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外務省は流用疑惑が発覚後、責任者の阿部知之官房長官、竹内春久総務課長、木寺昌人会計課長、緊急入院[週間ポスト]
http://www.asyura2.com/0311/war41/msg/1414.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 1 月 30 日 07:05:49:dfhdU2/i2Qkk2
 

(回答先: 機密費流用疑惑:外務省幹部の処分内容 [毎日新聞] 【薮中三十二 懲戒減給(3カ月×20%)】 投稿者 なるほど 日時 2004 年 1 月 18 日 15:31:51)

阿部知之官房長  懲戒減給(1カ月×20%)

竹内春久官房総務課長   懲戒減給(1カ月×20%)
 
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200101/26/0126m172-100.html

★竹内春久 米国生まれ 1975年一橋大学経済学部卒業

<TWP特報2・外務省組織ぐるみの証拠隠滅工作−−現役外務官僚が決意の告発>
2001.3.12
外務省はもはや一度解体してつくり直したほうがいい。とても国の外交の衝に当たる品格も責任感もない。一連の外交機密費流用事件では、元室長個人の犯罪として横領罪で告発することで終わりにしようとたくらんだ。が、省ぐるみの機密費流用を一個人の犯罪に仕立てようとしても、たちどころにほころびが生じる。外務省は流用疑惑が発覚すると、省内調査を行った。調査の責任者である阿部知之官房長官をはじめ現場で指揮をとった竹内春久総務課長、木寺昌人会計課長の3人がそろいもそろって、緊急入院し、何も知らない経済協力局長が急遽官房長代理になって国会答弁をしているが、それ自体が疑惑隠しと言っていい。なぜなら阿部官房長らが調査の名のもとに行ったことは、外務省挙げての証拠隠滅工作だったことが明らかになったらからだ。現役の外務省準幹部職員は自らの意志と決断において、本誌に機密費問題が発覚して以後の外務省内で行われた大がかりな証拠隠滅工作と機密費流用の実態を改めて証言した。証言は電話や手紙によるものではなく、おりしもハワイ沖で米原潜による体当たり事故が起きた2月10日、本誌編集部員との面談がなされた。彼は身分、職名を明らかにした上で、阿部官房長の指示のもとに、外務省の各局、各課で機密費流用を示す会計書類の破棄などがどのように行われたかを当事者以外では知り得ない事実を次々と明らかにした。詳細は本誌紙上でお読みください。

http://www.weeklypost.com/jp/010302jp/news/news_7.html
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週刊ポスト/2001.6.1
<TWP特報・日本外交機能麻痺
小泉改革政権のクライシス>

