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既に、「HP管理者から」No.106において、古川氏等による著書『有明海異変』を紹介しておりますので、ご存知の方もいらっしゃるものと思います。同著書の発刊を契機に、名城大学の槌田氏を介して昨年末より古川氏と連絡を取るようになりました。古川氏は、佐賀県にお住まいの自治体職員で、玄海原発反対の市民団体にも参加されています。
一方、本HPにおいて、§2現状分析の『公共事業』について、連載を始めていたのですが、私の力不足で、長らく休眠状態が続いています。その中で、不十分な内容ですが、分析を進めるうちに、環境問題における公共事業の主要な問題点の一つが、生態系における物質循環の担い手である、水循環の破壊だということに到達しました。
そのような折に、幸運にも古川氏等の著作に触れることが出来ました。『有明海異変』では、単に諫早湾潮止め堤防の締め切りという『事件』だけではなく、そこに至った有明海・諫早湾の集水域で行われてきた、ダム建設をはじめとする、近代的な公共土木事業による水循環の改変による影響にまで言及し、地表水から沿岸海域に及ぶ総合的な水循環の異変の情況を、現実に即して分析が行われています。
有明海・諫早湾の事例は特殊なことではなく、たとえ今はまだ顕在化していなくても、全国各地で進行している、普遍的な問題だと考えられます。そこで、有明海・諫早湾の事例を出来る限り科学的かつ冷静な視点から分析しておくことは、この国の水をめぐる公共事業の現状を総括する上で、大変重要だと考え、古川氏にお願いして、諫早湾潮止め堤防締め切り後の状況について、レポートを連載していただくことになりました。
多忙である古川氏に無理を承知でお願いしておりますので、不定期の連載ということになると思いますが、有意義なレポートになるものと考えます。また、自然科学的な考察だけでなく、古川氏は有明海周辺の民俗学的な話題についても造詣が深く、私自身、大変楽しみにしています。尚、併せて『有明海異変』をご覧いただければ幸いです。
(近藤)
T 有明海・不知火海の再生を目指して
1 はじめに 20040126
2 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部 20040128
3 雪が降るとノリが採れる 20040211
4 *
1.はじめに(20040126)
厳密に言えば、有明海に多くの変調が起こりはじめて久しいのですが、今や、私ばかりではなく漁民や地域住民の多くまでが農水省の「諌早湾干拓事業」が始まって以来この変調がめだって大きくなり、また、ほとんど元に戻らなくなってきたと言いはじめています。もちろん、怒りと悲しさを抑えて冷静に議論すれば、「諌早湾干拓事業」だけが原因であるはずはありません。しかし、かなりの病気を抱えた老人を車で撥ねた者がいたとしたら、その不注意な(実際は飲酒運転のような重過失か未必の故意かもしれないのですが)ドライバーは責任を追及されないのでしょうか。もちろんそんなことはないはずです。簡略化すれば「諌早湾干拓事業」とはそのようなものだと思うのです。少なくとも昔の有明海を知る人にとっては海の変調は極めて明瞭なのであり、決定的なとどめをさしたのが「諌早湾干拓事業」に見えるのです。
ただ、日本列島の中央部に住む人々から見れば、この有明海という存在も所詮は辺境の海でしかないはずです。このため、実際にはそれほど注目されることもなく、私たちが願うほどの関心を継続して持たれることもありません。しかし、これが他の地域に先行して起こっている先駆的な事態の「まえぶれ」だとすると、今は目だった変化がない他の地域でも、近い将来、公共事業や様々な要因による同様の異変を蒙ることになるのかもしれません。最低限、その時にはその異変の原因を考える場合の参考になるかも知れないのです。
