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平和新聞 第39回 2003年11月 徳永直 「妻よむれ」
トシヲ、お前はまぎれもなく戦死だ。この戦争で、アメリカ兵や支那兵とたたかったわけでもないのに、何万、何十万と死んでいった人間の一人だ。亭主を戦場におくり、徴用される子供を工場におくり、家族の飢えをささえるために、まずおのれが飢えて、この戦争の下敷きとなって死んでいった、たくさんの女房たちの一人だ。
「妻よむれ」は宮本百合子の「播州平野」とならんで、『新日本文学』に創刊号(一九四六年三月)から、四八年九月号まで連載された。
死んだ妻に<お前>とよびかけ、<おれ>と<お前>を主語にして、その生涯を深い思いを込めて語ったこの作品は、大正から昭和にかけて、特に戦争の時代の、日本人の生活の苛酷な現実を浮かび上がらせている。
丈夫で、結婚以来十九年間、一日も寝込んだことのなかった<お前>は、四三年九月二十日、不意にわき腹の痛みを訴えた。それから二十二カ月のあいだ、病気とたたかいつづけ、苦しい日々を送って、四五年六月三日の朝、四人の子供を残して世を去った。
戦争末期、物資の欠乏が日に日に深刻になり、やがて空襲に脅かされる日々の闘病生活だった。
「ああ、豚肉が食べてみたい」「サツマいもないかしら」と言う<お前>だったが、四四年の末には、鶏一羽が五十円、卵一粒が一円五十銭、サツマいも一貫目が十円という高値で、それを手に入れるのは容易ではなかった。四五年になると、もう、どうすることもできなかった。
「戦争さえすんだら―」と言い暮らしたが、その日を待たずに<お前>は死んだ。そして七月二十日には、<おれ>は四十九日もたたない骨壺を子供たちのリュックにしょわせて、<お前>の生まれ故郷のT町へ疎開していった。
生まれ故郷といっても、親類も縁者もなかった。<お前>にとっても辛い思い出ばかりで、結婚以来、祖母が亡くなったとき一度帰ったきりの故郷だった。その<お前>の故郷に疎開して行ったのは、「おれはT町へゆけば、お前がそこへまだ生きてるような気がしていたから」だった。
七歳で製糸女工だった母に死なれ、祖母の手で育てられたが、九歳から十三歳まで足掛け五年、乾物問屋に奉公に行き、辛い日々を送った。その後、母の死んだ製糸工場で働き、頭髪が枠の心棒にまきあげられて死にそこねる事故にあった。
一九二〇年、東京にとび出し、看護婦になった。東京に出て、自分で働いて自分の力で生きるという自信をもったが、関東大震災で故郷に帰らなければならなかった。
<おれ>と結婚したのは、東京で暮らせるということだけのためだった。そして、東京では大変な生活が待っていた。結婚早々大争議に巻き込まれ、特高に追いまわされる生活がつづいた。戦争の時代は、特高や憲兵と切っても切れない関係のくらい日々だった。
しかし、戦争は終った。特高も憲兵も解散させられた。その明るい戦後の光のなかで、くらい時代を生きた<お前>の生涯が、いっそう心に沁みて思われる。
「お前はくらがりのなかで生きてきた。死ななかったから生きていた、というような生涯を生きてきた」「金ピカとサーベルが、永久不変のものではないということをよくは知らずに死んでゆく」
戦争の犠牲になって死んで行った多くの妻たちの一人として、その生涯をたどりながら、作者の心は悔恨にくれ、熱く燃え、はげしく揺れ動くのである。
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