現在地 HOME > 掲示板 > 昼休み2 > 265.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: Re: 野ばら 詩:ゲーテ 投稿者 乃依 日時 2003 年 12 月 20 日 00:52:31)
ゲーテ年譜
Johann Wolfgang von Goethe
http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/4605/geothe/geotheBio.htm
一七四九年
八月二十八日、マイン河畔のフランクフルト市(当時人口三万、重要な商業中心地)に生まれる。父が帝室顧問官の称号をもつ裕福な家。母方の祖父はフランクフルト市長。
一七五九年(一〇歳)
五六年から起こった七年戦争の結果、フランス軍がフランクフルト市に進駐.ゲーテはフランスの演劇や古典文学を知る。ゲーテの語学的、文学的才能はすでに驚異的なものとなって現われている。この年、後に相携えてドイツ古典文学を創造する盟友シラーが生まれる。
一七六五年(一六歳)
詩、戯曲の試作を次々に書く。十月、法律を学ぶためライプツィヒ大学に入学。精神の自由を求め奔放な生活に傾く。
一七六七年(一八歳)
戯曲『恋人の気まぐれ』を書き、またレッシングの『ミンナ・フォン・バルンヘルム』の芝居に出演したりする。
一七六八年(一九歳)
二年前に知り合い、恋愛関係にあったケートヒェンと訣別。肺結核の闘病のためフランクフルトの生家に帰る。クレッテンベルク嬢を知り宗教的感化を受ける。この時代に喜劇『同罪者』の執筆。この作品のなかで初めてファウストの名が出てくる。その他いろいろの作詩。
一七七〇年(二一歳)
四月、シュトラースブルク大学に入学。ヘルダーを知り、やがて大きな影響を受ける。ゼーゼンハイムの牧師の娘フリデリーケと交わり愛情を抱く。前年計画を立てた劇『ファウスト』の執筆に初めて取りかかる。
一七七一年(二二歳)
抒情詩の秀作「五月のうた」、「野ばら」などが生まれる。フランクフルトの自宅へ帰り、シェイクスピア祭を催し、自作の文章を朗読。
『ゲッツ』の初稿を書く。
一七七二年(二三歳)
五月、法律実習のためにウエッツラルヘ。『若きヴェルテルの悩み』の女主人公のモデルとなるシャルロッテを知り、愛する。旧友イェルーザレムの自殺事件があり、『若きヴェルテルの悩み』創作の意図が熟す。
一七七三年(二四歳)
『鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』公刊。大きな注目を浴びる。『ウル・ファウスト』(『初稿ファウスト』)に取りかかる。
スピノーザや『コーラン』を耽読する。
一七七四年(二五歳)
『若きヴェルテルの悩み』を短期間で完成、発表してセンセーションをまき起こし、『ゲッツ』の成功とともに、いまやシユトゥルム・ウント・ドラングの輝かしい旗手となると共に、ヨーロッパ的名声を得るにいたる。この年、戯曲『クラヴィーゴ』も書く。ワイマル公国のカール・アウグストと知り合う。
一七七五生丁(二六歳)
銀行家の娘リリーを知り愛し合い婚約までするが、訣別。「湖上」その他の名詩が作られる。また戯曲『シュテラ』執筆、『エグモント』の稿を起こす。十一月、招かれてワイマルへ行き、定住。アウグスト公はじめ公妃ルイーゼ、公太妃アンナ・アマーリア、シュタイン夫人など多くの宮廷人との交わりが始まる。『ウル・フアウスト』の一部を朗読、宮廷の女性たちを感動させた。アメリカ独立戦争(一七八三年まで)始まる。
一七七六年(二七歳)
