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無痛文明論 森岡正博著
管理とせめぎあう生命の「よろこび」
本紙掲載2003年11月16日
これは異様な本である。正気と狂気の狭間(はざま)を擦り抜けるような異様な書法による大冊だ。
主題そのものはそれほど新奇的ではない。命の営みに欠くべからざる「痛み」を除去しようとする文明の傾向を批判する思想や文学作品はこれまでもあった。だが批判の多くは、痛みの欠如に対する違和を「受苦(パトス)」の倫理に解消していた。森岡正博の無痛文明論は、そうした伝統とはまったく趣を異にしている。
森岡は、先進諸国における文明と心身の状況を、「身体」と「生命」とが鬩(せめ)ぎ合う戦場として描き出す。「身体」は痛苦を避け、快適を求め、他者を犠牲にしても安逸を貪(むさぼ)ることを欲する。すきあらば拡大増殖し、安楽という目的のために自他の生を管理しようとする。かかる「身体」の欲望こそが世界を無痛化し、私達(たち)をその環境に適応させる根本動因なのだ。
「身体」に対置される「生命」は、無根拠な、予測できない未来へと、他者へと、立ち向かおうとする力動だ。「生命」は、不測のこと、未知なるものとの接触によって自己像が解体し、変容していくことを促す。そのプロセスには当然痛みが伴うけれども、やがて予期もしなかった「よろこび」が訪れる。生成変化の歓喜、生長する生命そのものになりきる愉悦だ。現代の思潮を覆う功利主義や機能理論、経済思想への徹底した批判的視座がここにはみえる。
本書は徹頭徹尾、この「生命」対「身体」の善悪二元説によって貫かれている。何故(なぜ)にかくも見易(みやす)い、単純な図式を手を変え品を変えて、執拗(しつよう)に繰り出すのか。思想に知的洗練を求める読者ならば、うんざりするところだろう。
だが、森岡は明らかに意図的に、そうした洗練を拒否している。思想に用意周到な叙述を求めること自体が無痛文明の詭計(きけい)に嵌(はま)っている証左だといわんばかりに。結果として、論考全体が奇妙な生動感と実存的緊張に満たされた。
全体の構想は受け容(い)れ難くとも、各論において示される安楽死や尊厳死、選択的中絶などの倫理問題、トラウマを「いまふたたび生きなおす」カウンセリングやセラピーの有害性の指摘、自然のテクノロジー化に無自覚なエコロジーへの批判など読むべき点は数多い。あるいは恋愛論や子育て論、さらには動機のみえない犯罪や人格病理、逸脱行動に、新たな光を当てる社会学として「流用」できる可能性すら秘めている。
が、それらは所詮(しょせん)、例示や傍論に過ぎない。自分の卑しい内面を曝(さら)け出してまで、森岡は言表以上の何かを伝えようとしている。「私の死」に論及した第7章に根本の動機が書かれている。「死」は森岡の思想の動機であると同時に、無痛化の流れに抗する最後の砦(とりで)なのだ。
「あとがき」冒頭に、「この本を書くために生まれてきた」とある。私もこの異様な本に呼応するために生まれてきたような気が一瞬した。
評者・宮崎哲弥(評論家)
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トランスビュー・451ページ・3800円/もりおか・まさひろ 58年生まれ。大阪府立大教授。著書に『生命学への招待』など。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4670