(4) 仮病外務官僚を証人喚問せよ


 眞紀子さんが踏み込んだ官邸のもう一つの聖域とは、外務省の機密費から毎年約20億円が首相官邸に裏金として渡される慣行、いわゆる≪機密費上納システム≫の問題だ。
 福田官房長官は森内閣当時に再三、そうした慣行があることを否定したが、眞紀子さんは14日の衆院予算委員会で菅氏から質問されると、
「調査してできるだけ早く報告する」――官僚がつくった答弁資料に目もやらず、そう断言した。
 その途端、国会中継を見ていた外務省と首相官邸はただならぬ雰囲気を漂わせた。
「そんなことをすれば小泉内閣は吹き飛ぶ」
 外務省幹部は吐き捨てるように語ったが、眞紀子さんが「上納の実態はこうだ」と真相を公表すれば、福田官房長官の説明との食い違いが歴然として、眞紀子さんか福田氏のいずれかの責任問題に発展するのは確実だ。本誌は前々号(5月18日号)でこの上納システム問題の解明ができるかどうかで眞紀子外相の真価が問われると指摘したが、外相は核心に迫る姿勢をみせた。
 ところが、翌日の答弁はまたも後退する。
「事務方に聞いたが、上納はないという。前内閣と前外相がそう結論を出している」
 一体、どうしたのか。
 外相就任直後の会見では、「前内閣はいかにも役人にバカにされている」と機密費疑惑の徹底調査を国民に誓った眞紀子さんが、役人の説明をうのみにしたのでは、疑惑解明などできるはずがない。
 眞紀子さんは外相就任以来短期間に外務省の秘密を次々に情報公開した。中でも機密費問題では、省内調査にあたった木寺昌人前会計課長が国会審議直前に緊急入院したことを次のように語った。
「本人から話を聞くと、幹部から、急に『病院に入れ』。今度は出てこいといわれ、フランス行きをいい渡されたということでした」
 外務省では機密費流用事件のさなかにあった今年2月、省内調査の責任者だった阿部知之官房長、竹内春久総務課長と木寺氏の3人が過労を理由に相次いで入院したが、外務大臣が自ら事情を調べたうえで、入院が幹部の指示による仮病だったことを認めたのは極めて重大だ。
 かつて田中角栄氏は独自の資源外交に乗り出したことがロッキード事件につながり、“アメリカの尻尾を踏んだ”と指摘されたが、時移って眞紀子外相罷免の動きは、自民党政治の根幹を揺るがす≪日本の尻尾≫を踏んだからに他ならない。
 とすれば、そこに改革のメスを入れることで、歴史的高支持率に応えるべき小泉内閣の存在理由がある。眞紀子外相1人に負わせる問題ではなく、すぐれて小泉首相自身が政治生命をかけて立ち向かわなければならないはずのことだが、首相が沈黙したままでいるのはなぜか。

http://www.weeklypost.com/jp/010601jp/news/news_4.html
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外交フォーラム12月号

探訪 知られざる近代外交史の群像 第4回(最終回)
戦禍を生きのびた本/竹内春久
かつて日本の外交官が求めてひもとき
その思想や人生観に影響を与えてきた西洋の古書。
「彼ら」は戦時下にも損なわれることなく歳月を経て
今なお再び有志の人に繰られる日を待ち続けている

http://www.toshishuppan.co.jp/gf_new_0212.html
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総領事館ほっとライン 第6回 ロンドン
ロンドンの墓地で先人の足跡をしのぶ
(時事通信「世界週報」2003年11月18日号より転載)

平成15年11月
在ロンドン総領事
竹内 春久


一人一人の日本人の人生とともに

 英国在住の日本人は、在留届ベースで5万1000人、その大半の5万人が在ロンドン総領事館の管轄区域内に住んでいます。在留届を出さない方もかなりいると思われますので、実際の数はさらに多いと思われます。
 これだけ日本の方がいれば、毎日、必ず何かが起こります。総領事館の窓口には年間延べ5万人のお客様が訪れます。旅券をなくした方、現金を盗まれた方、心のケアが必要な方、子供と連絡がつかないと言って日本から安否照会の電話をされる方、結婚、出産、死亡の届けをされる方――まさに、一人一人の方の人生にかかわっているのだという思いがします。
 事故が起きれば、日本人が巻き込まれなかったか当然気になります。阪神タイガーズが優勝すれば、まさか、とは思いながらテムズ川に飛び込む人が出ないかと妄想が頭をよぎります。ちなみにリーグ優勝の際には、ファンがトラファルガー広場に集合し、何の問題もなく陽気に優勝を祝っておられました。念のため。
 ロンドン以外の地域にも日本の方が数多く住んでいます。こうした方々が領事サービスを受けやすいよう、月1回のペースで地方に出掛け、「一日領事サービス」を開催することもしています。
 当総領事館の管轄区域には、全日制の日本人学校がロンドンにあるほか、六つの補習校があります。学校を訪れて児童・生徒の元気な姿に触れると、こちらの方が元気をもらった気持ちになり、私の職務の中でも最も楽しいひとときですが、学校ができた経緯も学校ごとに違えば、規模もロンドン補習校の1200人からヨーク補習校の30人までまちまち。抱えている問題も様々です。画一的な対応ができるはずもありませんが、子供たちの顔を見るたびに、何かできることはないかと思います。かく言う私も、帰国子女の端くれです。