政治生活に入る。シュタイン夫人への愛、たかまる。六月枢密会議(閣議)に出席。また鉱山監督の任に当る。戯曲『兄弟』を青く。
一七七七年(ニ八歳)
『ウィルヘルム・マイスターの演劇的使命』起稿。十二月、アウグスト公とともにハルツに旅行。
一七七九年(三〇歳)
散文体の『タウリスのイフィゲーニエ』を執筆。枢密顧問官に任命される。アウグスト公とともにスイス旅行。
一七八〇年(三一歳)
若い学者とともに、地質学の研究や鉱山の調査を行なう。戯曲『トルクワト・タッソー』を起稿。
一七八二年(三三歳)
五月、父死す。ワイマルのフラウエンプラン街(今日のゲーテ・ハウスのあるところ)に移り住む。大蔵長官となり、実質的には宰相として政治に専心。
一七八四年(三五歳)
人間の顎間骨を発見。期せずして進化論の道をひらく。スピノーザの『エティカ』を研究。
一七八六年(三七歳)
多年尽力した政治への献身も理想通りにいかず行きづまり、シュタイン夫人との稀有の愛情も堪えがたくなる。誰にも告げずイタリアへ旅立つ。ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドゥア、ヴェネチア、フィレンツェなどを経てローマに入るりその間、イタリア・ルネサンスのさまざまの芸術に圧倒される。画家ティシュパイン初め、画家マイヤー、実学者モーリッツ、彫刻家トリッペルなどの芸術家と交わる。
一七八七年(三八歳)
韻文劇『タウリスのイフィゲーニエ』完成。ティシュパインとともにナポリヘ。ヴェスヴィオ登山、ポンペイを見、シシリー島へ。ここで植物、鉱物の研究及び採集。そして戯曲『エグモント』を完成。
一七八八年(三九歳)
ローマを去り、六月、ワイマルに帰る。イタリア滞在により古典主義の明晰な芸術観を体得。シュトュルム・ウント・ドラングの精神克服され新しく『ファウスト』の構想が成り、「魔女の厨」を書く。また『タッソー』の稿をつづける。ワイマルでは、実質上の政治的公職から解放される。造花工場の女工クリスティアーネ・ヴルピウスを知り、愛して家に迎え入れる。九月、初めてシラーと会合。
一七八九年(四〇歳)
『ローマ悲歌』成立。『タッソー』完成。七月、フランス革命が起こる。八月、「人権宣言」が出る。フランスの人民暴動はドイツにも波動を及ぼす。ゲーテはフランス革命の精神には共感を覚えても、現実にあらわれる粗暴な大衆の暴力には共鳴できず、これに反撥。長男誕生。
一七九〇年(四一歳)
『植物変態論』完成。三月、第二次イタリア旅行(公太妃アンナを出迎えのため)。『ヴェネチア短唱』を書く。が、芸術よりもむしろ自然研究に執心。光学に惹かれ、ニュートン説の誤りを確信。また『動物の形態試論』に着手。『ファウスト断片』がゲッシェン版全集第七巻として出る。
一七九一年(四二歳)
ワイマルの宮廷劇場が開設され、運営と劇場監督を委任される。喜劇『大コフタ』執筆。『光学への寄与』着手。
一七九二年(四三歳)
フランス革命軍に対抗してプロシャ・オーストリア同盟が結ばれ戦争開始となり、カール・アウグスト公も出陣。ゲーテもその後に随う。ヴァルミーの砲撃戦でプロシヤ軍が敗退したとき、ゲーテの有名な「ここから、そして、きょうから世界史が始まる」という言葉が吐露された、といわれる。
一七九三年(四四歳)
叙事詩『ライネケ・フックス』を執筆。フランス革命にフ関する戯曲『市民将軍』『激昂せる人々』を書く。マインツ包囲戦の陣地に従軍。フランスではジャコバンの恐怖政治(一七九四年まで)始まる。
一七九四年(四五歳)
イェーナに植物学研究所が設立され、ゲーテがこれを監督する。
