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イクバール・アハマッド――私の知る彼
1999年6月、『ヘラルド』(カラチ)
パルヴェーズ・フッドボーイ
彼を乗せた移送ベッドが、ついに集中治療室から出てきたとき、私の悲しみを理解できずに、看護婦が私に聞いた。「あなたのお父さんですか?」「いえ」と私は言った。「彼はわれわれ一族の長でした」。しかし、これが通常の一族ではなく、何の血縁もなく、国籍も宗教も人種も問わない一族だ、などと説明する意味はほとんどなかったろう。その一族の数千人ものメンバーは世界中に広がり、ベトナムからヨルダン川西岸地区やモロッコに及び、インド、パキスタンから欧州、北米に散らばっている。彼らの唯一の絆は、人間の尊厳、正義、自由および人間の経験にある豊かで尊いもの全てに対して、信念を共有していることだった。今彼らは、彼らすべてを結びつけ、また彼らが深く愛したイクバール・アハマッドを悼む。
私は、1971年にMITで行われた反戦デモで彼の講演を聞くまで、イクバール・アハマッドの名前を聞いたことがなかった。カラチ・グラマー・スクールを卒業してMITの学生だった私は、渡米するまでは、政治に無関心で無頓着な普通の高校生だった。しかし、この新しい社会環境に浸かったことから来るカルチャーショックは、バケツ一杯の氷水を浴びたようだった。突然、世界の恐るべき現実が私の目に映るようになった。アメリカ人はB52爆撃機で、ベトナムを石器時代に逆戻りさせるような絨毯爆撃を続けていたし、西パキスタン人は、今ならさしずめセルビア人が得意に行っているような迫力で、東パキスタンを浄化することに忙しかった。私が知る限り、ケンブリッジにいるパキスタン人のなかで、学生であれ移民であれ、ベトナムに関心をもつパキスタン人は一人もいなかった。ほとんどの人が、パキスタン軍の行動に拍手を送り、苦境や破壊といった痛ましい話を拒絶して、それらの写真やTVフィルムは、シオニストの作り話だと言っていた。
イクバールの講演は、私には落雷のような衝撃だった。アメリカの帝国主義的冒険をめぐる神話や虚偽を、厳密な正確さで論破していく際の知識と雄弁と情熱を、あれほど圧倒的に兼ね備えた人を見たことがなかった。聴衆は、ほとんどがアメリカ人だったが、彼が聴衆を惹きつけ、笑わせたり、挑戦したり、教えたりするにつれて、彼の一言一句に聞き入っていた。講演後、賞賛する人々が彼に押しかけたとき、私もそのなかに加わった。それから数十年間、私と彼との関係は、深い尊敬から深い友情へと変わり、やがて、この人と共有する時間はどの一刻もが特権だと思えるような、稀有の人物だという確信に変わっていった。
いずれ、人々はイクバールについての本を出すだろう。彼がいかにして、アルジェリアの対仏独立戦争に関与するようになり、ついにはアルジェリアを代表してパリ和平会談に参加するにいたったかは、間違いなく書かれるだろう。イクバールと他の6名が、ヘンリー・キッシンジャーの誘拐を企て、ペンタゴンの暖房システムを爆破しようとしたという偽りの嫌疑で、神経質になったアメリカ政府から告訴されたハリスバーグ裁判の顛末についても、語られるだろう。イラン、パレスチナ、キューバ、チリの革命指導者たちが、イクバールの人格的高潔さと、どの国家も自分の祖国と見なす彼の国際主義者としての献身を微塵も疑わずに、彼に助言を求めてきたことも、詳細に記されねばならないだろう。そして、何よりまず、彼の伝記を書く人たちは、彼が最期まで保持していたパスポートを出した国の道徳の低下と社会の退廃を止めようとしたこと、その国軍によるベンガルでの大量殺戮を停止させようとしたこと、後には、その東側の隣国との間に見えてきた核兵器の対決の兆しを回避しようとしたことについて、彼がそのためにいかに懸命に努力したか、そして挫折したかを、われわれに語らねばなるまい。
エドワード・サイードは、イクバールのことを「戦後世界で最も鋭く、最も独自性のある反帝国主義分析者」と表現した。その通りだ。しかし、それに加えて、彼には不朽の理念があったし、高潔さを保つためには自ら代価を払う意思もあった。アルジェリア革命の理念が腐敗するにつれて、イクバールは、かつて緊密な仲間であったベン・ベラから距離を置き始めた。彼のニューヨークのアパートで、フィデル・カストロから贈られた優雅なハバナ葉巻をよく見かけたものだったが、国内の敵対勢力に対するカストロの抑圧をめぐって、イクバールがカストロと対立したときから、それはもう届かなくなった。ヤセル・アラファトは、イクバールの助言を何年も熱心に求め、彼にパレスチナ民族評議会の一員に加わって欲しかったが、そのアラファトとの関係は、イクバールがアメリカ主導のオスロ合意はパレスチナ人にとって大失敗だと確信した後は、急速に疎遠になった。
パレスチナ人の権利を熱情的に提言していたため、アメリカ学界のほとんどから除け者にされ、イクバールはその人生の大部分を、アメリカのいくつかの大学を渡り歩く教授として過ごした。彼は、コーネル大学の同僚たちが、カフェテリアで彼と同じテーブルに座るぐらいなら、他の場所で立っているほうを選んだと回顧したことがある。ついに1982年、マサチューセッツ州のハンプシャー・カレッジで、彼は終身教授職に就いた。学生たちは、たとえ彼と政治的意見が異なっていても、彼の講義や指導に大勢集まった。ある若いパキスタン人学生は、イクバールが1992年に、近くにある(訳注:ニューハンプシャー州ハノーバーにある)ダートマス・カレッジで、パレスチナ問題を語ったときのことを覚えている。彼女のルームメイトはユダヤ人で、筋金入りのシオニストだったが、イクバールの講義を聴いているうちに泣き出した。彼の話が偏っていると思ったのだ。しかし、その後で彼は彼女とヘブライ語で優しく会話を交わし、異なる側面から見ると、状況はそうなっているのだと話した。
見事な講演をする人は稀だが、見事な聞き手というのは、さらに稀だ。イクバールといると、彼があなたの言ったことを理解するだけでなく、あなたがなぜそう言ったのかも理解する人だと、必ずや思っただろう。それゆえに、革命指導者や、国王や王子、大統領や首相、将軍や海軍提督などが、皆彼と話したがったのだ。しかし、そうした会見で、彼が恐縮したり、怖気づいたりしたことはなかった。彼は、労働者といるときと同様に打ち解けていたし、子供たちは彼の心遣いを喜び、遠い親戚も彼を親しく思っていた。
1997年にイクバールはハンプシャー・カレッジを退職した。彼は私に、大学や彼の大勢の友人たちで組織された彼の退職記念講演会(festschrift)に来てくれと言った。ニューイングランド地方から何百人も駆けつけ、他にもはるばるカリフォルニア、カナダ、アルジェリア、モロッコ、トルコそしてパキスタンからも、人々が集まった。ノーム・チョムスキーが金曜日夕方に、「第三世界と外国の展望」と題する講演をして、会の幕開けをすることになっていた。しかし、その参加者が膨れあがり、当初の予定を取り消して、会場を大学体育館に変更せざるを得なくなった。その会場もまた、すぐに満杯になった。見たところ、2000人はいただろう。ウッドストックのようだな、と私は思った。
2日目には、左派知識人のなかの最良で、最も知名度があり、最も機知に富む人々が一堂に集まった。エドワード・サイード、ハワード・ジン、(『ペンタゴン・ペーパーズ』で有名な)ダニエル・エルスバーグ、コラ・ワイスとピーター・ワイス、スチュワート・シャール、リチャード・バーネットがいたし、他にも私は知らなかったが、イクバールと深く親交のある人々(モロッコのモハメッド・ゲスや日本人のマサオ・ミヨシ等)がいた。ジンが、ダニエル・ベリンガンとFBIとのかくれんぼうや、イクバールの有名なハリスバーグ裁判を話すときの仕草は、傑作だった。コラ・ワイスは、「イクバールが国連を運営していたら、どうなるか」を話してはしゃいでいた。エルスバーグがあの日ほどに、大真面目であんなに楽しそうにしているのを見たことがなかった。
そう、あのとき集合したのがイクバール・アハマッド一族だった。私は少し息が詰まるような気持ちだった。イクバールが多くの人々を助け、彼らの愛情と忠誠を得ていることは知っていた。ただ私が知らなかったのは、こんなにも多くの多様な人々が、世界の多様な地域から集まり、しかも皆彼をとても愛しているということだった。感情的ではりさける声を出したのは、彼の学生たちだけではなかった。彼の親友でパレスチナの知的先導者であるエドワード・サイードもそうだった。この記念講演会が特別な意味をもったのは、1960年代と70年代のベトナム戦争の時代に、アメリカ人をベトナム反戦運動に動員したイクバールの貢献を、ある意味でこの会が再現したことにあったろうと思う。それはまた、確かに私自身の時代でもあった。本当のところ、人生の形成期に、もしMITでチョムスキーやイクバールやジンといった偉大な知性に出会っていなかったなら、私はまったく別の人間になっていただろう。だから、イクバールが私に話をするように言い張ったとき、私は気が進まなかった。しかし、彼は私が受けざるを得ないような仕方で、私を紹介してしまった。
あのハンプシャーの講演会は、イクバールの生涯で最後のハイライトだった。そして、彼は残りのほとんどすべての日々を、パキスタンで過ごすと決心した。それまで彼は、アメリカの大学で教壇に立ちながら、新聞コラムを執筆し、イスラマバードに文系と理系のある総合大学として、カルドニア大学を設置する準備をしていた。これは、ベナジル・ブットとナワズ・シャリフ(訳注:いずれも元首相)が、結局難しいと断定したプロジェクトだった。人々は彼に、ペンを手加減することを拒否していながら、どうしてそのプロジェクトが実現できると思うのかと聞いた。いい答はなかったが、彼は希望をすてなかった。
やがて、生命の陰険なハンターである死神が、獲物を執拗に追いかけ始めた。最初に死神がその蒼白い影を見せたときから、死神が彼をその胸に包み込んでしまうまで、六カ月足らずだった。死は不可避であるだけでなく、真実を決定する瞬間でもある。もし、ある人がどういう人だったのかを核心から知りたいのであれば、その人がいかに生きたかということだけでなく、いかに死に向き合ったかも知らねばならない、と私は思う。だから、私は読者の皆さんに、イクバール・アハマッドがいかにして死んだかをお伝えしたい。
われわれが彼を病院に連れていったとき、彼はすさまじい状態であり、猛烈に嘔吐して胸部に激痛を感じていた。しかし、容態が安静のときには、彼は社会の情勢について尋ねた。パキスタンの核実験一周年を祝賀する準備が進んでいると、私が言うと、彼はうんざりして静かに首を横に振った。「元気になったら、私が書き上げたばかりの、その祝賀に反対する論説を読んでみてください」と私は言った。「いや、今それを見せろ」と彼は言った。彼は静脈注射用の管を慎重に動かして、ペンを取り、ベッドを半分起こした状態にしてくれと私に頼んだ。そして、私の原稿のあちこちに、編集用のコメントを書き込んだ。これが、つまり他者のために協力し、彼らの問題に自ら取り組み、世界がどこへ向かうのかを気遣い続けることが、生涯を通して彼がしてきたことだ、と私は思った。その翌日、検査結果から結腸が大きく拡大していることがわかった。医師が病室に入ってきたときは、緊張した瞬間だった。「癌ですか?」とイクバールは聞いた。医者が黙って首を縦に振ったときに、私はイクバールの顔を一心に見ていた。彼は恐怖も諦観もなく、しばし考え込んでいた。すぐに、彼は手術の方策について相談することに、気持ちを集中していた。
もちろん、三時間に及ぶ癌の切除手術のあと、集中治療室で横たわっているのは痛いし、それも血の出る痛みだった。それは想像可能な極限の痛みだったろうし、それよりも激痛だっただろう。モルヒネでしばらく寝入っていたが、それでも痛みはまだあるようだった。しかし、彼は最期の瞬間まで、イクバールそのものだった。彼の頭脳は鋭く、批判的で分析的だった。彼はすべての薬について、その適量と効能と副作用を知りたがった。彼の機知も痛みに負けず健在だった。「ダイアモンド夫人(90歳を越えた彼の義母のこと)は、どんなことをしたって、壊れはしないさ」と彼の姪に言った。 彼の冗談を聞いて、「あなたのユーモアのセンスもまた、壊れないですね」と、私が言った。 「たまには役にたつ。だから、持っていくことにしよう」と彼は言った。
彼は自分が死にかけていることをわかっていたが、無用な祈願は何もしなかったし、何も依頼せず、何も期待しなかった。彼の知的な高潔さと威厳は、最期まで変わらなかった。人が彼にいろいろな形で鎮静剤を塗ったり、彼らのそれぞれ信仰する宗教のおまじないをするときは、そうさせていた。彼は自分では何もそういうことはしなかったが、人がそうしたいのであれば、それをするなとは言わなかった。
医者たちは彼に敬服し、看護婦たちは彼に恋をした。集中治療室でのイクバールは、彼らの人生で知り得た最も驚異的な患者だったろう。管やワイヤーが迷路のように絡まる中で、生死の境をさまよいながら、彼はそれでもすべてのことを承知しておこうとして、静脈にうまく刺せずに五回も注射した途方もなく下手な看護婦を叱りつけたし、他の二名の上手な看護婦を褒めた。しかし、その叱られた看護婦も彼に魅了された。
彼が私に、座る姿勢に起こしてくれと頼んだのは、1999年5月11日の朝、午前5 時25分のことだった。ほどなくして、彼の心電図は平らになった。看護婦たちが彼に最期のシーツをかぶせるとき、私は一人の看護婦の目から涙がこぼれ落ちるのを見た。
(訳:首藤もと子)
本稿は EQBAL AHMAD -- AS I KNEW HIM (by Pervez Hoodbhoy) の全訳である。