現在地 HOME > 掲示板 > 地震・天文10 > 282.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: イランで強い地震、死傷者2万人に達す恐れ 投稿者 珍米小泉 日時 2003 年 12 月 26 日 20:53:11)
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/19990927sc22.htm
「砂漠のエメラルド」――。いつのころからか、バムはこう呼ばれる。豊富なわき水と強烈な日差しを利用し、古来、ナツメヤシやオレンジなどの生産が盛んだ。イラン南東部ケルマン州の州都ケルマンから車で二時間。こつ然と姿を現したバムは、まさに砂漠の中に浮かぶ緑の島だった。
緑が生い茂る果樹園を抜けると、黄土色の壁がいきなり立ちはだかる。バム城の城壁だ。南門をくぐって高さ十二メートルの城壁に立つと、殺伐とした廃虚群が圧倒的な迫力で目に飛び込んできた。
バム城の広さは、南北五百五十メートル、東西四百メートル。周囲を厚さ六メートルの城壁に囲まれ、領主の居城と集落から成る城塞(じょうさい)都市だ。築城の正確な時期は不明だが、アルサケス朝パルティア王国(紀元前二四七年〜紀元二二六年)の時代との説が有力だ。その後、拡張・改修を経て、現在の形になったのはサファビ朝時代(一五〇一〜一七三六年)とされる。
集落跡の通路は、迷路のように複雑に入り組んでいた。住居数は約四百戸。標識に従って歩いても、バザール(市場)や学校、モスク(イスラム教の礼拝所)などを探すのに一苦労だ。
建物はすべて、日干しレンガを積み重ね、粘土で固めただけの簡素な構造だ。それでも、雨がほとんど降らない乾燥気候が、風化を最小限に防ぎ、二千年の歳月から城を守ってきた。現存する同種の城としては、「おそらく世界最大の規模」(管理責任者、ホセイン・タヤリさん)という。
「バムは、中国に至るシルクロードと、インドに至るスパイス(香辛料)ロードに位置する交通の要衝として、異民族攻防の舞台だった」(モハンマドエブラヒム・バスタニパリジ・テヘラン大歴史学教授)。
城は、トルコ人やモンゴル人、アフガニスタン人など、夷狄(いてき)の侵攻を防ぐ辺境の砦(とりで)で、最盛期には五千人の人口を抱えていた。ところが、武器の主体が弓矢から鉄砲に移り、砦としての機能が低下、約百五十年前までに全住民が去って「死の町」と化したという。
そのバム城が、最近、再び脚光を浴びている。ハタミ・イラン大統領の提唱で、国連は二〇〇一年を「文明対話の年」に指定。これを受けて、城に隣接する新市街で、文明間の交流をテーマにした国際会議が開かれることになったからだ。イラン政府は、“砂漠の文明”バム城を歴史遺産として世界に売り出すため、会議場や宿泊施設の整備を進めている。
岩場に立つ領主の居城に入る。馬小屋や兵舎を見ながら石畳を上ると、応接間「チャハル・ファスル(四季の意味)」に出た。東西南北の方角を向いた四つの窓から吹き抜ける風が心地よい。眼下に広がる廃虚を眺めながら、この地で繰り広げられた歴史絵巻や行く末に思いをはせるうち、汗がすっかり乾いてしまった。
(文と写真 佐藤 秀憲)
[メモ]
バム城は、午前7時から午後7時(冬は午後4時)までオープン。入場料は15000リアル(約500円)。テヘランからバムへ、国内便が週4便運航されている。8月末に開業したアザディホテルなどで宿泊も可能。問い合わせはアザディ国際観光協会((電)98・21・8732191)へ。
(1999年9月27日 読売新聞 無断転載禁止)