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行司役失った自公「相撲」
――土俵上は危うさがいっぱい――
政権合意書を交わす小泉首相と公明党の神崎代表
東京・平河町の砂防会館と言えばかつて田中角栄が事務所を構え、木曜クラブ(田中派)の事務所が置かれた田中支配のシンボル的存在だった。解党した保守新党はこの四階の一室に党本部を置いていた。保守新党の実質的なリーダーだった二階俊博は田中派議員として中央政界にデビュー、師匠筋に当たる木曜クラブ会長代行を務めた江崎真澄の個人事務所も砂防会館にあった。そんな郷愁にも似た二階の思いがこの古いビルに党本部を置かせたのかもしれない。ちなみに同じフロアの廊下の突き当たりは中曽根康弘事務所である。
十一月九日に投票が行われた衆院選の余韻がまだ尾を引いていた十日朝、二階の携帯電話が鳴った。相手の声は官房長官福田康夫である。
「選挙では選挙協力が十分できなかったことをまずおわび申し上げたい」と福田には珍しく丁重な口調で切り出した。その上で福田は二階に自民党との合流を持ち掛けたのである。
「自公になったら必ず行き詰まる」
二階は懊悩した。「俺一人ならあと二、三回は小選挙区で当選する自信はある」と側近に漏らしている。確かに二階は和歌山三区で十万票を超える大量得票を果たし、得票率は自民党幹事長安倍晋三に次いで全国四位を記録した。しかし代表の熊谷弘を失い、生き残ったのはわずか四人。しかも再起を図ろうにもこの先の展望は全くない。すでにこの時点で自民党は加藤紘一ら三人の保守系無所属の追加公認を決め、当選者は計二百四十人になっていた。過半数まであと一議席。二階はこの二つの事実を前に決断を急いだ。
「電話では話ができない。すぐに会いたい」
二階は福田と密かに会談した。二階が最初に仕えた岸内閣の建設相遠藤三郎は福田の亡父、元首相福田赳夫と旧制一高、東大を通じての親友同士で、二階も福田赳夫に目をかけられていた。そんな縁で二階は 福田と腹蔵なく会話ができた。二階は一つだけ条件を付けた。
「国民の見えるところで小泉総理が要請する形をとってもらいたい」
二階は福田の了承を取り付けると、砂防会館の党本部に所属国会議員全員を集めた。全員と言っても衆院四人、参院三人の計七人。これに落選者も加わった。二階は全員が集まった席で、かいつまんで事情を説明、いきなり党声明の案文作成に入った。全員参加の党声明文作成は前代未聞だが、作成はそれ自体が全員の合意形成作業だった。党の職員は命ぜられたままにワープロのキーボードを打ちながら事の重大性を知る。
福田が約束したとおり午後四時から国会内で開かれた選挙後初の与党党首会談終了後、首相小泉純一郎は二階と元保守党党首の扇千景を官邸に呼び、合併を二階らに伝えた。扇はかねてから自民党入りを渇望していた。自民党の青木幹雄参院幹事長のもとに足繁く通っていた。参院議長狙いの思惑が丸見えだった。
この間、公明党には全く連絡はなかった。それどころか二〇〇〇年四月の自公保連立の枠組みをつくった自民党元幹事長、野中広務にも二階は連絡を取らなかった。わずかに二階の秘書が野中に自民党との合流の事実だけを伝えたに過ぎなかった。野中は常々、「どんなに苦しくても三党連立の枠組みは残さなあかん。自公になったら必ず行き詰まる」と口を酸っぱくして二階に助言していた。「野中さんに相談すれば、間違いなく反対されることは分かっていた。がんばれ、がんばれと言われても 野中先生は議員じゃなくなった。お気持ちはありがたいが、これしか方法はなかった」「なぜ野中さんに相談しなかったのか」と問われると二階はこう答えている。
しかし二階の自民党への合流決断の重大性は時間の経過とともに政界全体に静かな衝撃となって広がっていった。自公連立政権についての国民世論の評価があまりに低いからだ。マスコミの世論調査では約半数の国民が「望ましくない」と答えたのである。おそらく合流を呼び掛けた福田康夫にも想定外のことだったはずだ。公明党そのものが自公連立に腰が引け始めた。公明党代表の神崎武法は「本当は三党の方がよかった」と述べ、今後の運営に当たっても「自民党と緊張関係をもって臨みたい」との見解を表明した。その上で神崎はイラクへの自衛隊派遣について「慎重に」と小泉に釘を刺した。野中の指摘が現実のものになった。
自公連立の基礎は一九九九年十月五日に発足した自自公連立にある。その前年の九八年七月の参院選で自民党は惨敗した。首相橋本龍太郎が責任をとって退陣、その後を小渕恵三が継いだ。ところが参院選直前になって社民党と新党さきがけ(その後解党)が連立政権から離脱しており、参院で過半数を大きく割り込んだ中で小渕内閣が誕生した。そこで官房長官に就任した野中が公明党幹事長冬柴鐡三に連立を持ち掛けたのである。だが、冬柴は意外な答えを返す。
「いきなり公明党が自民党と連立というわけにはいきません。まず自由党とやってください。とても世間様の批判には耐えられませんわ」
やむなく野中は宿敵小沢一郎に“ひれ伏し”、自由党に連立を呼び掛けたのである。公明党も創価学会も権力への誘惑に駆られながらもリスクの大きさを百も承知だったのだろう。保守新党解党の反射的効果で生まれた自公連立を公明党が心から歓迎できないのもこのときと同じ心理状態と言っていい。