決して誇張した表現ではなく、「豊饒の海」などと呼ばれた海は完全な死の海にあと半歩というところまで来ています。ノリの変調はご存知のとおりですが、間違ってもノリだけが有明海の全てではありません。アサリ、タイラギ、カキ、アゲマキといった貝類は劇的に減少し、もはや限られた場所でしか見掛けなくなってしまいました。漁民の糧であった多くの魚の漁獲は目を覆うばかりに減っていますし、六〇年代まではなんの変哲もない付近の川や石積み波止であれほど釣れたハゼが海岸から消え去っています。わずかに小型のワタリガニは獲れているようですが、それは放流が行なわれているからでしょう。ただし、タグを付けて放流されているカニはその多くが有明海の外、島原半島を迂回して千々石湾(橘湾)で捕獲されているという状態です。あたかも、カニが有明海を見捨てているようにも見えるのです。このように海の変調、全体としての「有明海異変」とも呼ぶべきものを話し始めたら尽きることはないのですが、これから徐々にお伝えしていきたいと思っています。
多くは「有明海異変」で系統だって書いているつもりですので、詳しく知りたい方はそちらを読んでいただくことにして、基本的には本とは別にその時の気分で書いていきたいと思います。
@)編集方針について
もちろん憎々しくは思っていますが、例えば「諌早湾干拓事業」(イサカン)を標的にした扇動のために虚偽の「事実」を捏造したり、一方的に「事実」を誇張したりすることは当然ながら拒否します。そのようなものはいずれ馬脚を表してしまうでしょうし、結果として、この「環境問題を考える」というHPの信頼をも損なうことになるでしょう。
一方、多くの多角的な見解も採り入れたいと考えています。同時に多少の戦略的な意味合いもあり、私ばかりではなく、周辺の人々の文書も取り入れ、多角的、複眼的な視野で掲載していきたいと思っています。このため、時として仮名(ペンネーム)での論文を掲載していくこともあるでしょうし、逆に積極的な署名論文や緊急アピールを掲載することもあるでしょう。あるいは、私自身がペンネームを使うことさえもあるかもしれません。基本的には醒めた目で公平な議論を目指していきたいと思います。ただし、私達は大学教授や学会に参加している科学者ではありませんので、多少の誤りはお許し願いたいと思います。明白な誤りがあった場合は当然ながら素直に謝罪するつもりです。
とりあえず、近藤氏がこれまで培われてきた基調と品格を守り、「環境論議」を中心に据えた報告を行っていくつもりです。ただし、多少は私自身の好みといったものもあるため、環境論議といった硬い話ばかりではなく、時として有明海周辺の風俗や生活史それに民俗学的な話も随時挿入していきたいと思っています。
A)ここに至る経緯
では、これらのことを前提に、まずはこのコーナーを預託された経緯をお話します。
私は、以前から槌田敦教授の著書を多少とも読んできました。このため「環境問題を考える」を発見したときは福音(グッドニュース)にも似た驚きを感じました。既に「有明海異変」を出版(北部九州地区を中心とした商業出版)していましたので、敬愛する槌田教授に謹呈いたしました。以後近藤氏と連絡がとれ、No.106で拙著を紹介していただくことになったわけです。その後、私に定期的なリポートの依頼がありましたので、重い腰をあげることにした次第です。(20040126)
2.「有明海」という呼称と帝国海軍水路部
さっそく民俗学的なテーマで驚かれたかもしれませんが、民俗学者の宮本常一に魅了され続けている私には、話を始める以上、どうしても「有明海」という呼称を気にしてしまうのです。 このためとして環境問題、環境論議といったものを期待されている読者には多少の辛抱をお願いしたいと思います。
簡単に言えば「有明海」という呼称は思うほど古いものでもなく、どうやら帝国海軍(ジャパニーズ・エンペアリアル・ネービー)が付けたのではないかといった荒唐無稽な話です。極めてローカルな話になりますがしばらくお付き合い下さい。
