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X-FILES :テレポーテーション、あるいは人体消失の謎
【Netfirms+etc】テレポーテーションという現象は人がある場所からある場所へ - 時に数千キロ、時には数メートル - と、物理的に移動不可能な距離を瞬時に移動してしまう現象である。この現象はかなり古くから文献にも記録されており、また近年においても急に人が消える事を神隠しなどと言う事があるが、その実態は未だもって明らかではない。こうしたテレポーテーションの記録に残る最も有名な事件として1593年に起こった不可解な事件がある。その日、メキシコシティのグランドパレス前に待機していた警備兵達の前に、突然見たこともない服を着用し、銃を携行した男が現れた。警備兵達はすぐさま男を取り囲み、男の素性を問いただしたのである。するとどうだろう。その男はフィリピンはマニラにある総督宮殿の警護に当たっていたところ、気がついたら突然ここにいた、と言う意味不明な事を口走ったのである。言うまでもなく、フィリピンとメキシコは凡そ地球の正反対に位置しており、男の証言はさながら気狂いであると言うほかあるまい。しかし、男は確かにその証拠を握っていたのである。
マニラからメキシコへ飛んだ男
取り囲んだ兵士達は困惑しながら更に問い質すと、男は動揺した様子で「今晩、マニラで総督が暗殺されたんだ。それで宮殿に厳戒態勢がひかれてて、俺はそこで警備に当たってた。でも今は確かににここがマニラじゃない事は分かった、、、だけど、何がなんだか俺自身訳がわからない、、」とかなり動揺した様子ながらもスペイン語で告げたのである。そして男は結局気の触れた不審者として投獄される事となった。
しかし、それから一ヶ月後の事である。フィリピンから到着したある貨物船員の一員がメキシコの当局に対し、一月程前、マニラにて総督の暗殺があった事実を”初めて”告げたのである。当局の人間はそれを聞いて愕然とした。それは一月前、あの奇妙な男が喋った内容そのままの出来事だったからである。
時は1593年、電話も電報もない時代である。マニラから瞬間移動したというその男は一月前のその日、一体どのようにして総督暗殺の事実を知ることが出来ただろうか?そして真相は不明なまま男はひとまず釈放され、その貨物船に乗ってフィリピンに帰ったのである。そしてその後の行方を知るものはいない。
テレポーテーション
これは1655年、インドのゴアで起こった事件である。その日ある男性が仕事をしている最中、フと一陣の風に吹かれた。するとその時である。次の瞬間には男は自分が生まれ育ち、20年前に離れた土地に再び立っている事に気がついたのである。そこはポルトガルだったのだ。男は訳が分からず、自分の身に起こったことを周囲の人間に話したが、不幸にも男は気狂いとして扱われ、その現実味のない話から異端審問にかけられるなり、「神の行いにそぐわない」として火あぶりの刑に処されたのである。
また別のケースとしてはスペインの修道女メアリーの物語がある。1620年から1631年にかけて、メアリーは何度かヨーロッパと中央アメリカを瞬間移動で行き来し、そこで原住民達にキリスト教を広めていたというのである。しかし、当然のことながら教会は彼女の主張を認めず、彼女は嘘つき女として軽蔑のまなざしを受けることになったのである。
しかし、彼女の主張を裏付ける不思議な出来事が起こったのはその後の事である。時が経ち、原住民に布教活動(改宗活動)を行う為にスペインから正式な聖職者が派遣された時の事だ。スペインから中央アメリカへ向かった布教者の一人アロンゾ・デ・ベナヴィデス神父は時のカトリック教皇、そしてスペインのフィリップ4世に対し、現地から以下のような手紙をしたためたのである。「中央アメリカにて私の為すべきことはありませんでした。何者が既に我々を出し抜いたようです。現地の話では、ここに青い服を着た謎の修道女が来ていたそうです。彼女は原住民にロザリオとクロスを与え、聖杯を持ち込んで祝祭までも行っていたようです。」
その後、アロンゾ神父はスペインに帰還すると、早速メアリーに面会し、真偽を確かめる為中央アメリカの様子を尋ねた。するとどうだろう。彼女はアメリカで見たものを克明に神父に語ったのだ。そしてそれは神父が見た- そして彼女が知るはずのない -ものと全く同じだったのである。更に、彼女のいた修道院の上位聖職者が彼女が一度としてその修道院を離れたことがない事を証言した為、神父は結局、メアリーの話を信じないわけにはいかなくなったのである。後にある伝記作家は以下のように書いている。「彼女が実際に中央アメリカを訪れていたことはその後スペインの征服者、そしてフランスの探検家達によっても明らかにされている。およそ歴史に反するこの不可思議な現象が一体なんだったのか、それは現在でも全くもって明らかではない。」
