メディアにリサーチャーの役割ができる
かといえば、どだい無理な話。ならぱ専門家がリサーチャーをするしかない道理です。
ですから、私は、姜さんよりもメディアとの関わりにはもう少し積極的かもしれない。
ミドルマンとしての機能も果たそうと思っているからです。「問題はそんなに単純じゃな
い、非常に複雑だ」ということを、しかし、誰にでもわかりやすく伝えられる人間がでて
こなくてはならないと思うからです。
たとえば九・一一の翌々日、ミドルマンの役割を担おうと考えた私は、「これはアメリ
カの自業自得だ」とラジオで言ったら、ものすごい批判をあびました。でも半年くらいたっ
たら、やはりその通りだったということになったでしょう。実際イラク攻撃以前は、国民
のなかでアメリカを好きだという人が八割近くいました。いまは四割台に減っています。
でも、そうなると逆に、専門家であり、かつミドルマンでもある私は、「それもちょっ
と違うぞ、問題はそんなに単純じゃないということを、ちゃんと伝えなきゃ」というふう
に思うわけです。
たとえば、アメリカによるイラク攻撃については、大量破壊兵器に関する情報を捏造ま
でして世論を操縦したことで、正当性の危機に陥って、ブッシュ政権は大弱りしています。
当初は私の「アメリカ自業自得論」を不謹慎だと批判していた皆さんも、さすがにネオコ
ンの自業自得を嘲笑するようになってきました。
ですが、そこで私は、はたと考え込んでしまう。いったい、みなさんは、何を根拠にし
てネオコンを批判しているのか。情報の捏造ですか。なるほど、それはいけないことです。
では、ネオコンがもっと周到で、もっと国際世論を味方につけるような手順を踏んだ上で
イラク攻撃をすれば、アメリカはOKということになるんでしょうか。
たまたまどこかから大量破壊兵器がちょろっと見つかっていたら、どうでしょう。ある
いは、もっと周到な謀略を使って、見つかったことにしていたら、どうでしょう。そうやっ
て、安保理決議を通し、総会決議を通して、などという手順を踏んだうえで、徹底してイ
ラクを粉砕していたら、どうですか。これとても、現実に十分ありうる話ですよ。
今回のネオコンは、ちょっと頭が悪かった。あるいは、ちょっとおごりたかぶっていた。
だから稚拙に振る舞ってしまい、まわりからの袋叩きになってしまいました。しかし、イ
ラク攻撃の孕む問題は、第一に、ネオコンの粗野さという問題以外に、第二に、システム
の正統性(正当性ではない)の危機という問題があります。
つまり、実は背後に、もっと大きな問題が控えています。それは一九九九年にシアトル
のWTO総会で問題になった、グローバライゼーションとはなんなのかという問題と密接
にからんできます。この問題を取り上げるマスコミがまったくいないというのも、ミドル
マンの不在──場合によってはそれ以前の専門家の不在──を象徴しています。
この、もっと大きな問題である「システムの正統性の危機」という問題を分かりやすく
説明するのは困難なので、長い間いろいろと考えて来ましたが、その結果、ディズニーラ
ンドの比喩がいいと思いました。以下に詳しく説明してみましょう。
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宮台◆ 皆さん、ディズニーランドにいったことがあるでしょう。ディズニーランドの表
層は多様です。開場時間内であれば、誰がいつトゥモローランドにいてもアドベンチャー
ランドにいてもいい。どこにいろとは誰も強制されない。それぞれのエリアの境界はしっ
かりと分断され、お互いにエリアのノイズ(雑音)が漏れないようになっています。
ところが深層には、周到なアーキテクチャー(構造)があります。汚水処理やゴミ処理
や物流などの基幹システムが、地下に隠れています。でも、そのことを、表層で多様性と
戯れている私たちは、誰が何をどうコントロールしているかを知ることはありません。こ
のビジョンこそまさにカルチュラル・プルーラリズム(文化的多様主義)そのものです。
さて、ネオコン的な思考とは何か。彼らはもともとホロコーストの記憶をもつユダヤ人
たちです。ですから、近代における少数者の自由と保護を主張するカルチュラル・プルー