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです(もっとも、「この江戸前」にも似た「前海」という表現は、どうやら佐賀県の福富、白石、福富町などの戦後の干拓地域を多く抱え込む新興の地域や太良町などの海洋民的風土の地域ではあまり流通しておらず、柳川市あたりから佐賀市、鹿島市(鍋島支藩)などの武家文化の浸透した地域で使われていたように思うのですが、もちろん詳細に調べているわけではなくよくは分かりません)。ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。
野母崎(ノモザキ、ノモサキ)と千々石湾(チヂワワン、チチワワン)
有明海に帝国海軍の艦隊が入ってきたという話しはあまり聞きませんが(干満が大きく浅い半閉鎖性の海というものは座礁や衝突の危険が極めて高く、艦隊行動にとってはこれほど不向きなものはないのですから当然でしょう)、かつて島原半島の南に位置する千々石湾沖には演習で大艦隊が回航してきたことがありました。この帝国海軍の大演習に際して、日露戦争は「旅順港閉塞」の広瀬中佐(杉野は何処)と並んで有名な、陸軍の軍神「遼陽会戦」の橘周太がここ千々石町の出身地であったことをもって、島原半島の南の千々石湾を橘湾と呼ぶように呼称の変更を行い、ある意味で陸軍にゴマを摺ったのが海軍であったことを考えると、この「有明海」という落下傘的呼称もそのようなものではないかと考えているところです。
長崎から南西方向に長く突き出した半島は野母崎(ノモザキ)と呼ばれていますが、国土地理院の地図では長崎半島とも併記されています。前述した橘湾、千々石(チチワ、チジワ)湾も同様です。とりあえず、橘湾、千々石(チチワ、チジワ)湾の方はそれなりの傍証があるのですが、長崎半島(野母崎)の方は、当面全くの推測です。
明治よりこのかた、このような岬、半島、海峡、海湾さらに細かい話をすれば海底の山(大和堆、武蔵堆)といった呼称を決定してきたのは、海では海軍の水路部でした(陸は陸軍測地部)。当然ながら、彼らは水深、暗礁、干満、潮流、流速、卓越風といったものを調査し艦隊行動に必要な水路情報を開発し蓄積してきたのでした。
海軍はシナ海に面し三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠に近い野母崎を造船所の防衛線として最期の艦隊決戦の要地と考えていたはずです。それでなくとも日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を通過するかどうかを真剣に悩んだのですから、冬場は北西の季節風が遮断される波静かな千々石湾に多くの艦艇を伏せ、野母崎沖で艦隊決戦(空の場合は航空撃滅戦)に臨むとすればこれほど格好の錨地はないのであって(太平洋側では大分県の佐伯湾付近鶴見崎、四浦半島、日本海側では山口県の油谷湾でしょうが)、海軍の大演習は当然といえば当然な話なのです。山口県の油谷湾における海軍大演習の写真が油谷湾温泉のある温泉ホテルに現在も飾られていますが、当時は国威発揚と海軍の威信を大いに拡大せしめる(大量の税金を獲得するための)、国民や地域を巻き込んだビッグイベントであったことでしょう。
さて、話を戻しますが、艦隊決戦に際して岬や半島の呼称は非常に重要であり、「ヒトヒトマルマルノモザキオキデゴウリュウサレタシ」といった伝令(陸軍は通達)において野母崎(ノモサキ、ノモザキ)といった通常現地の人間でなければ読めないような呼称は艦隊行動の間違いの元になりやすく、瞬時を争う艦隊決戦に於いては勝敗を分かつ大問題であったのです。特に海軍の場合は陸軍以上に全国から言葉の違う将兵が数多く乗組んでいるのであって、言葉や呼称は重要事だったのです。このため、水路部は可能な限り誰にでも判る平易な呼称に変えていこうとしていたはずなのです。「簡潔明瞭をモットー(英語のmotto)とするのが帝国海軍の伝統」であったことからしても、大演習に参加していた海軍軍令部(陸軍の場合は参謀本部)の高級参謀あたりから、野母崎や千々石湾などといった通常は正確に読めない呼称をもって「これらの名称は間違いのもとである」「直ちに変更を検討せよ」といった話が出たと想像することはあながち難しいことではないと思うのです。
