現在地 HOME > 掲示板 > 選挙1 > 638.html ★阿修羅♪ |
|
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-11-15/02_02.html
「二大政党時代の到来がみえてきた」。日本経団連の奥田碩会長は十日、総選挙結果をこう評価しました。自ら思い描いていた通りに事が運んだ−そんな心情の告白でした。財界が仕掛けた「政権選択選挙」。何が仕組まれ、何が実行されたのか、改めて検証します。
細川政権のやり残し
「十年前の八月九日、細川政権が誕生した。…そして政権交代可能な小選挙区制というものを、細川政権で誕生させてもらった」「小沢党首と私、民主党、自由党が一緒になって、十年前の細川政権でやり残した第二弾、第三弾をやらなければならない」
民主党と自由党の合併合意(七月二十三日)を受けた八月八日、民主党の菅直人代表と、自由党の小沢一郎党首(当時)が仙台ではじめて街頭演説に立ちました。そこで、菅氏が強調したのが、十年前の細川連立政権の継承でした。
自民党単独政権に代わって、「非自民」八党会派でつくった細川政権。そこに、今回の民主・自由合併の“前史”があったというのです。
細川政権は、「政治改革」を最大の政権目標にすえ、「政権交代可能な選挙制度」を標ぼうして小選挙区制導入に突き進みました。
当時、この細川政権を取り仕切ったのが、自民党を飛び出し、新生党を旗揚げした小沢氏でした。小沢氏は九三年五月に出版した著書『日本改造計画』のなかで、「政治のリーダーシップを回復し、ダイナミズムを取り戻すためには、多数決原理をもっと前面に出さなければならない」として、小選挙区制の導入を主張、次のように語っていました。
「競争原理からいって、選挙は具体的政策をめぐる二大陣営の争いになるだろう。その結果、国の基本理念を同じくする二大政党制が確立しやすくなる」
小沢氏がそれによって実現すべき課題としてあげたのが、当時3%だった消費税率を「10%とする」こと、法人税を「下げる」こと、憲法を変えて九条に「平和創出のために活動する自衛隊を保有する」と付け加えること−などです。財界の要求に正面から応える内容でした。
しかし、細川政権は、「二大陣営の争い」を実現する間もなく、九四年二月に突然、税率7%の「国民福祉税」構想を発表し、それが挫折すると、細川首相自身の金権疑惑も重なって崩壊していきました。その後、自民党が社会党をとりこんで政権に復帰すると、小沢氏は新進党を旗揚げし、「政権交代可能な二大政党」をめざしますが、政権内部の確執などで失敗。小沢氏にとって、今回の民主・自由合併は「二大政党制」に向けた“最後の賭け”でもあったのです。
経済5団体の共同宣言
この前史で、財界はどう動いたのでしょうか。
八九年、リクルート事件で閣僚らの辞任があいつぎ、竹下登首相が退陣に追い込まれたとき、財界五団体会長(旧経団連、日経連、日商、経済同友会、関経連)は「当面の政治改革に関する共同宣言」を発表。政治不信が「自由経済体制の危機につながりかねない」として、「小選挙区の採用や政党法の制定」などの制度改革を迫りました。
翌年には経団連内に「政治改革推進特別懇談会」を設置。九一年には経済五団体会長や連合会長などを発起人とする「政治改革推進に関する各界署名運動」を展開し、財界やマスメディアをあげた「政治改革」キャンペーンの推進役となる「民間政治臨調」(会長・亀井正夫住友電工相談役、九二年四月発足)へとつなげていくのです。
政界にあって、財界の動きに呼応しこの「改革」を強力に推進したのが、小沢氏でした。
財界が切望側面から援助
自民党が過半数割れし、細川政権誕生のきっかけとなった九三年総選挙。経団連の平岩外四会長(当時)は、自民敗北にもかかわらず、こんなコメントを出しました。
「(政党が)多様化しながらも、保守勢力の議席が全体として増えたことは歓迎だ。健全な二大政党制への出発点となると期待する」(同年七月十八日)
細川政権はその「期待」にこたえて小選挙区制導入を強行したものの、財界が切望し、側面から援助した「保守二大政党」はなりませんでした。
それから十年、業を煮やした財界が今度は、直接、表舞台に乗り出すことになるのです。(つづく)