ナポレオンと共に戦った男
また別の奇怪な事件がある。1846年までアメリカのノースカロライナにて仏語教師をしていたピーター・スチュアート・ネイ氏は寡黙ながらも、町では人気の教師だった。しかし、同年、既に年老いたネイ氏は今まさに臨終の時を迎えようとしていたその時、彼は突然その場に居合わせたものに、力なく、しかし、奇妙な事を口走ったのである。
「私は、フランスのネイ元帥だった、、、」
当時フランスにおけるミシェル・ネイ元帥といえば、ナポレオン・ボナパルトの元で活躍した有名な人物である。しかし、記録によれば、ナポレオンがワーテルローで敗北し、セントヘレナ島へと島流しにされた1815年、ネイ元帥は時のフランス国王により反逆罪で処刑されているのである。
従ってもちろん、そんなネイ氏の言葉を誰も信じようとするはずもない。おそらく臨終の間際に記憶が錯乱し、妙な事を口走ったのだろう、と周囲の人々は考えたのである。
しかし、不思議な事はその後に起こったのだ。死後検視に当たった医師がネイ氏の身体を検査したところ、ネイ氏の身体には決して穏やかな教師の姿には似つかわしくない、いくつもの大きな戦場の傷跡がついていたのである。医師は驚きながらもまさかと、記録されていたネイ元帥の傷の特徴と比較したところ、教師ネイの傷の位置はネイ元帥が身体に受けた傷の位置と見事に一致していたのである。
また更にその後になってNYから訪れた筆跡鑑定家デヴィッド・カヴァルホ氏がネイ元帥の筆跡と教師であったネイ氏のものを比較した結果、それらが完璧に同一人物のものであるという事が明らかになったのである。しかし、その時既にネイ氏は故人であったが故、今となってはその真相は知る由もない。
新しい人格
またここに距離だけでなく、人格までもが失われてしまった男の話がある。1887年1月17日、ロードアイランド州にて大工と牧師をして暮らしていたアンセル・ボーン氏は家を出て銀行に向かい、そこで口座から$551を引き出した。彼は自宅から程近くの甥が住んでいる辺りに新たに農地を購入しようと計画していたのである。
そしてその56日後の3月14日、ボーン氏はは自分が全く見知らぬ場所で目を覚ますのである。彼が目を覚ましたのはいつもの見慣れたロードアイランドの町並みではなく、ペンシルバニア州のノリストンという町だったのだ。彼は目を覚ますまでの経緯を必死に思い出すが、銀行を出て甥の家を訪れ、自宅に帰ろうとして甥の家を出たところからぷっつりと記憶がない。しかし、それが単なる記憶喪失でないことは明らかである。彼は一体なぜ、自分が自宅から370kmも離れたペンシルバニア州にいるのか、そして56日間の間自分が何をしていたのか全く理解ができなかったのである。
そして不可解な事件は更に続く。ボーン氏は訳が分からないままひとたび外に出ると、そこでボーン氏は、彼のことを"何故か"知っている人物に会ったのである。話によれば、その男性は彼の雇い主だったのだ。彼は訳が分からないままその男に自分の事をそれとなく問い質すと、そこでいくつかの信じがたい事実が明らかになったのである。まず彼の名前はアンセル・ボーンではなく、Mr.アルバート・ブラウン、そして「そこでは」彼は2月初頭にその男性から店舗を借り、お店を経営し、成功しているというものだったのである。またそれだけではない。彼はその地域の中心的人物として既に周囲の信頼も得ており、メソジスト教会の牧師を勤めていたのである。
ボーン氏はすっかり混乱し、もはや訳が分からなくなってしまった。一体何が起こっているのか?だいたい何故自分がそれまでさっぱり興味すらなかったビジネスに手をだしているのか?自分は56日間も何をしていたのか?それよりも自分は一体誰なのか?それはボーン氏、いや、人間の思考を遥かに超えた理解しがたい出来事だったのである。
そしてボーン氏は自分のことを検査してもらうため、ハーヴァード大学教授ウィリアム・ジェームス博士に依頼し、催眠遡行による検査を受けたのである。しかし、そこでもまた意外な事が起こった。催眠遡行においても、ボーン氏は自分の事をアルバート・ジョン・ブラウンと名乗り、ペンシルバニアでお店を経営してきた、とジェームス博士に話したのである。そして逆に自分がアンセル・ボーンだった時の出来事は何も思い出せないと話したのだ。
実験の結果、ジェームス博士はある結論を下した。ジェームズ博士の推測ではおそらくボーン氏、そしてブラウン氏は共に実在した別々の人物であり、二人は別個にそれぞれの個性を持っていた。しかし、それがある何かのきっかけで同時に消失し、瞬時にエーテルのようなものになったのではないかというものだったのである。もちろんジェームズ博士はそれがあるいは非科学的でこそあれ、唯一の説明足りえるのではないかと前置いている。
