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オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫被告(48)が一連の事件について口を閉ざしてから6年半。法廷での被告人質問にも答えず、「真実を知りたい」という被害者や遺族の期待は裏切られた。しかし、その松本被告の真意を推し量ることのできる「接見メモ」が、実は存在していた。
メモは「接見報告」などと題され、国選弁護団が法廷にも持ち込んだパソコンの中に保存されている。12人の弁護人が1995年11月ごろから97年4月ごろにかけて、交代で松本被告と接見し、聞き取った内容を整理したものだ。数百時間にわたった接見のメモは、A4判の用紙に印刷すると、少なく見積もっても数十ページに及んでいた。
〈私がしっかりと止めておけば、こんな事件(地下鉄サリン)は起きなかったと思う……井上(嘉浩被告)が『徹底的にやるしかない』と言っていた。私の意見は通らなくなっていた〉
〈(坂本弁護士一家殺害では)弟子たちが『尊師、やらして下さい』と言ったので『やめとけ、やめとけ』と答えた……遺体をどうするかという話があったが、私は(かわいそうだから)『3人一緒に埋めてやってくれ』と言った〉
〈(松本サリン事件の謀議では)気分が悪かったからイスに座って頭痛に耐えていた。弟子たちの話し合いの結果は、コスモクリーナーの音で聞こえなかった。これは実験して下さい〉
松本被告は、弟子の暴走を主張する一方、坂本弁護士事件では、自らの死体遺棄への関与も示唆していた。しきりに、教義や世間話もしたがっていた。
取り調べに対してではなく、自らすすんで事件を語ったこの“生の言葉”は、しかし、永遠に封印されることになった。
◇
弁護団は、目の見えない松本被告に弟子たちの供述調書を読み聞かせながら、本人の言い分に耳を傾けたが、96年4月の初公判までに、それをどう評価すべきかは分からなかった。
「我々が被告の考えを理解できていない段階で、事件の話をさせるわけにはいかない」。それが、初公判を前にした弁護団の考えだった。弁護団は松本被告に罪状認否さえ留保させた。
半年後、両者の関係が悪化する。「教祖の指示」を証言していた元教団幹部の井上被告の反対尋問。自分に不利な証言が続くと考えたのか、松本被告は中止を強く訴えたが、弁護団は強行した。
井上証言の信用性を崩すためにも、「反対尋問権」を守るべきだとの原理原則を、被告の意思より優先させたためだ。松本被告は法廷で「いいかげんにしてくれ」と騒ぎ、以後、弁護団との接見を拒み始めた。
97年4月、初公判から1年ぶりに意見陳述の機会を与えられた松本被告は、「法廷で罪状認否をするのは時期尚早」との弁護団の意見を無視し、「これは裁判ではなく遊び。(私は既に)保釈されている」などと、意味不明の言葉を述べて無罪を主張した。すでに弁護団を見限っていた。これ以降、両者は完全に絶縁状態になった。
◇
弁護団の手元に残された松本被告の「まともな話」は、接見メモだけだった。「この内容を最終弁論に盛り込めないのがつらい」。今月初め、弁護人の1人はそう漏らした。
最終弁論で無罪を主張するには、起訴事実に対する被告本人の反論が最も有力な材料になる。松本被告が沈黙を通す中、接見メモは格好の資料だった。証拠として認められれば、使うことができる。
だが、証拠化の最低限の条件とされる被告本人の署名押印がなかった。別の弁護人は、「接見の際に『聞き取り書』という形でサインさせておけばよかったが、当時は接見できなくなるなどとは、考えてもいなかった」と悔やんだ。
弁護団は、弟子たちの法廷証言や松本被告の説法集などに頼って最終弁論を作成してきたが、「肝心の松本被告の供述が少な過ぎて、無罪主張を論理的に組み立てるのは至難の業」との声もある。
最終弁論は700ページを超える見通しだが、そこに「接見メモ」の言葉はない。
◇
7年半に及んだ松本被告の公判は30、31日の最終弁論で結審する。
(2003/10/26/03:06 読売新聞 無断転載禁止)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20031026i401.htm