『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』が書きすすめられる。シラーと出会い、友情が急速に深まる。
一七九六年(四七歳)
主としてイェーナに滞在し、シラーと文学上の提携をする。『クセーニェン』を合同制作。『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』の執筆進展。叙事詩『ヘルマンとドロテーア』に着手。ゲーテ、シラーの協力により、ドイツ古典文学の隆昌を見る。
一七九七年(四八歳)
『ヘルマンとドロテーア』完成。全篇のための概案を書いたり、「献げることば」が出来たりして、『ファウスト』かなり進展。妻と息子を連れ、フランクフルトの生家を訪ねる。それが母との最後の対面となる。
一七九八年(四九歳)
『ファウスト』書き続け、「天上の序こ曲」成る。
一八〇〇年(五一歳)
『ファウスト』第二部のヘレナ劇の執筆はじめる。
一八〇一年(五二歳)
『ファウスト』の「ワルプルギスの夜」などの重要場面や第二部第五幕などの場面を執筆。また「愛の集い」と称する社交組織をつくり、「まどいの歌」のかずかずを作る。
一八〇三年(五四歳)
悲劇『庶出の娘』完成。『チェリーニ自叙伝』(翻訳と注釈)刊行。ヘルダーと絶交。以後相見えぬままにヘルダー死去。
一八〇五年(五六歳)
五月、親友シラーが逝去し、ゲーテは悲嘆にひたる。シラーの追悼祭にゲーテのエピローグを付けたシラーの有名な詩「鐘の歌」が劇化上演される。ナポレオンのヨーロッパ席捲が始まる。
一八〇六年(五七歳)
『ファウスト』第一部完成。プロシャとフランスの間に戦火が発生イェーナの合戦でプロシャ軍は敗れる。神聖ローマ帝国滅亡。ナポレオンがワイマルに入る。十月、クリスティアーネと正式に結婚式を挙げる。コッタ書店からゲーテ全集第一巻より第四巻まで刊行。
一八〇七年(五八歳)
コッタ版全集第五、第七巻刊行。『ウィルヘルム・マイスタ1の遍歴時代』の口述開始。
一八〇八年(五九歳)
『親和力』を書き始める。九月、母死す。十月、エアフルトでナポレオンと対面。ナポレオンが『若きヴェルテルの悩み』を戦陣にまで持参してきていたこと、七回も読んだということに感銘。更にワイマルでも再会し、ナポレオンからレジオン・ド・ヌール勲章を授かる。コッタ版全集第六及び第八巻(『ファウスト』第一部)より第十二巻まで刊行。
一八〇九年(六〇歳)
『親和力』完成。『色彩論』の稿をすすめ、『詩と真実』企画。
一八一〇年(六一歳)
十年以上断続的に研究していた『色彩論』第一巻を刊行。
一八一一年(六二歳)
『詩と真実』の執筆を始める。第一部脱稿。ナポレオンの勢力絶頂に達す。
一八一二年(六三歳)
七月、ベートーヴェンに会う。だが二人は理解し合えなかった。『詩と真実』第二部刊行。
一八一四年(六五歳)
ナポレオン敗れ、連合軍パリ入城。ウィーン会議開催。この春、ペルシャの十四世紀最大の詩人ハーフィズの『詩集』(ディーヴァン)の独訳を読み、『西東詩集』のいくつかの詩をつくる。
一八一五年(六六歳)
八月、ゲルバーミューレのヴィレマー家に五週間滞在。ヴィレマー夫人マリアンネと、ズライカ=ハーテム (『西東詩集』の相愛の男女)のような日々を過ごす。『西東詩集』の多くの作品が成る。名誉職としての国務大臣に任ぜられる。コッタ社と新全集出版の契約を結ぶ。
一八一六年(六七歳)
『イタリア紀行』第一部刊行。クリスティアーネ死す。年末、『ファウスト』第二部にとりかかる。ヨーロッパはフランス革命命にたいする反動時代に入る。
一八一七年(六八歳)
『イタリア紀行』第二部刊行。コッタ版全集続刊。宗教改革三百年祭が行なわれ、学生組合が自由と祖国愛を高唱。
