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丹那トンネル殉職碑からのメッセージ [駅弁地理学/野々村邦夫]
http://www.asyura2.com/0311/ishihara7/msg/336.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 2 月 21 日 20:20:39:dfhdU2/i2Qkk2
 

<弁当データ>
伊東駅
鯛どんたく(株式会社祇園)
680円(税込)
2月1日、熱海から伊東まで足を伸ばして。


これまで何かの用事か遊びで旅行をする機会はいろいろとあったが、回数的には、東京から西へ行くことが圧倒的に多かった。その場合、東海道新幹線の開通前は東海道本線を利用することが多かったのは当然として、最近でも、夜行列車や鈍行列車で東海道本線のお世話になることは多い。そのとき通過する丹那トンネルの掘削が大変な難工事であったことは、子供の頃に父から聞かされた。列車が通過するのに5分間かかるから、このトンネルのことを「5分間トンネル」ともいうと、やはり子どもの頃に母から聞いたような気がする。トンネル工事を担当した熱海線建設事務所の初代所長が母方の縁戚になるということは、やや後に知った。そんなこんなで、数あるトンネルの中でも丹那トンネルには、かねて特別の感情を持っていた。

吉村昭著「闇を裂く道」(文春文庫)は、丹那トンネルの起工から完工までの史実に基づいた記録文学である。著者の作品は、丹念に事実を掘り起こして書かれていることで定評があるが、この作品も、この種のものとして第1級と思う。丹那トンネルに特別の感情を持つ私が、感動を伴いながらこれを非常に興味深く読んだことは、もちろんである。

丹那トンネルの開通は、我が国の土木史を飾る画期的な出来事だ。当時「プロジェクトX」というテレビ番組があったなら、真っ先に取り上げられたことだろう。しかし、成功の影には、度重なる死傷事故やトンネル掘削が誘引となった農地の渇水問題など、多くの困難や犠牲があった。「闇を裂く道」では、トンネル技術者たちの真摯な生き様をクールに描くとともに、光の部分よりも影の部分に多くの紙面を割いている。

本文の最後には、「あとがき」がある。そこに、こう書かれている。「静岡新聞から連載小説の依頼をうけた私は、なにを素材とした小説を書こうか思いあぐねていたが、寺での墓参の帰途、普通電車で熱海にむかう途中、右手の沿線に立つ碑が視線をかすめ過ぎた。大正七年に起工し、十六年を費やして完工した旧丹那トンネルの殉難者の慰霊碑で、私は、ほとんど瞬間的に、このトンネル工事の経過とそれに付随した事柄を書くことをきめた。もしも、顔を左に向けていたら碑を見ず、この小説を書くこともなかったはずである」(前後略)

「闇を裂く道」を読んでから何十回となく丹那トンネルを通過した私は、著者のように車窓からその慰霊碑を見たくて、熱海側の洞口付近を通過するときは、それを捜し求めた。しかし、発見できなかった。著者が記している海側のほか、念のため反対側の山側も見てみたし、新幹線で新丹那トンネルを通るときも、それらしきところに注意を払った。それでも、慰霊碑はなかった。そこであるとき、トンネルの洞口のすぐそばの伊東線来宮駅で途中下車してみた。駅前にある観光案内板の地図を見ると、確かに駅のそばに慰霊碑があることが分かった。そのときは時間がなかったので、いずれまた来ることにした。

去る1月31日土曜日、恩師の喜寿のお祝いをするため、約20人の仲間とともに湯河原の温泉旅館に1泊した。お招きしたのは、東京大学と芝浦工業大学で河川工学を教えて来られた高橋裕先生。泊り込みでの祝賀会というので、参加者は、大勢の教え子の中から、特に親しく指導を受けた者として幹事が絞り込んだ者たちである。私以外はすべて、工学部で土木工学(建設工学)を専攻した者たち。私のように理学部から押しかけて講義を聴いたり卒論や修論の指導をしてもらったりした者は、例外である。