人体消失現象
またこうしたケースは他にもある。奇妙なものとしては1769年のオウェン・パルフィット氏のケースである。その日、パルフィット氏は家の玄関に腰掛けていた。彼は少し前に足を怪我しており、立つ事が出来なかったのである。そしてパルフィット氏の面倒を見る為に家に来ていた彼のいとこがそんなパルフィット氏の姿を見るなり、膝掛け毛布を取りに家の中に入った時の事である。それはたった1分間くらいの出来事だったという。いとこがパルフィット氏の所に戻ると、彼は既に姿を消していたのである。いとこは慌てて外に出てパルフィット氏の姿を探したがその辺りは田舎で周囲には家もなく、姿を隠すような場所もない。パルフィット氏は文字通り、その姿を忽然と消してしまったのである。
他にも最も有名な事件として、1809年に英国の外交官ベンジャミン・バトハースト氏が消失した事件がある。その日彼はオーストリアの法廷での仕事を終え、ハンブルグに向かう帰路についていた。彼は夕食を取る為にペルレブルグのホテルに立ち寄り、そこで夕食を取った後の事である。バトハースト氏とその同行者が馬車に戻り、同行者が先に馬車に乗り込むと、バトハースト氏は馬の機嫌を見ようと馬車の前に歩いていったのを最後に忽然と姿を消してしまったのである。同行者はその一部始終を目撃していたが、氏は目の前で文字通り消失してしまったのだ。
また比較的最近のものでは1975年の出来事がある。その日、ジャクソン・ライトとその妻マーサはニュージャージーからニューヨークに向けて車を走らせていた。そして車が丁度リンカーン・トンネルに入った時のことである。夫のジャクソンが車のフロントガラスを拭く為に身体を伸ばすと、マーサは後ろに身体を伸ばして後部座席の窓を拭こうとしたのである。そしてガラスを拭き終えてフと隣を見ると、そこに既にマーサの姿は無かったのだ。
霧の中に消えた連隊
また戦争中の話もある。第一次大戦中の1915年8月12日(15日と伝える説もある)、トルコはガリポリ半島での攻防戦の際、ニュージーランド陸軍の兵士3人は偵察の為に丘に上がって戦場をを見渡すと、スーヴラ湾付近の丘に英国連隊が行進してくる様子が見えたのである。そして連隊が登ろうとしている丘の上には、小さな霧のような低い雲が立ち込めているのを確認したのである。そしてそこで驚くべきことが起こった。連隊は雲を特に気にせずそのまま丘に登り、雲の中を通過しようと直進したが、誰一人としてその雲の中から姿を見せなくなってしまったのである。目撃した兵隊らの話では一連隊全てが雲の中に消えていくまで凡そ1時間を要したと語っている。そしてその後、雲はゆっくりと上昇し、そのまま他の雲に混ざりあって消えてしまったという。
そして終戦後の1918年、トルコが英国に謝罪すると、英国はトルコに対し捕虜とした一連隊をすぐに解放し、本国に帰還させるよう要求したが、トルコ側は捕虜を捕らえるどころか、その連隊の姿すら見ておらず、その存在すら知らないと主張したのである。
終戦後しばらくしてその奇妙な目撃体験を語ったニュージーランド軍の兵士は既に老いており、記憶されているところは決して詳細なものではない。しかし、その日、確かに英国連隊の5分の1にも上る数の兵隊が何らかの原因で忽然と姿を消していることは事実なのである。またその後の調査では連隊のうち何人かは遺体で発見されているが、残りの多くの兵隊はその後も消息不明のままなのである。
ある研究者はこうしたテレポーテーション、また人体消失の現象は、時間というものが何らかの形で"スリップ"する事により発生するのではないかと推測している。またある研究者は宇宙に何らかの形で存在する渦のようなものが時として人を巻き込み、全く違う場所、あるいは次元へと人を運ぶのではないかと推測している。しかし、当然これらは憶測の域を出ず、現在の科学力ではこうした現象を解き明かすことは不可能であろう。しかし、また事実としてこうした現象、それに類似した現象はこれ以外にもその詳細は異なれど、世界各地、様々な時代で確認されているのは事実なのである。
【参考】テレポーテーションの実用化に向けた実験に成功 | テレポーテーション(瞬間物質移動) テレポートに成功!?オーストラリアの科学者 | BBC NEWS | Australian teleport breakthrough
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Posted by : X51 | 2004年02月05日 06:14