一八一九年(七〇歳)
フランクフルトのゲーテ祭拝者たちから金の月桂樹を贈られ、同市で第一回ゲーテ生誕祭が催される。以後、フランクフルトをはじめ、ワイマル、イェーナ、ベルリンなど各地で、毎年生誕祭が行なわれる。『西東詩集』刊行。ベルリンのラツィウィル侯爵邸で初めて『ファウスト』上演の試みがあった。
一八二〇年(七一歳)
ブレスラウの劇場で『ファウスト』初演。
一八二一年(七二歳)
七月から八月にかけてマリーエンパートに滞在、可憐で快活な十七歳のウルリーケを知り、心をひかれる。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代、諦念の人びと』(第三巻第十章まで)を発表。
一八二二島丁(七三歳)
六月、マリーエンパートに行き、レヴェツォー家の別荘に滞在。『フランスヘの出征』、『マインツの包囲』を完成。
一八二三年(七四歳)
シラーとの往復書簡を整理しはじめる。六月、エッカーマンが初めて来訪。ゲーテの希望により、そのまま滞在。『ゲーテとの対話』が書き始められる。マリーエンバートに行き、ウルリーケに会う。ゲーテの情熱いよいよ熾烈。『マリーエンパートの悲歌』完成。悩み苦しみ、その結果、病的な状態になり、翌年までつづく。
一八二五年(七六歳)
『ファウスト』第二部に着手。十一月、ゲーテのワイマル出仕五十年記念祝賀会が祝われ、イェーナ大学より、哲学、医学、神学の学位がおくられる。
一八ニ六年(七七歳)
『ファウスト』第二部の「ヘレナ」の幕完成。
一八二七年(七八歳)
ゲーテ全集第一者から第十巻まで刊行される。「世界文学」の理念の発想。シュタイン夫人死す。前年完成した『ファウスト』の「ヘレナ」の幕を「ヘレナ、古典的・ロマン的幻想(ファウスト中間劇)」として発表。
一八二八年(七九歳)
六月、カール・アウグスト大公急逝。ゲーテ全集第十一巻から第二十巻まで刊行。『ゲーテ・シラー往復書簡』第一部、第二部刊行。
『ファウスト』第二部第一幕の仕事をすすめる。
一八二九年(八〇歳)
八月、八十歳生誕祝賀会が催され、ワイマル劇場で初めて『ファウスト』上演。『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』完結。『イタリア紀行』第三部、ゲーテ全集第二十一巻から第三十巻まで、『ゲーテ・シラー往復書簡』第三部から第六部まで刊行。
一八三〇年(八一歳)
フランスに七月革命起こる。ゲーテは、この報に接してもほとんど関心を示さず、そのころパリでひらかれた科学アカデミーにおけるキュヴィエとサンティレールの論争に刮目。種の可変性の学説に喝采をおくる。息子アウグスト、ローマで客死。『ファウスト』と『詩と真実』の仕上げに努力。『ファウスト』第二部「古典的ワルプルギスの夜」の場完成。最終版『ゲーテ全集』完結。
一八三一年(八二歳)
一月、遺言状を書く。七月、『ファウスト』第二部清書完成。『ファウスト』の原稿をまとめて封印する。『詩と真実』第四部完結。
一八三二年(八三歳)
一月、封印してある『ファウスト』を取り出しオッティーリエに朗読。その間、一月二十四日の日記に「ファウストについての新しい昂奮、一応完成させるために簡略に扱いすぎた主要モティーフを大きく完成させようとすることに関して……」としるす。三月十六日、「終日不快、ベッドに伏す」としるす。十七日、フンボルトあてに『ファウスト』についての手紙を書く。二十二日、永眠。「もっと光を!」が最後の言葉といわれる。二十六日、葬儀。柩はワイマルの大公家の暮地にアウグスト公、シラーと並んで安置される。