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最近、個人的に注目しているサイトから転載させていただきます。なお、この人の他の文章も面白いものがあります(各新聞などの報道を具体的に例示して、それへの反証を挙げて批判するスタイルを基本的にとっており、キビキビとして歯切れよく、しかも具体的でわかりやすい表現になっています)。
以下転載
http://member.nifty.ne.jp/nstn/ronpyo009.htm
第9回 武富士問題と報道機関
今回は、武井保雄・武富士会長の逮捕以来、まるで他人事のように武井氏や武富士を非難する報道機関に対する私の批判を紹介します。どうぞ、御覧下さい。
2003年12月10日
【2003年12月3日付朝日新聞「社説」より】武富士は98年に東証1部上場も果たしたが、醜聞は後を絶たなかった。 (中略) 武富士の闇とされる部分には、まだ解明されていないものも多い。
醜聞が後を絶たず、闇とされる部分も解明されていないのに朝日新聞は堂々と武富士の広告を掲載してきた。具体的には、2003年10月7日付の名古屋本社発行分のものにしっかりと掲載されている。これはいったいどういうことなのか。もし、朝日新聞が新聞を「公器」「社会の木鐸」と考えるなら、「醜聞が後を絶たず、闇とされる部分も解明されていない」企業の広告を金と引き換えに掲載してきたことを重大に受け止め猛省しなければいけない。社説で武富士の批判をするのなら、同時に社説で自己批判をするべきである。
【2003年12月3日付読売新聞「社説」より】武井会長が一九六六年に創業した武富士は、個人向けの小口金融で急成長を続け、五年前には東証一部上場も果たしている。法人申告所得ランキングでも常に上位に顔を出し、昨年十一月には、日本経団連にも入会した。かつての「サラ金」と言われた古いイメージを脱して、消費者金融会社として社会的にも認められ始めていた中での不祥事である。古い企業体質を残したままだったのではないか。
武富士をはじめとする消費者金融業者は、今も「古いイメージ」のままだ。その証拠に、低い調達金利で得た資金をその約十倍もの高金利で顧客に融通している(「上限金利の引き下げこそ構造改革だ」参照)。消費者金融業者は、今も昔も高利貸のままだ。社会的に認められるべきものではない。しかし、莫大な広告マネーに目が眩んだ報道機関は社会的に認められたと決め付けて、膨大な量の広告を流し続けている。
【2003年12月3日付読売新聞「社説」より】武富士については、暴力団や右翼団体との不透明な関係があったとの指摘もある。同社を巡るこのような疑惑の真相にもメスを入れる必要がある。
読売新聞は、「疑惑の真相」が明らかになっていないのに武富士の広告を掲載していた。具体的には、2003年11月9日付の中部支社発行分のものにしっかりと掲載されている。これはいったいどういうことなのか。読売新聞は2003年10月30日付の社説で教育を憂い、「子供たちの学力低下や規範意識の希薄化など、深刻な問題を抱える教育の現状に対し、原因の分析と今後の指針を示すのは政党の責務だ」と記しているが、むしろ、「規範意思」が「希薄化」していたのは疑惑企業の広告を平然と掲載していた読売新聞の方ではないか。
【2003年12月4日付毎日新聞「社説」より】武富士はまた、旧大蔵省や大手都銀の幹部、警視総監らを役員や顧問に受け入れてきた。健全化策の一環だったのだろうし、社会から非難されながら天下りした側の人々も、優良企業に生まれ変わらせたいとの考えもあって応じたに違いない。
本当にそうだろうか。毎日新聞が言うような崇高な意志が天下りした人たちにあったとするならばどうして、その人たちは武富士の未公開株を受け取ったのだろうか。また、天下りした人たちがいったいどんな改革をしたというのだろうか。武井一族の一極支配や高利貸としての本質は何ら変わることがなかった。天下りした人たちは武富士マネーに群がっただけなのではないか。
