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・説教題: 「カナンの女の信仰」 ・聖書箇所: マタイによる福音書15:21-28
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投稿者 乃依 日時 2004 年 3 月 07 日 02:19:47:YTmYN2QYOSlOI
 

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・説教者: 山本隆久
・聖書箇所: マタイによる福音書15:21-28
・説教題: 「カナンの女の信仰」
(場所・日時: 水戸中央教会・2000年10月15日)
投稿者: 山本隆久(E-mail:kirche@mwb.biglobe.ne.jp)、投稿日:2000/10/15 17:29

水戸中央教会 説教                  2000年10月15日

マタイによる福音書15章21〜28節

 イエスとその弟子たちの一行は、イスラエルの隣国にあたるティルスとシドンという古代フェニキアの都市へ向かっていました。ローマとエルサレムを結ぶ通商路の要衝にこの二つの町はありましたから、ここにもユダヤ人たちが移り住み、ユダヤの会堂などが存在していたのかも知れません。あるいはまた、イスラエル国内での伝道活動に、小休止を必要として、この地域へ向かっていたということも考えられるでしょう。急ぐ旅であったわけではないようです。
 彼らに、その地方出身のカナン人の女がつきまといます。娘が悪霊に取り憑かれて苦しめられていたのでイエスにその悪霊を追い出して欲しいことを頼むためでした。イエスは彼女を無視します。
 「なんて冷たい人だ。助けてやればいいのに。」と、私たちは思います。しかし、イエスにはきちんとした理由があったのでしょう。私たちでも、家族が大病であったり、何かの大きな危険の中にあり、その場へ駆けつけなければならないようなときに、人から頼み事をされても断ることがあります。またカナン人は別の宗教を信じており、旧約聖書などでは、カナン人の神をイスラエルが受け入れたことが、大きな禍をもたらしたことが記録されています。
 極端なことを言えば、「娘が悪霊に苦しめられているというが、そんなことは当たり前。あなた達が悪霊を神としているのだから。」と、言うことさえ出来たかも知れません。
たとえば、エホバの証人の信者の子供が大けがをして、輸血をすれば助かるのに、両親は信仰に従い、頑として輸血を拒否しながらも、医者に子供を助けてくれと懇願したら、その医者は手の打ちようがありません。まずエホバの証人であるという間違いから両親が抜け出せなければ、救いようがありません。
 このあたりの事情を弟子たちも理解していたのでしょう。カナンの女がしつこく、しかも叫び続けるため、イエスに、「追い払ってください。」とお願いします。しかし、決して「この女の願いを聞いてあげて下さい。」とは、言っていません。

 私たちは、イエスや弟子たちの行動が、自分たちの基準に合わないとき、安易に疑いを持ちともすれば、否定してしまうことがあります。あるいは安易に絶対化して固執することがあります。よく言われますのは、「イエスは素晴らしいが、パウロは律法的で嫌いだ。パウロがイエスの教えをねじ曲げた。」などという意見です。たとえば、パウロの女性に対する記述などが、差別的だとか非難されたりしますが、どのような状況の中で言われた言葉であるかをろくに理解しないで、判断していることが多々あるように思われます。また、逆にそのような聖書の記述を単純に絶対化して、言葉の発せられた事情を無視して、現代の状況に無理矢理強制するというのも間違いでありましょう。

 ある中国の母親が、大変善良な息子を持っていた。ところがある日、その母親のところへ一人の人が来て、「お宅の息子が、これこれしかじかの罪を犯した。」と言ってきました。母親は、「私の息子が、そんな罪を犯すはずがない。」と、取り合わなかった。そこへ、再び別の人が同じことを言いに来たが、やはり母親は同じように言い返した。しかし、三人目の人が来て、同じことを言うと、その賢いことで有名であった母親は、あわてて駈けだしたというような話を聞いたことがあります。敵の目的は、母のその息子に対する信頼を崩すことにあったのです。有名な故事ですが、私は忘れてしまいました。皆さんの方が正確によくご存じのことと思います。
イザヤ書の言葉を思い出します。
11:3 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、

 カナンの女は、イエスに無視されたうえ、二度、明瞭に拒絶されていますけれども、なおイエスにより頼んでいます。「なんと冷たい人だ。イスラエルの神は、そんなにケチなのか。」と言ったりすることもできたでありましょう。
しかし、彼女はイエスを信頼したのです。たとえ、どのような態度をとられても、「この方は、貧しい者、悩みの中にある者を必ず救われる方だ。」と信じていたのでしょう。犬扱いまでされてもなおイエスに頼んでいます。
 彼女の悩みは深刻であったために、イエスにすがるしかなかったのかも知れません。その意味では、悩みの深刻さが幸いしたと言えるのです。「悲しんでいる者は幸いである。その人は慰められるであろう。」という言葉の成就をここに見る気がします。

 アウグスチヌスは、このカナンの女の信仰について謙遜ということを読みとっています。
その対局にあるのは傲慢です。私たちの時代ほど、人間の傲慢が明確になっている時はないでしょう。神からすべてを頂いているという謙遜を今一度心に留めて過ごしたいと願います。

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