見直し論に火がつくのは早い
自公連立はいわば行司のいない相撲を取るようなものだ。自公の意見が食い違った場合はどう収拾するのか。これまでの自公保体制で実質的な舞台回しを担ってきたのは山崎拓、冬柴、二階の三人の幹事長だった。自公の意見が対立すれば、二階が調停案を出して収めてきた。山崎は議席を失い、二階も自民党合流で後ろに引き下がる。結局は冬柴だけが過去の経緯、ノウハウを知るに過ぎない。
第二次小泉内閣が発足した十一月十九日夜、安倍・冬柴会談で突如として児童手当の支給対象年齢の上限を引き上げることで合意した。冬柴の要求を自民党幹事長安倍晋三が全面的に受け入れたのである。手練老獪という表現がピタリとはまる冬柴と、清新さが売りの安倍との与党幹事長会談などイメージさえ湧かない。酒を飲まない安倍は「これまでの自公調整は山拓さんと冬柴さんが酔っぱらってつくったものばかりじゃないの」と冗談とも本音ともつかない皮肉を漏らしている。
こうした表の折衝、調整とは別に自公間には水面下のパイプが機能してきた。むしろこっちの方が本筋かもしれない。かつては竹下登と創価学会会長の秋谷栄之助を結ぶ軸があった。秋谷の奥には名誉会長の池田大作の存在がある。この軸は小渕恵三、次いで野中広務と受け継がれて公明・創価学会の窓口になってきた。とりわけ野中は創価学会の実力者で東京都議でもある藤井富雄、公明党参院議員会長の草川昭三、また将来的には太田昭宏に目を掛け、中国の政界要人との会談などに同席させるなど、公明党・創価学会対策では極めて大きな役割を果たしてきた。竹下の秘書から政界入りした青木幹雄も副会長八尋頼雄ら学会の中枢と関係を維持してきたが、野中のように政策的問題まで全般にわたって仕切る力はない。
当面の課題で言えば、神崎が小泉に進言したようにイラクの自衛隊派遣が自公の前に横たわる。小泉はイラクでの治安悪化を前に年内の自衛隊派遣を見送る考えだ。だが、安倍が言うように「出さないという選択はない」。しかし派遣すれば犠牲者が出る可能性は極めて高い。殉職自衛官の棺が帰国しても公明党は小泉が進める対米追随路線に歩調を合わせるのだろうか。
公明党は今度の衆院選の比例代表で八百七十万票を超える得票を記録した。来年の参院選は六月二十四日公示、七月十一日投票の日程で行われる。公明党はこの参院選の比例区ではさらに目標を上げて一千万票に置く。党の原点とも言える「福祉と平和の党」の看板に背を向けては選挙にならないはずだ。自公連立見直し論に火がつく可能性は排除できない。
世論の評価が低く、調整窓口が曖昧なまま、小泉も公明もあまりに大きな決断をいとも簡単にし過ぎたのではないか。
自民党内でも早くも元幹事長古賀誠が公明党依存体質からの脱却を求める声を上げた。古賀はかねてから、公明党への深入りは自民党にとって決してプラスにならないというのが持論だ。今度の衆院選で古賀自身は楽々と八回目の当選を果たしたものの、同じ福岡県内では腹心の太田誠一(福岡三区)、荒巻隆三(福岡六区)、山本幸三(福岡十一区)の三人を落選させた。選挙戦をめぐる執行部の取り組みに疑問を持っても不思議はない。
最初の試金石はイラク問題
古賀に限らず、「小選挙区は自民党、比例は公明党」と公然と叫んだ自民党候補者が続出したことに違和感を抱く自民党支持者は相当数にのぼる。自民党公認候補者の中には自分の後援会名簿まで公明党側に手渡した候補者もいた。自民党公認の小選挙区当選者百六十八人中、少なく見積もっても百人ないし百二十人前後が公明票の支えで当選したとの分析もある。もはや選挙協力の枠を大きく超えて「自公党」で当選したと見るべきかもしれない。
自民党入りした二階は、保守新党出身議員で新派閥「新しい波」を結成した。古賀との関係を忖度《そんたく》すれば古賀別働隊の色彩を強めるのは確実だ。野中が自らの後継者である田中英夫(京都四区)を古賀に預けた。総裁選で善戦した元外相高村正彦らも古賀との連携を深めるのは確実で、古賀を真ん中に新たな勢力形成が進みつつあると見ていいだろう。それが将来的に反小泉連合に繋がるかどうかは現時点では判然としないが、いつ火を吹いてもおかしくない状況だけは生まれている。
一方、上述したように首相小泉は、山崎拓が落選したことで自民党内をコントロールするための大きな手立てを失った。幹事長の安倍はあくまでも「選挙の顔」に過ぎない。勢い小泉は森喜朗と青木幹雄の早稲田大学雄弁会コンビに頼らざるを得なくなった。衆院選で森派は独り勝ちし、堂々第二派閥に躍進。青木が属する橋本派はベテラン議員の引退もあって数を減らしてはいるものの、最大派閥の座は維持した。
この結果、最大派閥と第二派閥が手を結ぶ「森・青木連合」が誕生、小泉を支えることになる。二人とも理念型の政治家ではない。むしろ古典的な自民党議員である。その二人が「自民党をぶっ壊す」と公言する小泉を支えるという矛盾をどう消化していくのか。
衆院選を経て自公の二党連立体制に移行した。自民党内は「森・青木連合」と小泉に批判的な古賀のグループに収斂されつつある。
しかし、これで政権内の力関係が定まったわけではない。来年の参院選を睨んで新たな舞台の幕が上がったに過ぎないのである。保守新党という触媒を欠いた自公体制がどのような化学反応を見せるのか。最初の試金石はイラク問題である。
台風の眼となるか――古賀誠元自民党幹事長