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人がそれを信じるときは勇気だけでしょうか?年をとるにつれそれがだんだんできなくなってきているようになっていることをいま自覚したようです。
子供のころはもっと純粋に人から言われたこと信じていたような気がします。
たとえば小さいころ神様というものは今よりずっと信じていてどこかで見守られているように思っていました。過去形な言い方のとおり今は迷っています。
この迷いこそが人間の弱さではないのでしょうか?何かを信じたいが信じきれない。たとえば手品のように目の前で起こっていても「そんなはずはない」自分の今までの経験から判断してありえないと思う気持ちと目の前で起こっている現実とのあいだ。そこでうごめいているもの二者択一になったとき人はどうやって決めるのでしょうか?
直感だったり経験だったりまたは周りの人の意見だったり。総合して判断を下す?んっ
どっかの国の首相が言っていたっけか。
まっどっちにしてもそれぞれ選択したひとつの答えにはそれなりの結果というものがありますよね良かったか悪かったか。前向きな人や向上心の強い人、はたまたプラス志向な人などはたとえ悪くてもいいほうに考えられる柔軟な考え方ある人がいますけど
僕はですね迷ったときにはもうひとつの道がないか、もうひとつの考え方がないか
まったく違うところで悩んでしまうんですね。「あいだを取る」という考え方とは違いますよ、まったく違うもうひとつの選択肢。何かないか。この何かないかを見つけることが人間の繁栄ではないでしょうか。さっきの手品の例えですと、目の前の現実と今までの経験からの「ありえない」という気持ちがあって、じゃなんでそうなったかトリックを
見つけようという気持ち。トリックを見破ろうということは「信じる」「信じない」と
とはちがうもうひとつの道ではないでしょうか。
疑うということかもしれませんし選んでいないという優柔不断さ勇気のなさかもしれません。「あなたは神様を信じますか」と問われたとき、たくさんの人が信仰している現実と今まで会ったことがないという経験のなかで「どっち?」とわれると正直悩みます。
そんなとき「あなたは何でそんな質問をするのですか」といいたい。答える必要があるのでしょうか?現代社会というより人間社会にいると二者択一の場面が人生の中で決定していかなければならない。またその連続でなりなっています。これは現実です。しかし子供のころに「りんごとみかんどっちがいい?」ときかれ迷った挙句「バナナがいい」というようなもうひとつの選択肢の提言を「わがまま」という形で持っていなかったでしょうか。「これしかないの。どっちがいい?」そんな教育だったしそんな教育をしていますが二者択一大衆教育とお金持ち上層教育はこの辺から違ってきたのではないのでしょうか?
もうひとつの選択肢、それは己を信じるところからだと思います。