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ケータイを持ったサル・・・サル化する日本社会
公の場を拒否して、私的世界の中だけで生きる若者
2003年11月14日 金曜日
◆ケータイを持ったサル・・・サル化する日本社会
http://blog.readymade.jp/tiao/archives/000369.html
ケータイがある生活が一般的になってから数年が経過している。このコミュニケーション革命は、インターネット以上に大きな影響を社会へ与えている。これまではITの技術論や社会学的なネットワーク、コミュニケーションからのアプローチで語られてきたこの変化は一体何なのか・・・?
ネットでのコミュニケーションも今やケータイ世代がその中心に座って、さまざまな分野での変化を感じている。ぼくにとっても、つながる機能をもったweblogという道具がなぜ日本ではつながらないのか・・・、とかいろいろ考えることが多い。パブリッシングとコミュニケーションとしてそれを考えたこともあったが、なかなか上手く説明できない。
■ケータイを持ったサル・・・人間らしさの崩壊
そういうことを何となく考えながら、今朝も事務所へ向かう途中のコンビニで週刊誌の立ち読みをしている時に、この本の書評に出会った。週刊朝日10/31号の121P、評者はエッセイストの岸本葉子さんである。
普通、本の紹介は自分で読んでから行なうものが正道であるのは知っているが、これから本屋へ行き、購入して、読んでいたのでは数日後になるので、ズッコして、書評の紹介というお手軽な方法を採用。
「ケータイを持ったサル」の著者は、正高信男さんといって京都大学霊長類研究所の教授である。つまりサル学者としての研究と知識を総動員して、ケータイ世代の行動を観察し、分析しているのだ。
ケータイ文化とサルのコミュニケーションの類似性が指摘され、タイトルからの期待を裏切らない、らしい(・・・未だ読んでない)。
いくつかを紹介すると・・・
▽十代の行動を貫く原理を「家(うち)のなか主義」と命名
・・・・いつでもどこでも「家のなか」感覚でいたという願望の現れ(地べたに尻をついて座る/外で平気でものを食べる/靴のかかとを踏みつぶすスタイル)。
・・・公の場を拒否して、私的世界の中だけで生きようとする。
▽ニホンザルがよく群れの中で声を交し合うのは、相手と空間的に離れたときで、それには「危険、要警戒」というメッセージが含まれているのではなく、仲間との一体感を確かめ、安心するため・・・。
▽ケータイ文化は、他人との信頼関係を築きにくくし、かつて啓蒙主義者が呼んだところの、「万人が万人を敵とみなす」始原的な状態へ、人を引き戻す。
などなど、書評を読んだだけで思わずうなずく鋭い指摘が書かれている、らしい。
こうした変化は、実はケータイの登場と共に始まったのではなく、単にそれが加速され、顕在化しただけで、その根本は日本に母子密着型子育てが定着したことによると分析し(ニホンザルの子育て)、文明の成立以降、子どもが主に親によって育てられる時代が始まったのは、実はつい最近のことで、それ以前は高齢者、すなわち祖父母が担っていたことが人類学者による世界各地の調査などからもわかっている、そうだ。ウゥム、常識がどんどん覆されていく。
日本人のサル化は、過去百年(つまり近代社会の成立から後)にわたる日本の家族の変化がもたらす歴史的必然、とまで著者は言い切っている、らしい。
著者個人としては、「もっともっとサルに近づいた人間が社会にあふれるのを見てみたいと願っている」、そうである。
そうしたサル化した日本人のコミュニケーションを実際に見てみたい方にお薦めのサイトは、ここ。
ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121017129/ref=ase_asyuracom-22/250-5533917-1671403
◆増殖するバカ (2003.7.14, rev.2003.11.1)
http://www3.starcat.ne.jp/~nisak/baka.html
最近発生してきて、これからも増えそうな将来性のあるタイプのバカは、家の外も内もない、ハレもケもない、すべてが日常のノンベンダラリ型である。その代表選手は、化粧組とケータイ組。電車に乗って座るや否や、デカい鏡を取り出してチョコマカ化粧を始める。まつげカーラーで細工している手の込んだのもいる。電車が急停車でもして、いっぺんカーラーで目ん玉挟まれてみい。
携帯電話自粛の表示などあってもなくても関係なし。「これは携帯電話とは違う、ケータイだもんね」とばかりに、座席にすわった途端、ふたを開くケータイ組も似たようなものだ。大抵の場合、たいして重要でもないメールを見たり書いたり削除したりして、時間を浪費しているに過ぎないのだが、もとより本人には浪費したという感覚はない。書くのも登録されたひな形文章をつなぎ合わせてすませてしまえば、時間が節約できて効率的だった、という感覚である。これが最近いい年したオバハン、オッサンにまで拡がってきた。ケータイを取り出して画面を見る手つき・目つきは、化粧鏡を取り出して見る手つき・目つきとそっくりだ。いずれも自分と自分の身のまわりにしか関心を示さない点で、ケータイ組と化粧組は親戚のようなものだろう。四六時中ケータイ画面を見ていると前頭葉のはたらきが衰えるという説もある。自分の頭で考えないバカが増殖するはずだ。
