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「悪の帝国」イメージから「共存」へ動いた 米国マイクロソフト副社長 古川 享さん(49歳)
http://www.be.asahi.com/20031129/W11/0019.html
ビル・ゲイツ会長の懐刀だ。
9月末、世界を驚かす事業提携を、東京で発表した。
パソコン用基本ソフト(OS)のウィンドウズで君臨する巨大企業が、80年代には「敵」とみられていた日本製OSのトロンの陣営に加わる――。
トロンの生みの親、坂村健・東大教授と話をまとめ、ゲイツ氏を説得したのが、この人だ。
携帯電話、家電などに幅広く組み込まれるトロンとウィンドウズが連動する仕組みを、日本の電機大手などのグループと、共同開発するというのだ。
「もう勝ち負けでなく、みんなで儲(もう)けようという共存意識を示す絶好の舞台だ」
ライバルを蹴散(けち)らしてきたのに、なぜいま、共存なのか。
パソコン依存からの脱却、組み込みOSの開発費削減……。
業界にはそんな推測もある。でもこの人は今回の提携で、「マイクロソフトは悪の帝国」との風評を覆すつもりなのだ。
■ ■
日本法人を18人で設立したのは86年、32歳の時だった。
ちょうど、パソコンがマニアの玩具からビジネス道具に変わりつつあった。「企業の深奥部に置かれる大型コンピューターを人間の五感を広げる道具に」という未来像を抱き、出版社アスキーの役員から独立した。
年18回の渡米など、社長業は激務だった。4日徹夜してつくった予算書を手に、米国本社に説明に出向くと下血。「死ぬかもしれない。中止にして」とゲイツ氏に訴えたこともあった。
「OSが米国製でも、応用ソフトや周辺機器は、どの国のどのメーカーが作ってもいい。日米の懸け橋になれれば」
そんな思いが、猛烈な日々を支えていた。
日本でのOS販売が軌道に乗った91年、「0から1にするのは得意だけど、1を100にするのは苦手なので」と会長に退く。37歳、髪は真っ白だった。
その後の業績急伸に、社内は「勝てば官軍」ムード。だが、世間からの企業イメージは悪化していく。「なぜ」という悔しさを抱いたまま00年、米国本社に転じ、ゲイツ氏直属チームの中核として技術戦略を担う。
■ ■
頭の中は、夢でいっぱいだ。
携帯電話、パソコン、留守番電話、ファクス……。たとえば身の回りには、メッセージを受け取る機械がいくつもある。それぞれを制御するOSはマイクロソフトのものばかりではない。いろんなOSが併存する。
でも使い手にとって大切なのは、メッセージを早く、ちゃんと受けることだ。いつでも、どの機械からでも、必要なメッセージを取り寄せられたら、どんなに素敵(すてき)だろうか……。
「機械を使う人々が、OSを意識しない世界にしたい」
そんな製品をつくれば、「勝って憎まれる」企業から、「使い手の良きパートナー」企業になれる、と考えている。
トロンへの歩み寄りは、その「はじめの一歩」だ。
■選べないのは不自由。トロンと長所を生かしあう
――基本ソフト(OS)トロンとの提携では、仕掛け人ですか。
古川 青写真を描いたのは日本法人のスタッフです。僕はビル(ゲイツ会長)の了解をとり、トロンをつくった坂村(健・東大教授)先生に話をつけに行っただけ。OSという核心部の提携にビルがどう反応するかと思ったら、「とてもエキサイティング」と。
■坂村氏は「理解」
――歴史的和解とも言われた。
古川 誤解です。敵対していたわけではない。89年、米国政府はトロンを貿易障壁のリストに入れた。仕掛けたのはマイクロソフトではないが、結果的に利を得た。しこりがあるといけないので、この夏、坂村先生に「トロンが採用されると困る省庁やメーカーがあったのでは」と説明した。すると「わかっていますよ」と言ってくれた。はじめは2人ともぎこちなかったけど、昔書いたプログラムの話になって、「互いにものづくりの人間だ」と和みました。
――提携の意味は何ですか。
古川 すばやい処理能力はトロン、周辺機器への表示などはウィンドウズ、とそれぞれ得意分野がある。うまく足せば、使い手には良い環境ができる。自動車では、トロンがエンジン制御に、ウィンドウズがカーナビに使われる。両者間で情報をやりとりできれば、エンジン情報をカーナビに表示できる。パソコン以外の新しい市場が広がります。違うOSを同一基盤で動かす技術的挑戦にもなる。
――協調主義に変わった?
古川 OSには家電、携帯電話、自動車向けもあり、パソコン向けは全体の1割未満。すべて独占は無理なんです。もともと、人間のためのコンピューターを考えてきた企業です。確かに「相手を打ち負かせ」の時期もあったが、原点に戻ったとも言えます。
――古川さんのそんな考え方の原点は何でしょうか。
古川 72年、麻布高校時代の制服闘争かもしれない。学校側が機動隊を呼んでロックアウトした。上の世代は「権威を壊せ」と制服を廃止して私服に、と叫んだ。でも僕らは制服でも私服でもいいから選べるようにしてほしいと戦った。選べないのは不自由という考えです。コンピューターでも当時は、巨大なコンピューターに各端末が従うシステム。端末が独立して自由につながりあうのが理想だと思っていました。
――なぜ、この業界に?