楽しいお祝いの宴が行われた翌日の日曜日、朝食後に解散となった。その日特に予定がなかった私は、湯河原まで来たのを幸いに、かねて見たいと思っていた丹那トンネルの慰霊碑を1人で見に行くことにした。高橋先生は、河川工学の第1人者ではあるが、その学風は、専門分野に閉じこもらず、広く自然、人間、科学、技術のかかわりを総合的に見据えたものである。その一環として、土木史についても相当の研究業績があり、その成果を物語風に聞かせていただいたことも、私の学生時代の楽しい思い出の1つである。そんな先生の喜寿祝いの後に、丹那トンネルの史跡探訪とはなかなか洒落ている、という気もした。

来宮駅で下車し、案内板の地図を頼りに慰霊碑まで歩いて行った。慰霊碑は、梅園の入り口の近く、丹那トンネルの洞口の真上にあった。「闇を裂く道」の「あとがき」とは違うところのようである。「あとがき」の末尾には、昭和62年初夏と書かれているから、その後何らかの変化があったのかもしれない。

その慰霊碑は、石にはめ込まれたブロンズ製のもので、直立した部分の前面に、テーブル状の部分が取り付けられている。直立部分の中央には「殉職碑」という文字があり、その両脇には浮き彫りの絵が描かれている。手前のテーブル状の部分には、殉職者67人の氏名が縦書きで、17名、17名、17名、16名と、4段に記されている。

右側の絵は、男が岩に向かってノミを振るっている姿である。足元には、鳶口が置かれている。左側の絵は、男が削岩機を岩に突き立てている姿である。ノミを振るっている男は、帽子をかぶり、上半身裸、長ズボンにゲートル、地下足袋というかっこうだ。削岩機を操っている男は、頭巾、ベルトつきのコート、長靴というかっこうだ。単純労働者と、当時としては最新鋭の機械を操作する技術者との違いが、いでたちにも現れているのかもしれない。

この殉職碑に表されているものは、以上ですべてである。説明文などは何もなく、文字としては、「殉職碑」のほか、殉職者の氏名が記されているのみである。実物の慰霊碑を目の当たりにして感動を覚える一方、情報としては「闇を裂く道」で読んだこと以上のものは何もない、というのが第一印象であった。67名という殉職者の数も、「闇を裂く道」に書かれているとおりである。

そう思いながら殉職者の氏名を1人ずつ読んでいった私は、そのうちに一種の衝撃を覚えた。「闇を裂く道」では直接言及されていない情報を得たのだ。殉職者の氏名の中に、季春伊、李且鳳、金炳泰、明東善、李賢梓、孫壽日、金芳彦という、朝鮮半島出身者と思われる姓名を見出したのだ。犠牲者67人の中の、1割に当たる7人という数である。

実は、「闇を裂く道」の中に、殉職者の氏名の一部が記載されている。その中には、「福本伯太郎(金白竜・28歳・朝鮮慶尚北道)」というのもある。延べ250万人という工事従事者の中に、どれほどの朝鮮半島出身者がいたのかは分からない。全体の数から見れば不運な一部の人たちであるが、殉職者の中の1割を朝鮮半島出身者が占めているということに、衝撃を覚えずにはいられなかった。

今日の日本が、さまざまな形で、多くの犠牲の上に築かれてきたということは、今更言うまでもない。例えば、戦争犠牲者は、その典型である。インフラ整備の上でも、多くの犠牲者が出た。それらの方々が、狭い意味での大和民族に限らないということは、留意しておく必要がある。先の大戦において玉砕した特攻隊員の中にも、朝鮮半島出身者がいた。67人の中の1割が多いか少ないかという議論をするよりも、そのようなことが近代日本における普遍的な事実であり、丹那トンネルもその例証の1つであると認識したほうがよいのかもしれない。

http://www.asahi.com/column/aic/Thu/d_geo/20040219.html

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