ぼくのいつも乗り降りする地下鉄のターミナルには、大学のスクールバスが入ってくる。降りてくる学生の顔を見ていると、これが大学生かとほんとに情けなくなる。ふぬけたというか、覇気がないというか、とにかく勉強しよういう顔ではない。たまに別の大学キャンパスの近くに行くと、まあ学生の雰囲気を感じるのも多いので、一応ほっとするのだが。
ほんまにバカが多くなったわいと、悪態をつきまわっているうちにだんだんアホくそうなって、怒ってる自分もアホにみえてくる。ある作家が今の世相を、「自分以外はバカの時代」(*2)て言うとったが、その自分もアホやったら、一億総バカかアホちゅう勘定や。いやほんまに。あほみたい。
その後、「ケータイを持ったサル」(正高信男: 中公新書 2003.9)という書物が出版された。ケータイ族の行動は、「公の世界を拒否して、私の世界の内部にだけで生きようとするあまり」サルに酷似しているそうだ。著者は霊長類コミュニケーションの専門家であり、その所論は耳を傾けるに値するだろう。著者の所論のベースになっている「コミュニケーションのサル化」に関する考えは、京都大学霊長類研究所ホームページの中の「ことばの進化」で読める。
ケータイ族は霊長類だとしても、多分サピエンス種(Homo Sapiens=知性人)ではないのかもしれない。ましてヒト属ではなく、ケータイ属だとすると、やたら地べたに座り込むなどサルに似た奇矯な行動も多少は理解できなくもない。彼等とコミュニケーションをとるためには、ヒトの言語とは異なる言語を用いる必要がでてくるとすれば、厄介な話だ。
(私のコメント)
本屋の店先に積んであった本の中に「ケータイを持ったサル」と言う本があった。面白い題名なので読んでみましたが、最近の若い人がケータイにのめり込む背景について書いてる本です。そこから、なぜ日本の小中高生達がサル化してしまったのかがわかる。結論を言えば大人が悪いのですが、日本の若者がサルに退化してしまったのは戦後からだ。
それでも戦後20年ぐらいは戦前に生まれ育った世代が多かったから、サル化の傾向は少なかった。都市化と核家族化が本格化してその世代の子供が育ってきた頃から日本人はサル化してきたように思う。著者の正高氏は京都大学の霊長類の研究家ですが、日本の若者の生態を分析するには、サルや霊長類を観察分析している方法が望ましいのだろう。
私は日本の若者がどうして急激におかしくなってしまったのか、原因はよくわかりませんでしたが彼らをホモサピエンスとは見ずに霊長類として見れば納得が行くことが多い。集団でいるとワイワイガヤガヤ騒々しいのに、一人で公の場に出ると何も話せなくなる現象は、小中学高校生が従来の人間のコミニケーション手段とは異なる手段で意思を伝え合っているからだ。
実際彼らの話していることを聞いてみても何を話しているのかがわからない。あまりにも感覚的な言葉が多すぎてテキストに出来ない。サルの集団が奇声を発し合って仲間との一体感を感じるのと同じなのだろう。それでも戦後しばらくは実社会で教育しなおされてまともな人間になれたが、最近は会社に就職しても直ぐにドロップアウトしてしまう若者が多い。
霊長類として育った若者は、少なくとも10年ぐらいは会社や軍隊のような組織社会で訓練されなければコミニケーションすら出来ない霊長類で終わるのだろう。最近ではフリーターとか引篭もりといった生態は人類がサル化してしまった証拠である。なぜ最近の家庭は子供を人類としてではなく霊長類に育ててしまうのか。その原因は戦後の文部省教育と家庭教育に責任がある。
文部省はともかく、家庭教育は従来は祖父母が子供を躾けてきたが、戦後のGHQの指令により大家族制度が崩壊し、核家族となることにより親が子供の躾を担うようになった。しかしそれは物理的に難しいことだ。両親は働いて生活費を稼がねばならず、従来は子供の躾けは祖父母が担ってきたのだ。
私が育った環境も家には祖母がいた。私は祖父母が同居していた最後の世代だ。しかしそれ以降、核家族が一般的になり、祖父母達は故郷の田舎で子や孫から見捨てられて生活している。つまり孫を教育してくれるはずの祖父母は社会からスポイルされているのだ。
テレビでは毎日のように青少年による凶悪犯罪が報道されている。件数としては減ってはいるのだが平気で親を殺し、自分の子を殺す事件が多い。マスコミはこの原因を掴みかねているようだが、核家族化が子供の躾を出来なくしている原因であることを何故指摘しないのだろうか。あるいはマスコミもサル化が進んでしまっているようだ。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu58.htm