先に千々石湾の場合は傍証があると書きましたが、「海軍よもやま話」だったか、一昨年の秋口に読んだ本だかにこのことが触れられていたのですが、現在、それがどれであったかを忘失し正確な出典を示せません。仕方がなく友人が橘神社に参拝したいと言った際に随行し(私は無神論者のため参拝は絶対にありえないので)、海上自衛隊(佐世保総監部)派遣の宮司代行にお訊ねしたところ、「それは間違いありません。海軍水路部あたりがやったことではないでしょうか。千々石湾沖の海軍大演習に際して幹部連が橘神社に表敬参拝(筆者の評価ですが併せて千々石湾の呼称の変更を贈り物のように行った)したという神社側の記録や橘家の日記に記録があるようです」との話をお聞き致しました(資料の写しを頂く予定です)。どうやらこれが、千々岩湾と橘湾、野母崎と長崎半島といった二つの呼称が今なお並存している理由のようなのです。
野母崎と長崎半島という呼称の並存については(財)日本地図センター地図相談室長・参事役をされていた山口恵一郎氏が「地名を考える」(NHKブックス)の中で触れておられます。
興味がおありの方は読んで見てください。もちろん山口恵一郎氏は有明海や長崎半島といった呼称が帝国海軍水路部によるものとの指摘はされていません。以下。
「そうして国土地理院の回答、“『長崎半島』採用の理由”として、「野母半島」という呼称があることは事実だ。しかし一方、「長崎半島」という呼称も、明治四十四年発行の山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』第八巻及び古くからの『水路誌』に記されている。つまり…」189p
(20040128)
3.雪が降るとノリが採れる
一月下旬、北部九州は近年にない雪にみまわれました。わが家の庭でも雪を集めて子供用のかまくらが作れたほどでした。それはさておき、一般の人々とは別にこの雪をなによりも喜んだのはノリ漁民だったのかもしれません。こういっても直ぐにはお分かりにならないかもしれませんが、漁民に限らず有明海沿岸に住む人々にはある程度「雪が降るとノリが採れる」ということが経験的に知られているのです。川ノリも冬が旬ですが、ノリは冬場の冷たい海で育ちます。観光地などで売られる岩ノリは養殖ノリと種類が異なりますが、古来荒れる厳冬期の日本海などで漁村の女性が大波に浚われても浚われても危険な磯でノリを摘み続けたのは、いわば波がノリを育てることを知っていたからなのです《拙著「有明海異変」でも日本海側の餘部や出雲大社の北に位置する十六島(ウップルイ)のノリについて触れています。25P》。
雪が多く降るということは、それだけ気温がそして水温が低下(養殖は海の表層で行われるため北風が吹けば吹くほど温度が下がるのです)することを意味しますし、雪は凍った雨ですから雪によって栄養塩が海に供給されノリが育つのです。
一般的にノリは秋から張りこみますが、しばらくして芽が付くとその半分を引き揚げ冷凍し、冬ノリ用に保管します。残されたノリは冷凍網が始まるまで何度か収穫されることになります。それが秋ノリです。北風が吹き出すと冷凍していたノリを再度張り込みます。これが品質も価格も良い主力の冬ノリです。三月いっぱい何度か刈り取られて、こうしてノリのシーズンが終わるのです。ノリが秋から春にかけて採られることからノリ養殖は通常「年度」で考えます。そこで、まず十五年度のノリの概況をお伝えしておきましょう。今年度の有明海北部は秋ノリが全く振るいませんでした。高温によって赤腐病が広がったためです。新聞には『…十月からの高水温など悪条件によって、ノリが溶け落ちる「赤腐れ病」が同県沖(筆者注:佐賀県のこと)のほぼ全域で発生しているためで、最近では大凶作だった二〇〇〇年度の約一億二千万枚を下回り、一九七三年度以降でも最小となる見通し…』「一番ノリ出荷最悪(佐賀沖・有明海全域で赤腐れ病一番ノリ出荷最悪)九〇〇〇万枚昨季から半減の見通し」(〇三年一一月一四日付け西日本新聞)と書かれていました。福岡県でも傾向はほぼ同様です。