古川 小学生のころから鉄道やカメラに興味をもち、そこにコンピューターが出てきた。大学時代はパソコン欲しさに、「ハンダごて一本さらしに巻いて」海を渡った。米国の西海岸ではパソコンビジネスが立ち上がり、僕より若い人が「社長」と名乗っていた。そんな情報を日本企業に売ろうとしたら、西和彦さん(アスキー創業者)に「10万円もらっても、後で1億円の仕事をしたとき、一生恩に着せられるぞ」と忠告された。結局、アスキーの8人目の社員になったけど、方向性の違いから飛び出し、マイクロソフトの日本法人を立ち上げたのです。
――米国本社ではいま、どんな立場なのですか。
古川 本社の9割以上が、バルマー最高経営責任者の実行部隊で、明日何をやるかを考える。それ以外をビルが率い、中長期的な戦略を練るが、僕はビル直属の上級副社長のすぐ下。副社長は社全体で約100人います。
――どんな雰囲気ですか。
古川 意外と無邪気で、年2度の幹部会では、真剣にゲームに興じる。たとえば米国でも人気のテレビ番組「料理の鉄人」。12人が2組に分かれ、目の前の食材でレシピを作って交換し、相手チームの料理を作る。いろんなことがわかります。中途半端な仕様書で引き継がれた身になってみろ、とか。
■スキありは悪い
――依然、製品トラブルやウイルスも問題視されていますが。
古川 パソコンは使い手の環境次第で、トラブル原因の特定は難しい。ワープロのように発展性がないならトラブルは少ないでしょうが、マイクロソフトとしては使い手にいろんなことをしてもらいたい。負担をかけますが、更新作業をお願いしていくしかない。ウイルス問題も申し訳ないと思います。ただ、ウイルスは「悪」として裁いてほしい。スキがあるのはこちらが悪いが、それを悪用する者を英雄視するのは許せない。
――それでも儲(もう)かってますね。
古川 その結果が「悪の帝国」。技術やビジネス力で勝ったつもりなのに憎まれ、恨まれる。徒労感があります。負のイメージをぬぐい去ろうという意思は社内にもある。と、言っても、信じてもらえないかなあ。
――信じないでしょうね。
古川 各社が互換性のないシステムを作っていたところに、ウィンドウズが互換の概念を持ち込んだ。ただ、黒衣であるべきOSの機能がずっと議論されてきたところに問題がある。どんな音楽をどう聞くかが大切なのに、機械の性能ばかり追って袋小路に入ったオーディオ業界のようになってはいけない。OSは黒衣に徹し、使い手が望むサービスを提供したい。実はビル・ゲイツも機能重視の傾向がある。デザインとか文化に頭が回らない。大人の会社に脱皮するため、使い手本位の考えをビルに吹き込むのも僕の役目です。
■僕が重しになる
――だからトロンと提携した?
古川 日本のためでもあります。日本が強い家電や自動車の分野にもいろんなOSがすでに組み込まれている。これは、日本企業が再浮上するチャンスです。
――うまい汁だけ吸おうとしているんじゃないですよね。
古川 僕がいることが重しになっているかな。もし、変なことをするようなら、マイクロソフトを辞めて戦う覚悟はありますよ。
編集部・野波健祐(のなみけんすけ)
◆ 転機 ◆
ビル・ゲイツがいきなり現れ、謝った
「もう、辞めようか」
ベンチャーから育てたマイクロソフト日本法人に90年代末、「勝つことがすべて」の風潮が漂い、嫌気がさした。社会とコンピューターの接点をもっと探り、障害者向けの基本ソフトなどを支援する評論家にでもなるか、と思った。
00年初め、米国本社で、上司に辞意を伝えている最中のことだ。
ビル・ゲイツ会長(48)が突然、ずかずかと入ってきた。グチャグチャに紐(ひも)を巻きつけた、しわくちゃの汚い包みをポーンと放り出した。
「開けてみろ」
自社の株券15枚を飾ったアクリルの盾。マイクロソフトの一員になって15周年を祝う品だった。
「サム……」
ゲイツ氏は、「すすむ」の名から転じた呼び名で切り出した。
「この2、3年、おまえの才能を生かせなかった。おれの責任だ」
70年代末、アスキーにいたころからのつきあいだが、頭を下げられたことなどない。その彼が謝っている。びっくりした。いかにも慌てて飛び込んできたかのような、いいかげんな紐の結び方にも、つい、ぐっときてしまった。
「シアトルに来い。ここでしばらく会社を見渡し、人脈を作れ」
早急に結果を求められた日本法人の仕事には疲れていた。誘いに応じ、米国本社に移ることにした。
阪神甲子園球場が20以上も入る米国本社では、2万7000人が働いていた。コンピューター史を彩る人材があふれていた。
いまはなき大手メーカー、ディジタル・イクイップメント(DEC)の開発者が、人の生涯の全情報をデータベース化するシステムを作っていた。ゼロックスで世界初のレーザープリンターを作った人物が、超巨大な薄型ディスプレーの開発にあたっていた……。
この業界を深く知る年上の先輩たちが、はつらつと働いていた。
「あなたほどの人が、なぜここに?」と聞いて回った。
「技術を尽くした商品で、人が喜ぶのを見たい」
彼らの答えに、「まだ、この会社でやっていける」と思った。
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★経歴 54年東京都生まれ。和光大学中退。アスキー役員、マイクロソフト日本法人社長、会長を経て、00年4月から現職。
★家族 妻と15歳の息子は国内に残し、単身赴任。
★趣味 米コロラド州で蒸気機関車を走らせる非営利組織などに3億円以上のお金をつぎ込む。シアトル郊外の自宅の地下室では、機関車が走る情景の大模型を製作中。
★マイクロソフト 本社はシアトル郊外のレドモンド市。02年7月〜03年6月の売上高は321億ドル、純利益は99億ドル。
★トロンとの提携 国内外の約300社が参加する「T‐エンジン・フォーラム」(座長・坂村氏)の幹事会員に