ラリストたちであるわけです。そこでいう近代とは、多様な表層を、不可視の深層──複
雑なアーキテクチャー──が支える、システム理論的にいえば、負担免除のシステムです。
そして、ここがカルチュラル・プルーラリストたるゆえんですが、多様な表層を侵害し
たり、多様な表層を支える深層を侵害したりする輩が登場すれば、徹底的に除去するぞ、
と考えます。北朝鮮ランドやイラクランドがあってもいい。でもファンタジーランドを傷
つけたり、基幹システムにさわるような奴が出てきたら、許さないぞというわけです。
除去するぞ、許さないぞ、の具体的な中身が問題で、もともとこの部分にはニュー
ディーラー的な「社会政策の遂行」が大きな割合を占めていたのが、さきに申し上げたよ
うな成熟社会化を背景とした社会状況の変化を背景にして、「法的意思の貫徹」のほうが
圧倒的な割合を占めるようになった。これが昔と異なる、現在のネオコンの姿です。
すると、ネオコンをめぐる問題には少なくとも三つの水準があることが分かります。第
一は、大量破壊兵器の情報操作に見られる粗忽さ。第二は、「社会政策の遂行」に対する
「法的意思の貫徹」の肥大ぶり。第三は、ディズニーランド的システム自体の善し悪し。
私たちは、むしろ第二、第三の水準を問題にしなければなりません。
第二の水準については、もうしゃべりました。これはネオコンを批判して済む問題では
なく、何かというと「断固たる措置!」と思考停止的な雄叫びをあげる私たち自身の問題
でもあります。しかしこの水準は論理的には決着がついていて、あとは合意形成というか、
ローティ的にいえば「感情教育」の実践があるのみ。もちろん、それすらも出来ない日本
のマスコミや論壇の体たらくは、言わずもがな。
決着がついていない、というか、そもそも論理的に決着をつけられない問題が、第三の
水準です。ネオコン=カルチュラル・プールラリストの、ディズニーランド的発想は、と
てもよくできています。まさしく苦難を経た者たちが考えだした、近代システムの理想型
の一つだと思うのです。カルチュラル・プルーラリズムとはこういうものだという典型の
一つを示しています。
私自身もカルチュラル・プルーラリストです。だから途中まではネオコンとよく似た発
想をします。具体的にいえばマルチ・カルチュラリズムを認めません。では、カルチュラ
ル・プルーラリズムの立場に立ちながら、どうやればネオコンのディズニーランド的な構
想に滑り落ちずに済むか。そこで私が参照するのが、ヨーロッパ連合(EU)構想であり、
古くは亜細亜主義構想なのです。
ちなみに、マルチ・カルチュラリズムとは何か。たとえばインドには、男の人が死ぬと、
殉じて奥さんも死ななければいけないという義務がありました。奥さん本人が本当に死に
たいのならいいけれど、死にたくないのに無理やり死なせられようとしている奥さんがい
たとします。どうするか。
近代主義者であるカルチュラル・プルーラリストは「そんな社会は許さん」と言います。
本人意思を尊重するか、成員に例外行動を認めないなら共同体の参入離脱の自由を認める
か、どちらかが必要だと主張します。マルチ・カルチャリズムは違います。そういう殉死
社会と同じく、近代もまた数ある文化や文明の一つに過ぎない。それなのに、近代の物差
しをもって「そんな社会は許さん」などと叫ぶのは、不遜かつ僭越であると考えます。
人権概念を持ち出すとわかりやすい。人権概念──統治権力が侵害できない国民の行為
領域を憲法によって統治権力に命令するという観念──は、そもそも近代憲法をもつ国に
だけ通用する概念です。アメリカとヨーロッパと一部の国々を除いて、ほかの地域では通
用しません。
しかし、近代を「主義」として主張する近代主義者は、一般に統治権力が侵害していは
いけない国民の行為領域として、これこれしかじかのものがある──生命財産の自由であ
り、思想信条表現の自由であり…──と積極的に主張します。インドや中国でしかじかの
人権が認められないのは許し難いと私が言うとき、そうした意味合いになります。
私はカルチュラル・プルーラリストです。つまり近代主義者です。近代主義者は、途中
