現在地 HOME > 掲示板 > 昼休み2 > 672.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 胡蘭成著「今生今世」が、上海ベストセラーリスト、第一位。米英ユダヤイルミナティ世界権力が全く、知らない、胡蘭成の思想と学問[週刊日本新聞] 投稿者 乃依 日時 2004 年 1 月 27 日 17:00:40)
胡蘭成著「禅是一枝花」が中国上海社会科学院出版社から刊行と。そして、それで、問題は「士」の復活。
更新 平成16年01月28日13時00分
太田龍の時事寸評
平成十六年(二〇〇四年)一月二十七日(火)
(第八百三十六回)
○中共大陸中国関係当局は、既に一九九〇年〜一九九一年、台湾で、
三三系の人々によって出版されて居た、漢文胡蘭成全集全九巻を
入手検討して、二〇〇三年九月から二〇〇四年一月にかけて、
胡蘭成著三冊を、簡体文字版として上梓した。
○そのうちの一冊は、
「禅是一枝花」、である。
○この著作には、
民国六十五年(西暦一九七六年)八月二十一日付の「自序」あり。
○そしてそれは、民国七十九年(西暦一九九〇年)、三三出版によって、
漢文全集の中の一冊として出版されて居る。
○この著述は、中国禅宗のもっとも有名な古典としての「碧巌録」
公案百則に対する胡蘭成先生の注釈である。
○胡蘭成説によれば、
禅宗は、純然たる中国人が立てたものであって、インド仏教とは全く
無縁である、と言う。
○「禅宗肯定天地萬物的成毀之機」
(禅宗は、天地萬物成毀の機を肯定する。)
○「機」の一字は、中国人のみがこれを知る。
インド人も西洋人もこれを知らない。
との胡蘭成説については既に述べた。
○中国化された佛教としての禅は、
その「機」を、教義と実践の中心に置いた、と言う。
○今、中共中国が、胡蘭成著「禅是一枝花」を出版した。
○現在の中国人は、この著述を、どのように読みこなすであろうか。
○是は、重大な問題である。
○「及至明清、士既萎陋、禅亦遂與黄老同其孤寂、而潜化溶解於民間
諸藝之中、如平劇的機智活發處、即是黄老的與禅宗的。在日本、
是禅意禅機於創造與茶道與造庭園。但這些畢意只玩意児、黄老
與禅今日還是必要従新與士相結、見於政治的行動、纔可以来打
得江山、平得匪亂。」
(『禅是一枝花』、十八頁、三三書房版)
○右の漢文の大意。
明朝、清朝に成ると、中国の「士」は、既に、萎陋した。
禅も亦、黄老と共に、孤立し、表面から姿を消した。
それは、民間の諸藝の中に解け込むのである。
日本のことは省略する。
しかし、今や、黄老と禅は、「士」と結びついて、
政治的行動に出なければならない。
○ここに言われて居る内容は、今の日本人には、全く、理解出来ない
であろう。
○「士」、と言われる、その文字が分らない。
○今や、日本では、「士」の字は、徹底的に退廃させられて居る。
「代議士」は、その一例である。
○明治人は、憲法にもとづいて選出される衆議院議員を、
「代議士」、と通称した。
○当時の日本には、かっての「武士」が、未だ、多数生存して居た
であろう。
○国家の政治を議する議員も、「士」たれ、とする。
○内村鑑三は、昭和初年、死に臨んで、
武士の子として死ねることは、自分の喜びとし、名誉とするところ
である、と言った趣旨の述懐をして居る。
○昭和初年は、武士の子として生まれた最後の世代が死去して行く時代
である。
○胡蘭成思想の主眼の一つは、
東洋文明復興の核としての「士」の復活であろう。
○しかし、一体、日本人にとって、「士」とは何なのか。
○そして同じく、現在の中国人にとって、「士」とは何か。
(了)