ロンドン近郊の墓地に眠る日本人

 さて、日英関係は、三浦按針ことウイリアム・アダムスが日本に漂着してから400年、幕末・明治維新から数えても150年の歴史があります。江戸時代にも、難破、漂流していたところを救い上げられ、英国の土を踏んだ日本人漁師がいたことが知られていますが、日本人の英国渡航が本格化するのは幕末以降のことです。1862年に幕府遣欧使節が訪英したのに続き、1863年には長州藩から伊藤博文、井上馨らが、また、1865年には薩摩藩から森有礼らが、海を渡り、ユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)で学びました。今日、UCL構内にはこれらの先人たちを顕彰する碑が建てられています。これ以外にも、開国を受け、英国に渡って先進西洋文明を学び、近代日本の建設のため各分野で顕著な功績を上げた人々は枚挙にいとまがありません。
 しかしこの時期、青雲の志を抱いて海外に渡航しながら、不幸にして英国で亡くなった先人も少なくありません。ロンドン近郊だけを見ても、このような人々のお墓が何カ所か確認されています。例えばサーレー州ウォーキングのブルックウッド墓地。山崎小三郎(長州藩、1866年没、22歳)、有福次郎(徳山藩、1868年没、22歳)、福岡守人(土佐藩、1873年没、21歳)、袋久平(佐賀藩、1873年没、24歳)。このほか、宮永孝氏の調査により、1868年に死亡した曲芸師松井菊治郎がこの墓地に埋葬されていることが知られていますが、お墓は確認されていません。
 あるいはロンドン市内ケンザルグリーン墓地の柏木門三(小倉藩、1877年没、18歳)。同じくブロンプトン墓地の浅野長道(安芸藩、1886年没、21歳)――。
 いずれも20歳前後の若さで亡くなっているのが痛ましいところです。その多くは結核により命を落としていますが、当時、日本から英国へは、船で約3〜4カ月の厳しい旅路でした。せっかくたどり着いた異国の地で病に倒れた無念は今も胸を打ちます。

先人の努力の上に築かれた日英関係

 その後、英国の日本人社会は、第一次世界大戦を経て拡大し、以後、1941年、日英が開戦するまで、千数百人が在住していました。1936年、英国に移住しこの地で一生を終えた方を祭るために、当時の在英日本人社会が建立したお墓がロンドン市内のヘンドン墓地にあります。ここには39人の方が眠り、136人の方の名前が氏名標に記されています。戦争で英国の日本人社会が崩壊したこともあり、戦後はここを訪れる人もない時期が続きましたが、近年、当地に永住する日本人を中心とした集まりの「英国日本人会」が尽力された結果、去る10月4日、この墓前で初めて慰霊祭が行われました(詳細は在英国日本大使館ホームページ http://www.uk.emb-japan.go.jp/jpn/index-j.html をご覧ください)。
 現在、日英両国の間には深く広いきずながありますが、日英関係が今日の隆盛を見るまでには、開国以来、先の大戦を挟み、数多くの紆余曲折がありました。その間、多くの先人が血のにじむような努力を重ねた結果の上に、今日の我々がいることは言うまでもありません。このような知られざる先人の足跡を一人でも多くの方に知っていただくことも領事のささやかな仕事の一つと思うのです。

 (後記)本稿は多くを日英史研究家大庭定男氏の著作および御教示に負っています。記して御礼申し上げます。

ワンポイント・アドバイス

 英国を訪れる日本人に最も人気の高い場所の一つがバッキンガム宮殿の衛兵交代。ここはまたスリの名所でもあります。英国では旅券の携帯義務はありません。ホテルのセーフティーボックスに保管して、見物にはコピーを持って出かけるのが良いでしょう。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/iken/03/souryouji/london06.html

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