まではさきほど説明したようなネオコンと発想を共有します。だから、ネオコンはヤバい
のでマルチ・カルチャリズムに移行しようなどホザく「左翼」を許せません。そうなると、
私は、巷に溢れるネオコン批判を是々非々にしか受け取れません。
ディズニーランドの比喩をだすのは、分かりやすさとは別に、一定の戦略があります。
ディズニーランドはいいなと享受する時点で、その人はある意味で既に「ネオコン」なの
だ、と突きつけたいわけです。そのことによって、ネオコン的な思考を否定することは、
そこいらの輩が考えるほど、簡単なことではないことを示したいんですね。
ディズニーランド的世界は、どこがまずいのか。それをまずいと言える数少ないロジッ
クが、正統性論なのです。ちなみに、正当性とは正しいことであり、正統性とは自発的な
服従契機の存在です。正統性は正当性を含みます。じゃあ、具体的に何がまずいのか。ヨー
ロッパで展開しているスローライフの安全保障思想をヒントにして言えば、こうなります。
よさげに見えるディズニーランドは、アーキテクチャーが見えないところに問題がある。
見えないところで誰かが不当な権益を維持しているかもしれない。見えないところで環境
に──子孫に──負荷をかけているかもしれない。見えないところで他者──南側諸国─
─に負荷をかけているかもしれない。見えないところに、炸裂した場合に誰も収拾できな
いリスクがあるかもしれない。そんなシステムは公共性を欠き、自発的に受容しがたい。
ここから代替的なシステムが構想されます。社会システムのアーキテクチャーを、デプ
スが深くなりすぎないようにし、全体を見通したいと思う者たちのアクセシビリティー(接
近可能性)やコネクティビティー(接触可能性)をオープンに確保し続け、いつでもオル
タナティブなオプションを提案できるようにする。それがEU思想の背後にある、エネル
ギー安全保障・食料安全保障・IT安全保障・文化的安全保障の発想だといえます。
付け加えれば、ディズニーランド的なシステムの過剰流動性がもたらす入替え可能性の
感覚──生きることの実りのなさやコミュニケーションの実りのなさをもたらす元凶──
を、流動性の低減によって防ごうという発想も、そこにはあります。とりわけこの発想は、
かつての亜細亜主義につながります。また、マルチレイヤーごとに異なる行政単位を置い
て、効率を上げると同時に、リスクをヘッジしようという発想も、そこにはあります。
いずれにせよ、日本を含めたアジアの国々も、ネオコンのディズニーランド的なアーキ
テクチャーに対抗する、近代的で合理的な社会構想を手にしなければ駄目だと、私は思っ
ています。
最後にメディアの話に戻ります。メディアで話すのは確かに難しい。とりわけテレビに
出演して三○秒以上話すと、視聴者に「なんでこいつの顔がずっと映っているんだ」と思
われます(笑)。「目の下にくまができてるじゃん」などと関係ないところに注目されま
す(笑)。だから私はラジオに比重をおいて仕事をしています。
でも、聞き手の数が違うので、時にはテレビにでます。テレビだと普通、発言時間は長
くて一分です。一分で話せるよう一生懸命に工夫します。そんなテレビの世界を多くのア
カデミシャンはくだらないと思っています。実は私もくだらないと思っています。しかし
ながら、ミドルマンがいない現状では、自分でミドルマン役をやるしかありません。
もちろん、これはいい状態とはいえません。でも、誰もミドルマン役を果たさないがゆ
えに、情緒的な噴き上がりによって墓穴を掘るたぐいが内政でも外交でも溢れているよう
な状況が放置されるのは、もっと悪い。だから、姜さんも「いざとなったらアカデミズム
に戻る」などとはいわず、ミドルマンの役割を果たし続けていただきたいんです。
この場にいらっしゃるアカデミシャンの卵の方々には、自分が考える難しいことを、三
分で表現したり、一分で表現したり、三○秒で表現したりする訓練をしてほしい。それが
できない限り、メディアは絶対に使ってくれません。使ってくれなければ、ミドルマンの
機能を果たすことはできないのです。
http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20031017