これに対して佐賀県のノリの主産地である川副町、諸富町などの冬ノリ(冷凍ノリ)は比較的好調でした。「…秋芽を合わせた計五回の累計の販売額は約百四十億七千万円となり、色落ち被害などで不作だ昨季の総販売額百四十六億円に迫る。次回の入札は二月三日を予定している」「冷凍網ノリ上々(販売額は前年比八一%増)」(〇四年一月二一日付け佐賀新聞)結果的には販売額で冷凍ノリが秋ノリの不作を補ったものですが、有明海北部海域全体としてみれば内実はそお楽観できるものではありません。販売額は単価が関係するためです。他の産地で質と量が確保されなければ価格が高騰するからです。既に一部には一枚八五円という話が鹿島市あたりから聞こえてきますので、質の良いところではホクホクのところも出てくるのです。当然、悪いところも多くあるのです。この間、有明海産ノリの不調をよそに良い思いをしていた兵庫県や岡山県などの瀬戸内海の作況もどうやら今季は良くないようです。身近なところを見れば、小さな産地ですが有明海西岸に位置し、佐賀、長崎の県境に近い鹿島市七浦地区から太良町あたりでは見た目にも色落ちが確認できますし、有明海北部の大産地である福岡県の東部海域の大和町、大牟田市隣接する熊本県北部の荒尾市周辺などで赤腐病が広がり、佐賀県の主産地の好況をよそに福岡県は深刻のようです。ここでも、「県水産海洋技術センター有明海研究所(福岡県柳川市)が三十日発表した海況によると、海水1リットル当りの窒素量はノリの生育に必要とされる量の三分の一しかなく、茶褐色になる中度の色落ちが有明海の福岡県側全漁協の三割、軽度を含めると五割にのぼっている。昨シーズンは一月初旬から一挙に色落ちが広がり、同月末には全漁場の八割で被害を受けた」「ノリの色落ち被害広がる有明」(〇四年一月三一日付け読売新聞)と伝えられています。さらに、佐賀県にいると熊本県などの状況は聞こえてきませんが、珍しくも地元紙の佐賀新聞に熊本県のノリの作柄が掲載されていましたので短い記事ですので全文を紹介しておきます。「色落ち増えノリ値下がり」(熊本で入札会)「熊本県沖の有明海で採れた養殖ノリの第六回入札が七日、熊本市の県漁連で開かれた。県北部のノリに色落ちが増えてきた相場の足を引っ張り、一枚当たりの平均落札価格は八円六五銭で、昨年同期を二一銭下回った。各漁協も収穫が順調に進んでおり、約一億六六千七百万枚が出品された。全国的に品薄感が強まり、色や香りが優れた上位等級のノリには高値が付いた」(〇四年ニ月八日付け佐賀新聞)
ここでは詳しくは触れませんが、ここ数年のノリの作況を考えると、熊本県南部と長崎県島原半島(長崎県のノリ生産は島原市を中心に小規模で絶対量としては大きくありません)は比較的安定しているようです。逆に非常に不安定なのが福岡県、佐賀県それに熊本県北部を中心とする有明海湾奥地域の大産地のようです。この地域では二〇〇〇年から〇一年(〇〇年季)にかけて近年にない大規模な色落ちにみまわれ、漁民が干拓事務所や九州農政局に押しかけました。しかし、翌年の〇一年度は一転した豊作になります。このため、「諌早湾干拓事業はノリの不作とは関係がないじゃないか」とよく引き合いに出されるのですが、事態はそれほど単純ではありません。〇二年度、湾奥東部がまずまずだったのに対して西部(主に六角川以西の佐賀県鹿島市から太良町にかけての地域)にかけては三割から五割という不作でした。そして前述した〇三年度になるのです。どのように考えても諌早湾干拓事業(イサカン)以降、不作の頻度が上がり、ぶれが大きくなってきているように思えるのです。事実上有明海湾奥部のノリ生産はババ抜き状態になったと言えるでしょう。また、採れる人と採れない人との格差が激しくなってきたようです。いずれ、正確な資料にもとづいてここ数年のノリ作柄を報告するとともに、熊本県南部海域ではなぜ安定した生産が可能なのかといったことをお話していきたいと考えています。(20040211)
http://env01.cool.ne.jp/ss02/ss024/ss0242.htm
http://env01.cool.ne.jp/index02.htm