【2003年12月4日付毎日新聞「余禄」より】消費者金融大手、武富士の武井保雄会長が盗聴の疑いで逮捕された。1930年生まれ。15歳で敗戦を迎えたことになる。消費者金融の創業は66年。主婦を相手に団地金融を始めたという。団地という集合住宅が庶民のあこがれになり、日本は高度経済成長の道をひた走っていた。しかし、敗戦後の混乱から生まれたまがまがしさも、十分に残っていた時代だ。人権やプライバシーという意識は薄かった。そのままの感覚で、消費者金融のオーナーとして現在に至る。自分を批判するジャーナリストの動きを探るために盗聴することに、ためらいを感じなかったのだろう。
「人権やプライバシーという意識」が「薄かった」と毎日新聞が批判する武井保雄氏が率いる武富士の広告を堂々と当の毎日新聞が掲載していた。具体的には2003年11月18日付の中部本社発行分のものにしっかりと掲載されている。毎日新聞は人権やプライバシーはどうでもいいと思っているのだろうか。そう思っているのならば話はわかるが、そうでないならこれはもう滅茶苦茶である。
【2003年12月3日付産経新聞「主張」より】盗聴に関与した探偵会社への費用の支払いを決裁した武富士の稟議書(りんぎしょ)に武井容疑者の印鑑が押されていることなどから、事件摘発当初から、会社トップによる犯行との見方が強かった。しかし、会社側は一貫して「元社員の個人的犯罪だ。武井会長らは事件にかかわっていない」と事件への関与を強く否定していたのは遺憾だ。
産経新聞は「事件への関与を強く否定していたのは遺憾だ」としながら、堂々と武富士の広告を掲載していた。具体的には、2003年12月2日付の大阪本社発行名古屋市配刊分のものにしっかりと掲載されている。「遺憾」な企業の広告でも掲載するのが産経新聞の企業姿勢なのか。そもそも、産経新聞は2003年9月19日付の「産経抄」で「かつての『滅私奉公』にかわって、いま『滅公奉私』の思想がこの国を支配している。それが戦後民主主義のイデオロギーであり、他人のための自己犠牲は、血を流すどころか、舌を出すのもいやだという風潮につながっている」と記し「滅公奉私」を厳しく批判しているが、武富士を始めとする消費者金融業者こそ、「滅公奉私」ではないか。消費者金融業者は2%程度の低い調達金利で得た資金をその約十倍もの高金利で顧客に融通している(「上限金利の引き下げこそ構造改革だ」参照)。この事実のどこに「滅私奉公」があるのだろうか。「滅公奉私」を批判しながら、「滅公奉私」そのものの消費者金融業者の広告を掲載する。これが産経新聞の実態である。さらに言えば、産経新聞は、2000年7月21日付の「主張」で今の日本の子供たちについて「我慢の大切さや無償の行為の喜びを感じなくなっている。『公共の福祉』より『個人の権利』を強調しすぎた戦後教育の欠陥の一つであろう」と記しているが、我慢ができないからこそ産経新聞が広告を掲載する消費者金融業者が繁栄していることをどう考えているのだろうか。また、消費者金融業者は「個人の権利=創業者一族の権利」丸出しで、まったく「公共の福祉」を無視しているではないか。産経新聞が「公」を主張すればするほど、産経新聞は矛盾を増大させてしまうのである。
【2003年12月3日付産経新聞「主張」より】警視庁OBを採用して暴力団や右翼団体との折衝にあたらせたり、警視庁幹部による顧客の犯歴データ横流しなど黒いうわさが絶えない。武富士は一部上場企業として株主や市場に明確な説明責任を果たさねばならない。
「黒いうわさが絶えない」のに産経新聞は前記の通り、堂々と武富士の広告を掲載していた。これはいったいどういうことなのか。法的に問題がなければどんな企業の広告でも掲載してもよいということなのか。産経新聞が責任ある報道機関でありたいとするならば、国民に対して明確に説明する義務がある。それができないのであれば、「クォリティー・ペーパー」という看板は下ろしたほうがよい。
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