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五十嵐仁の転成仁語
12月25日(木)
JRの採用拒否事件についての最高裁の判決が出ました。司法が行政のしもべになった瞬間として、これは記念すべきものかも知れません。
いや、司法はずっと前から、行政のしもべだったという声が聞こえてきます。「統治行為論」を唱えて、政治的選択に対して司法が口出しするのを控えるようになったときから。
裁判は正義を行うものだと思っていました。行政が過ちを犯したのであれば、それを正すのが司法の役割でしょう。
しかし、残念ながら、かなり以前から、司法は行政のやることに口出しすることを控えるようになりました。司法の堕落です。
高度の政治的判断を必要とする事柄について司法は口出ししないというのが、「統治行為論」です。政治は行政に任せる、というわけです。
その結果、政府の思いのままに政治が歪められてきました。憲法なんて何するものぞという「気概」を持って、政府は憲法を踏みにじってきました。
この間、裁判所は二重の罪を犯しました。憲法の番人として憲法を守ることができず、自然法の守護神として正義を守ることもできませんでした。
裁判官はただの公務員になってしまいました。正義のしもべでも法の番人でもなく、政府の番人であり、行政のしもべとなってしまったようです。
「悪法もまた法なり」という言葉があります。これはソクラテスの言葉とされていますが、かつては正しくても今は間違いです。「悪法」は法であってはならず、間違った法は正しい法によって置き換えられなければならないからです。
民主主義とは法を作ることであり、自ら律する法を自ら作っていくのが民主主義です。これが立法府の役割であり、それを監視・牽制するのが司法の任務でしょう。
法の守護神は、法の条文に従い、それを解釈するだけでなく、その精神に従わなければなりません。法に従って正義を行うことができなければ、憲法に従ってその法を変えなければならないでしょう。
文字によって書かれた法と、国の基本法である憲法と、人が生まれながらにもつとされている自然法の全てが一致していれば、問題はありません。それが一致しないとき、問題は起きます。
そのときにどうしたら良いのでしょうか。どのように判断すべきなのでしょうか。
こう問われると多くの人は悩みますが、答は簡単です。良心に従って判断すべきだということです。自らの心の底から聞こえてくる声に真摯に耳を傾けるべきでしょう。
JRの採用差別問題でも同様です。国鉄分割民営化は国労や全労働などの戦闘的な組合を排除するために行われたことは誰でも知っています。
JRになるときに採用差別があったことも、誰でも知っていることです。これは、国労や全労働などの力を弱めるために行われた政治的策略でした。強い労働組合を排除するために、組合の活動家を差別し排除したわけです。
排除された人々は塗炭の苦しみを味わうことになりました。国法を犯したわけでもないのに、地獄に追い落とされたようなものです。
今回の判決を下した裁判官は皆、そのことを知っています。国労や全動労を排除するために、わざわざ国鉄を分割し民営化したということもご存知のはずです。
ご存知だから、5人の裁判官のうちの2人が、「不当労働行為の点について更に審理させるため、原審に差し戻すべき」だとの意見を述べました。これは3対2で少数意見となりましたが、このような意見を述べ瑠裁判官がいたことに救われる思いがします。
この事実は、今回の上告棄却がいかに微妙な力関係の下になされたかということをも示しています。多数派のうちのたった1人が、もう少しまともな判断をすれば、判決はひっくり返っていたわけですから……。
特定の政治目的のために労働組合の正当な活動に対して介入・排除することは、明らかな不当労働行為でしょう。国労や全動労の力を弱めるための分割・民営化であれば、それは明らかに国家的不当労働行為です。
そんなことは、事情に通じた国民の誰もが知っています。国策のために、不正が行われたのだということは……。
少数意見は、国鉄とJRが関係ないというのは、「あまりにも形式論にすぎるもの」と指摘しています。その通りでしょう。
このほかにも、判決に述べられている少数意見は、法案審議の過程で「国鉄は設立委員の採用事務を補助する者で、民法上の準委任に近いものである旨を繰り返し答弁」していたではないかと指摘し、「大臣の答弁は、立法意思として法解釈に際して重く評価しなければならない」と述べ、「合理的な理由もなく立法意志に反した法解釈をするのは避けるべきである」としています。後になって、勝手に解釈を変えるということがあってはならないというわけです。
また、「承継法人が労働組合法7条の『使用者』として不当労働行為責任を負うことは免れない」こと、「雇主が労働者の従前の雇用関係と密接な関係があると認められるような事情がある場合には、採用の自由が制限されることもある」こと、「差別的な取り扱いがされたことが一応推認される」こと、「これらの点について心理を尽くすことなく不当労働行為意思があったとは認められないとした原審の判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある」ことも、指摘しています。
行政はときに間違いを犯すことがあります。それを正すのが、司法の役割でしょう。しかし、今回の多数意見は、その役割を放棄してしまいました。
国鉄とJRは別組織だという虚構にしがみつき、形式的な論理によってJRの責任を無視しました。これが正義なのでしょうか。これで不当に排除された人々が救済されるのでしょうか。
国労や全労働組合員に対する差別があり、不当労働行為があったということは、中労委でも認められている事実です。そのために採用されず、職場から追い出された人々がいるのは、厳然たる事実です。
不正が行われたのであれば、それを救済するのは司法の役割ではありませんか。正義をなすことが司法の責務ではありませんか。
裁判官は、自らの内なる良心の声に従ってもらいたいものです。政府による恫喝に屈することなく、法の形式的な論理にこだわらず、ただ唯一の基準、人間としての正義に基づいて判断するべきだったでしょう。そうできなかった裁判官は、自らを恥ずべきではないでしょうか。
「ウソつき常習男」という見出しで名誉を毀損されたとして新潮社を訴えた鈴木宗男被告の控訴審判決で、東京高裁は「言動を報じた記事や、関係者への取材などから、うそをついていると信じる相当の理由があった」として、鈴木被告の請求を棄却しました。これと同じように、JR職員の採用において差別があったと信じる相当の理由があるのではないでしょうか。
この点について審理することさえ放棄した最高裁は、司法の番人の名に値しません。
http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm