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[副題]現代人の「自由意志」についての誤解
本日(6/18)のNHK・ラジオ等の報道によるとアメリカ発の重要なニュースが二つ(下記●)飛び込んできました。
●「9.11独立調査委員会」が、アルカイダと旧フセイン政権の協力の証拠はなかったと発表(6/17)
・・・同時多発テロがなぜ防げなかったの理由を調査している議会超党派の同委員会は、ブッシュ大統領が「イラク戦争」開戦の理由に掲げた一つである、「アルカイダと旧フセイン政権の協力の証拠」のを真っ向から否定する結論を出した。しかも、「イラク戦争」開戦のもう一つの理由である「大量破壊兵器の存在」も否定されています。
●ターナー元CIA長官をはじめ、元米政府と軍関係の高官27名がブッシュ政権の外交政策と安全保障政策は「イラク戦争」などに関して完全な失敗を犯したので、政権交代をすべきだとの声明を発表(6/16)
・・・これら元高官らの大半は、前回の大統領選挙でブッシュを支持した人々であり、いわば身内からの厳しい政権交代要求である。この声明のポイントは「ブッシュ政権は、合理的な分析よりもイデオロギー(狂信性を指摘?)に基づいて、アメリカを出口が見えない、高くつく戦争へ導いてしまった」ということ。また、「アメリカは、建国以来225年の歴史の中で、これほど世界から孤立し、恐れられ、信頼を失ったことはない」とも指摘している。
このように重要なニュースが飛び込んでくる前日(6/17)、奇しくも我が日本国・首相は、国民の誰から見ても独断先行としか思えない
「自衛隊・イラク多国籍軍参加」の理由を記者会見で説明しました。この説明に、心から納得できた人はどれほどいるのでしょうか? 日本国の首相は、この二つの米国発のニュースによって「ブッシュの戦争」の大義が完全に消えてしまったことをどのように理解しているのでしょうか? “今、戦争の大義は消えて存在しないからといって、過去になかったとはいえない”などの幼稚な詭弁は、もはや通じないはずです。
これら米英日の大統領・首相などの主要なエリートたちの眼に世界や社会の“現実”がリアルに映っていないことが「イラクの殺戮・虐待」という大きな悲劇をもたらしています。特に日本では、このエリートたちの見掛けだけの矛盾に満ちた言動が、人格形成期にある小・中・高校などの子どもたちを預かる教育現場にも大きなインパクトを与えており、それは政治権力による矛盾論理の強制(ダブル・バインドの精神的圧力)という形で子どもたちの精神環境に深刻な悪影響を与えつつあります。なぜならば、血迷ったアメリカの政治権力者たちはアメリカ・プロテスタントの原理主義的な「救済暴力思想」を根拠とする「先制攻撃論」(ジェノサイド・マシン/戦争という殺戮機械の稼動)によって「平和・自由・民主主義」を実現するという大いなる矛盾の道をひた走っており、日本のトップ・リーダーたる総理大臣が、この矛盾に満ちた論理を無批判に受け入れ、かつ率先して米国の戦争推進に追従・加担しているからです。恒例行事と化した「サミット(第30回)」(6月9日〜6月11日/米ジョージア州・シーアイランド)の「総括宣言」(ブッシュ大統領がとりまとめ)は、G8の“協調”や北朝鮮問題の“包括的解決”など仰々しく無内容な言葉が踊るだけで、具体的な課題の解決はすべて先送りしています。そして、今回のサミットでは小泉首相の突出したイラク支援表明のジェスチャー(多国籍軍への自衛隊参加の確約、巨額の拠出金協力等)ばかりが目立ちました。つまり、今回のサミットは「選挙」(7月・参議院選挙、11月・大統領選挙)を控えた日米両首脳によるパフォーマンス・ショーに終始したわけです。また、対北朝鮮、対アフガニスタン戦争、対イラク戦争・・・と、近年における日本の米国に次ぐ大規模な対外拠出金は先進諸国の中でも飛び抜けており、ここでは「日米同盟の固い絆」を日本のカネ(日本国民の税金)が一方的に支え続けるという「奇怪な仕組み」(隷属契約による対米盲従)が浮かび上がっています。端的に言えば、米国の「双子の赤字」(国家財政と経常収支の赤字)と米国民の「家計の赤字」を日本国民の税金(酷税)で補填するという異常な日米経済関係に嵌っているのです。しかも、米国の財政赤字はドル紙幣の増刷で軽減される仕組みである一方、日本の財政赤字と国民負担の増加は止まる目処が立ちません。(この詳細については、2004.6.8付Blog『政治家・小中学生等に広がる異常な現実感覚』/ベスのひとりごと(New Ser.)http://blog.goo.ne.jp/remb/を参照)このため、例えば日本の財政赤字総額が今や約920兆円(地方債、利払込み)を突破しており、1,000兆円の大台に乗るのは時間の問題となっています。このような日本の財政赤字が急速に増えつつあるという日本国民にとっての致命的な問題(国債の増発が止まらない傾向のこと)を“そんなことは大した問題ではない!”と言ったのが日本の小泉総理大臣です。このようにお粗末な国家財政の認識のままで、果たして、彼は日本を何処へ向かわせるつもりなのでしょうか? そこで、何ゆえに現代の政治エリートらが、原理主義という思考の罠にかくも嵌まり易くなったのかについて、哲学と神学の歴史を少し猟渉しながら考察してみたいと思います。
13世紀イタリア・アシジの聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi/1182-1226)が、清貧な生活の実践と周辺世界に対するアニミズム的な愛の眼差しを注ぐことで当時の人々に対して見せたものは、まさに神の特別な恩寵の現実化(リアライズ)ということであり、それは聖フランチェスコという“最も優れた一人の人間”のバランスがとれた「純粋な意志の力」とでも言えるようなものではなかったでしょうか? プラトン主義に染まっていた、この頃までのスコラ神学(哲学)の考えでは、「人間の意志の力」は「理性による真理認識に従属する力」だと見なされていたので、初めの頃、聖フランチェスコは異端視されることになったのです。ところで、それより少し後の時代のスコットランドに、聖フランチェスコの実践を理論的に説明する神学者、ヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1274)が現れます。彼は、フランチェスコ派のスコラ神学者で、後にパリ大学教授となる人物ですが、緻密な論理を身上としたので「精妙博士」と呼ばれています。スコトウスの立場を端的にいえば、アウグスティヌス神学とキリスト教の融合を徹底的に批判したということです。また、スコトウスは絶対超越的な神の存在を論理的に証明することを企てた最初の神学者とされており、これ以降のスコラ神学では、このような立場が伝統となるのです。
スコトウスの説明によると、「絶対的に正しい自由意志」を持っている神は純粋にその意志のみから世界を創造し、その生まれた世界を見て「神の理性によって“善し”と判断した」というのです。それ以前のプラトンの影響を受けた考えでは、天界には様々なイデアが既に存在しており、神(デミウルゴス)がこのイデアを手本として世界を創ったとされていました。そして、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus/354-430/初期キリスト教西方教会で最大の教父/新プラトン主義哲学とキリスト教を融合した/著書『神の国』)は、このようなプラトンの世界創造説をキリスト教のなかに取り入れたのです。アウグスティヌスによると、神は自分の「知性」が元々持っていたイデアを見て、この世界を自らの「意志」で創った、ということになります。つまり、この場合にイデアが意味するのは「神の知的理解」が前提となっているということです。スコトウスは、この「神の知性の先行性」を無視して、神の「自由意志」は神の「知性」の判断とは無関係に世界を創ったと考えたのです。一方、スコトウスは、人間の「意志」は「絶対的な善」ではあり得ないから、人間の「理性」の判断を抜きにして、その人間の「意志」が正しい判断をすることはあり得ないと考えました。同時に、スコトウスは、「意志」は「理性」の判断力のおかげで自由なのではなく、「意志」それ自身が持つ力ゆえに自由なのだとも考えました。それまでの中世ヨーロッパの伝統的な考え方は、古代ギリシアの奴隷制と対比される自由市民の立場が原点であるので、「自由」であるためには、まず正しい「理性」の判断が必要だということになっていましたが、スコトウスは「理性」に従属しない「人間の自由意志の力」を認めるという立場を取ったのです。そして、初めてこの時に近・現代的な意味での「人間の絶対的な自由意志」の概念が誕生したのです。
しかし、このスコトウスの「人間の絶対的な自由意志」の概念には、ある厳しい条件が付いていたのです。スコトウスは、「理性」に従属しない「意志」の働きにこそ「自由」の根拠があるのだと考えた訳ですが、同時に、彼は「理性」の働きには「論理の罠」という本性的な必然が纏わり付くと主張しています。また、スコトウスは“「意志」は主要な原因であるが、「理性」は副次的な原因である。なぜなら「意志」は自由に動き、その運動によって他のものを動かすからである。一方、対象を認識する「理性」は本性的に一定の場でだけ働くものだから、方向性を示す「意志」との協働がなければ、決して「一定の方向へ向かう意欲的な働き」という意味での十分な能力は持つことができない。だから、「意志」こそが第一義的で主要な原因なのだ。”と主張しました。ここで、スコトウスは、人間の「自我」の根拠としての「自由意志の能力」と「理性による論理的な善悪の判断」(論理的・倫理的な判断能力)を切り離して見せるのです。その結果、人間は「善」と「悪」の両方向のベクトルを持つ「自己分裂」的存在であるということになります。そこで、スコトウスは、「三位」、つまり「『神』と『子』と『聖霊』」のなかの『聖霊』の重要な役割に注目します。スコトウスは、「聖霊」は人間の「自由意志」を指導する力、つまり「実践理性」の働きをするものだと説明します。人間の「自由意志」は、その「意志」を「正しく導く認識」を与えてくれる「聖霊」の助けが必要なのであって、それなしに「自由意志」は正しく作用することができないと主張したのです。つまり、スコトウスは、人間の自由意志を導くために「神がもたらす理性」ともいうべき「聖霊の能力(作用)」を「人間の理性」より上に位置づけたのです。神の恩寵を享受するという、キリスト教を信仰する人間にとっての究極の目的は、このような「人間を導く聖霊の力」を謙虚に受け入れ敬虔な心と中庸な精神環境を整えながら、誠実な信仰生活を実践することで漸く達成できるものだというのです。これが、スコトウスの「人間の絶対的な自由意志」に付帯する厳しい条件だったのです。精妙博士と呼ばれたスコトウスの緻密な論証がたどり着いた「人間の自由意志」についての正しい理解は、実は、このような意味での謙虚さを人間に対して厳しく要求するものでした。それにもかかわらず、スコトウスがせっかく導き出してくれた「人間の自由意志」についての正しい結論は、主に次の三つの方向に沿って、歴史の展開とともに甚だしく誤解されることになるのです。
(1)王権神授説の誤解
・・・「神の意志の絶対性」の過度な強調が、「絶対王政」の理論的根拠となり「王権神授説」をもたらします。スコトウス自身は、人間の自由意志は絶対的な善であり得ないので、王も人間である限り理性(特に、神が与えてくれる理性としての聖霊)の助けなしに正しい自由意志を持つことはあり得ないと考えていたのですが、後の時代になってからイギリスのロバート・フィルマー(Robert Filmer/ca1588-1623)らの思想家によって誤解されたのです。
(2)「暗黒の中世」への単純なアンチ・テーゼとしての誤解
・・・例えば、フランシスコ派のスコラ哲学者で、その博識により「驚異博士」と呼ばれたイギリスのロジャー・ベーコン(Roger Bacon/ca1219-92)は、スコトウスと同じくアリストテレスの影響を受けており独特の「経験主義の哲学」を主張しました。ベーコンは、イスラム(現在のイラクのバスラ出身)の物理学者、イブン・アルハイサム(Ibn al-Haytham/ca956-1059)の影響を受けて、特に光学(光による形象の伝播形式)の研究に没頭しました。ベーコンの経験主義的な科学研究の態度は近代科学の源とされるほど重要なものですが、この頃からスコトウスの“人間の意志は、その意志のみで自由である”という側面だけが強調されるようになったのです。つまり、人間の意志の自由という側面だけが、スコトウスのもう一つの条件である“人間の意志は理性の助けが必要であること”(正しい目的や方向を示してくれる聖霊の働き/森羅万象のなかに偏在(ユビキタス)する聖霊が与えてくれるものとしての理性の力)から切り離されてしまったのです。アウグスティヌス的なキリスト教の支配がもたらす「暗黒の中世」へのアンチ・テーゼの役割をスコトウスの神学が担わされることになったため、ある意味で、それは仕方のないことでもあります。しかし、人間の自由意志についてのこのような側面を、その後の哲学者たちが余りにも囃し立てたため、人間の思想は、次第に「善」であり続けるための根拠を見失ってゆくのです。やがて、人間の思想は「神をも畏れぬ傲慢さ」を身につけるようになり、このようなスコトウスへの決定的な誤解は後の時代になるほど拡大され、遂にはパスカル(Blaise Pascal/1623-62/フランスの科学者、思想家)の思想の中に見られるように、近・現代の人間は、特有な「不安意識」を持つことになります。つまり、パスカルは近代合理主義(聖霊から切り離された自由意志と人間の理性だけが支配する精神環境)と人間中心主義が行き着く先は
“人間が生きる意味の喪失”(神の死)であることを予感していたのです。
(3)自然法についての誤解
・・・16世紀オランダのグロティウス(Hugo Grotius/1583-1645/オランダの法学者/国家・宗教を超えた自然法的合理主義に基づき、国際法を体系化し国際法の父と呼ばれる)らによれば、「自然法」はあらゆる「実定法」に先立つ、人間のためにアプリオリに存在する公理的な法です。このような「自然法」を仮定することで近代的な自我の土台となる「自由権」と「平等権」が着想され、更に、そこから「市民権」が強烈に意識されるようになったのです。そして、今や、このような「自由意志こそはすべて」という現代人の固い信念に疑いを挟む者はほとんどおりません。しかし、グロティウスの時代には、例えばスピノザ(Baruch de Spinoza/1632-1677/オランダの哲学者/神は自然であるという汎神論を主張し、このような神を直観することの自足感を道徳の最高の価値とした)の哲学のように「自然法」に先立つ根本として「キリスト教的な福音と中庸」の価値が未だ評価されていたのです。そして、ほとんどの近・現代人は、スコトウスの誤解とともに、これを見失ってしまったのです。古代ギリシアにおいては、自由であることは自由市民であることと同じであり、市民権は市民の義務と表裏一体でした。従って、自由を誇り、それを謳歌するためには、まず人間としての最低限度の義務の意識(つまり、これが正義)を誇らなければならなかったのです。それ故にこそ、自由には倫理(道徳)が伴っていたのです。しかし、中世後期頃にスコトウスが誤解され、自由意志が倫理と切り離されてしまうと、近代の哲学は神学を捨てることになります。やがて、哲学だけで人間と神に関するすべての領域を解決しようとしたため、人類の悲劇がもたらされたのです。そして、今また、アメリカ・プロテスタントの狂信的な原理主義一派に先導されたブッシュ政権の「米国一国主義」が、スコトウスの誤解を繰り返しているのです。
スコトウスは「自由意志」に関する考察の中で、“一つの方向の可能性が実現しても、その同じ瞬間に他方の可能性も排除されずにあると考えなければ、可能性の現れである「偶然」は説明できない”と主張しています。確かに、目前にある実現した可能性しか可能性でないとするなら、それは可能性ではなく必然性だということになってしまいます。我われは、折にふれて強い運命的な感慨を持たされることがありますが、それは、このような“意識上のトリック”に嵌った時で、このような時に「原理主義という罠」が大きな口を開けて待っているのかもしれません。このように、スコトウスの特徴は“可能性と現実は別ものであり、可能性はそれはそれとして存在する”と考える点にあります。言い換えれば、スコトウスは「可能的世界」と「現実世界」が共存し得ると主張したのです。現実とは異なる世界が「あり得る」と見ることが「現実の世界の存在可能性」(本質的に偶然的な存在)を理解することだと主張した訳です。そして、良く考えてみると、これは現代人にとって、ごく当たり前の世界観であり、このような考え方こそが近代科学を成立させてきたのです。現代の我われが、世界中の世界市民が、いま現在、時を同じくして地球上で共存しているという認識を持つことができるようになったのはスコトウスのお陰であるのかもしれません。また、現代における最先端の宇宙物理学では、理論的に構想することが可能な無数の宇宙のなかで、現実のこの宇宙は、その一つとして存在しているものだと考えられています。 とにかく、今まで見てきたスコトウスの「自由意志説」が近代的な「自我」をもたらす原動力となったことは間違いがないようです。また、スコトウスは「人間の自由意志」そのものは自らの自由によって自らがどの方向へ向かうべきかを決定することはできないと主張します。そのために必要なのが、「神の意志と理性」の代弁者たる「聖霊」によって正しく導かれた「人間の理性」(知的認識)の働きです。すなわち、「人間の自由意志」は生来的に「正しい導き」を必要とする能力なのであって、その導きが無ければ「人間の自由意志」は、まさに「自由」そのもののなかで溺れてしまうしかないのです。このため、神は預言者やキリストをとおして「人間が生きる意味、目的、生き方」などを人間に教えてくださり、それが聖書と教会というコードとシステムによって伝えられているのだと、スコトウスは主張したのです。
アメリカプロテスタントの一派を占めるキリスト教保守(原理)主義も正しい神の導きとしての「宗教的倫理」の必要性を強調しています。(2004.6.16・朝日新聞、記事『テキサス大教授、ルイス・グールド氏談/2004米大統領選挙:分断の底流(下)』、参照)しかし、この宗教原理主義とスコトウスの立場は決定的に異なっています。その違いは、宗教原理主義が「聖書の一字一句」が描く世界を「唯一の現実」(神が認める、現実的な正義の世界)と見なす一元的な狂信性(カルト的な視野狭窄)に囚われているのに対し、スコトウスの思想では“可能性と現実は別ものであり、可能性はそれはそれとして存在する”と考える「寛容と中庸」の価値観が厳しい前提となっていることです。この点については、詳しく既述してきたとおりです。しかし、現代の哲学の殆どが、このようなスコトウス本来の考え方に気付かず、その本質を誤解したまま、スコトウスの精妙な論証結果の一部だけを受け取ってきました。そして、近・現代の哲学・倫理では“ともかくも人間の意志は自由で”あり、“その自由は何ものにも束縛されない自由なのだ”という、いわば「自由原理主義」とでもいうような不可思議な考え方が前提とされてしまったのです。このため、近代ヨーロッパ市民革命を準備した根源的な哲学とされ、現代の科学技術の発達と歩調を合わせつつ発展してきた資本主義経済の原動力、つまり「自然法」の哲学そのものの性格が矛盾に満ちたものとなってしまったのです。これが、現代のアメリカを跋扈する「自由経済原理主義」、「市場原理主義」、「キリスト教原理主義」、「科学原理主義」等のルーツなのです。フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国は、その後の市民革命、宗教紛争で度々繰り返されてきた悲惨な大殺戮(大戦争)の経験から、多様な価値観や多様な世界が存在することの意味を十分に学んできました。しかし、アメリカ合衆国は、ピルグリム・ファザーズが入植して以来のユニークな地政学上の条件や、その国土が戦乱に巻き込まれる戦争を殆ど体験したことがないという特殊な事情もあって、「自由経済原理主義」、「キリスト教原理主義」、「科学原理主義」などの素朴ながら恐ろしく矛盾に満ちた価値観が突出し易い、ある意味で異常にエキセントリックな社会を築き上げてしまったのです。
このような訳で、現代の世界は、アメリカ発のコンピュータ技術に支えられた現代科学と市場原理主義的経済が目覚しく進歩・発展するなかで、そこに住む一人ひとりの人間は、自分の進むべき方向を探しあぐねて悩まなければならなくなっています。本来は、このような問題への答えを探求することが哲学の仕事であった筈です。最早、現代の人間が自分の根源を探しまわっても、そこには捉えどころがない「無」の底なしの暗黒が見えているだけです。なぜなら、スコトウスによれば、小賢しい「人間の知性・理性」は「純粋な論理可能性」であるに過ぎず、そこに「実質的な核となる内容」が初めから存在することはあり得ないからです。更に、「人間の自由意志」は「自由である」ことのみを根拠とする能力であり、それ以外の根拠は何も存在しないのです。還元論的な研究でクオーク・レベルまで到達した現代の量子物理学者の多くが、“この段階に至ると、今や幻惑感を覚えるのみだ!”という心情を正直に吐露するのは、恐らくこのような理由によるのかもしれません。物質を究極まで還元した量子の世界では、数学的・確立論的な性質の電子やクオーク粒子が見せる波動的なカオスの世界のなかで、プラトン哲学のイディアのメタファーを真剣に語らざるを得なくなっているのです。(京大理学部教授・佐藤文隆著『科学と幸福』(岩波現代新書)、参照)また、スコトウスを見過ごしていたと思われるニーチェとハイデッガーは自我の根底に潜む「無」を発見してニヒリズムと実存主義を語るようになりました。そして、キリスト教文化の背景と伝統が殆ど存在しないままに欧米の近代科学を受け入れ、その結果としての成功と繁栄に酔うばかりの日本人は、「神を死なせた」まま上っ面をなぞっただけで手に入れた、経済的な繁栄という
「報酬」の陰に潜んでいた「闇と狂気」(原理主義思想)によって復讐されているのです。それが、今、我われが目前にしている「テロとの戦い」とよばれる21世紀の新しい戦争なのかもしれません。
アメリカブッシュ政権のキリスト教原理主義に染められたエゴイスティックな狂気の政策(米国一国主義、先制攻撃による平和と民主主義の実現)と、只管それに追従するするしか能がない、日本政府の背任的(対国民)なダブル・スタンダード政策の決定的な誤謬の意味
(原理主義に嵌り易い人間の恐ろしさと、その原理主義者に追従するばかりの人間の恐ろしさ)がリアルに認識できるはずです。ここでいうダブル・スタンダードとは、実態は対米追従であるにもかかわらず、あたかも“お客様第一主義”(国民第一主義)であるかのように上辺を装うだけの欺瞞に満ちた彌縫策に終始する、まことに情けない政治手法のことです。例えば、論理的・実証的に応答すべき国会という議論の場で“人生いろいろ、社会もいろいろ、会社もいろいろ・・・”というような不真面目なハグラカシの言葉を総理大臣が投げ返し、国会議員たちも、国民もそれで“善し”として見逃すようなことは、いやしくも民主主義国家であるならば許されない筈です。また、本日の新聞報道によると、「自衛隊のイラク多国籍軍参加」の問題に関連して、日本政府は「unified commmand(統一の指揮下)」の邦訳を「統合された指令部を持つ」と解釈すれば“自衛隊は多国籍軍に参加するが、その指揮下には入らない”と理解できるので、これを政府見解の根本に据えて「憲法違反の論議」を回避する方針が決められたそうです。こんな子ども騙しの屁理屈が現代の先進民主主義国家のオフィシャルな論理とされること事態には呆れるばかりです。今、三菱自動車の重篤な企業犯罪が司直の手によって追求されていますが、政治の世界でもこの位の厳しさが無ければ嘘ではないでしょうか? 仮に、嘘つきの社長がいたとして、その社長が“自分は明日から天地神明に誓って絶対に嘘をつかないことにした”と公式に宣言した途端、その会社の社員たちは明日から業務命令をどのように受け止めるべきでしょうか? 恐らく、真面目に働く社員の殆どは、社長の業務命令の真偽の判断に迷うばかりで、多くの社員は心労のあまり精神的に深刻な板ばさみ状態へ追い込まれ、遂にはその会社は業務が成り立たなくなり廃業への道を歩むことになるでしょう。これが、この論の冒頭で述べた“今、日本ではエリートたちの見掛けだけの矛盾に満ちた言動が、人格形成期にある小・中・高校などの子どもたちを預かる教育現場に大きなインパクトを与えつつあり、それは政治権力による矛盾(二律背反)論理の強制(ダブル・バインドの精神的圧力)という形で子どもたちの精神環境に深刻な悪影響を与えて発達障害などをもたらす恐れがある。”と述べたことの意味です。原理主義に取り憑かれ易い人間は、まことに恐ろしい存在ですが、自分より大きな権力を握る「原理主義者」に追従するばかりの人間はもっと恐ろしいといえるのではないでしょうか? このように見てくると、「神の恩寵を期待しつつ謙虚な心がけで現実社会を誠実に生き抜く、厚い宗教心を持つ人間」といわゆる「宗教原理主義者」が、いかに異なった精神構造の持ち主であるかが理解できるはずです。当然ながら、嘘つきや詐欺師の類の話は、この結論の論外です。
<注>ヨハネス・ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1274)の理解については、下記(★)の著書を参照しつつ管理人(鷹眼乃見物)としての解釈を加えたものである。★八木雄二著『中世哲学への招待』(平凡社新書)