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(回答先: 新しい中長期的なビジョンの策定について(諮問)[色平哲郎]【コモンズから始まる、信州ルネッサンス革命、宇沢弘文氏が座長とは初耳】 投稿者 なるほど 日時 2004 年 2 月 08 日 00:00:11)
○色平哲郎>千曲川・善光寺平に於ける、”畦直し”(地割り慣行)から見たコモンズ論:
以下、コモンズに付帯する「自発的な協力、自生するルール」(金子郁容教授の言葉)に関する友人との討論内容ほかと、私の付けた「ご参考」なる歴史資料二部です
田中信州知事のコモンズ論、21世紀日本社会の変革にあたって(WSFの信州版として?)実に意義深い内容だと感じております ご笑覧くださいますよう 信州・南相木にて いろひら拝
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(ご質問)コモンズとしてすぐに頭に浮かぶのは石垣島白保の自治公民館です。
白保の新空港反対運動は、住民運動でありましたが、それは実質的には公民館運動でした。総会を開いて議論して、そこで議決をして、それをもって地域の意志として表していましたし、運動の財源も公民館の予算をあてていました。そしてその運動は、地域の暮らしを支えてきた海の持続可能性を守りととおすことにありました。
「すなわち、公平な議論の場があること、民主的な議決権が付与されていること、最後に財源があること――が前提となります。」この条件を満たしています。 だからコモンズは存在すると考えます。 「コモンズの悲劇」にはなっていません。
また、身近なところでは千曲川の「割り地慣行」があります。これの維持のされ方をみれば、コモンズと呼べると思いますし、まだ「割り地慣行」を維持している地域もあります。
ぼくはこうした実例から考えていった方がイメージが湧きやすいと思うのです。現存する、あるいは最近まで存続されていた具体例なコモンズ例を示さない限り、コモンズは容易に具体的なイメージとして人々のなかに浮かびあがってくるとは思えません。
コモンズを否定するわけでは当然ありませんが、言葉が先行しても、根を生やしていかないと思うのですが、、、
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(ご回答)あえて理念概念としたのは、昔は良かった、といったノスタルジーに流れることを回避したかったからです
入会慣行の母体となる地域が、新住民を排除したりする現実もありますよね ただ、割り地慣行や入会慣行のコモンズが反基地闘争の拠点となった実例(沖縄、北富士、小繋など)もあるので、こうした現実を手がかりにコモンズを構想することは、とても有意義なことです いろひら拝
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(ご参考) 割り地は、畦直しとも称し、村内限りで内検地を行い、田畑等を割り替えて交換する制度である。
これらのなかには、数年・一〇年・二〇年・五〇年といった一定の期間を定めて定期的に行うものや、とくに期限を定めずに村人からの要請があった時に行うものがあった。
本来は田畑・宅地・薮・荒地・山・河川敷などすべての土地を対象としが、新田や山や荒地に限って行ったものもあり、これらも広い意味での割り地に含めてよいであろう。
この制度の起源は、近世以前の古い共同体的土地慣行に起源をもつという見解もあったが、今日では太閤検地以降のものとされるようになった。すなわち、太閤検地によって村高が決定し、これが、よほどのことがない限りそのまま後世に継承され、年貢諸役などもこの村高を基準に一村単位でかけられ、村内では百姓各人が所持高相応に田畑を配分し、この所持高に応じて一村にかかった年貢諸役を勤めてきた。
しかし村内ではしばしば土地の増減や等級の変化が起っており、長い年月の間には、太閤検地の時には上田であった土地が中田や下田になったり、河川の氾濫や山崩れなどによって土地がなくなってしまうこともあった。こうした村内での所持高と所持地の不均衡をなくすために始まったのが割地である。
割り地制度の前提としては、太閤検地による村請制の確立がある。財政的に逼迫した時期であったから、藩費を節減し、高率の年貢を確保する必要があった。このため寛文八年、福井藩は藩領全域にわたって割り地を命じた。この割り地は上中下など等級の異なる田畑を組み合わせて、原則として村ごとに所持地の均質化を図り、経営能力に見合わない田畑を所持して没落する百姓をなくそうとするものであった。
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(ご参考) 村法は、近世の農民相互間で、共同体的秩序を保つために取り決められる自主的な慣習法ないし成文法である。その成文化されたものを村極・村定・村掟・村法度などと呼んだが、その内容は多岐にわたっている。
生産をめぐっては畦直し(内検・田地割)・用水管理・山林用益・漁場など、生活・社会秩序をめぐっては盗み・博奕・倹約と出精、遊び日・祝祭行事・寄進・紛議への対応など、また近世領主の支配下での公的側面として村役人の選出、村入用・人足の盛割なども村ごとに決められた。そしてこの村極は村人が自主的に決め、自律的に運用するもので、領主は介入しないのが原則であった。
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以上、村法による処罰は村人の総意に反する者、心情を害する者や知縁の取りなしのない者には容赦なく適用され、時には見せしめのためにも投書や鬮引で犯人が仕立てられたが、他方で縁者や村人の取りなし、詫入れがあり、本人の改心が認められると軽減され、内分にして誤り証文だけで済むことがあったことがわかる。そしてそこに、世間にさからわず、村社会に和融して生きることを良しとする封建的な処世のあり方をうかがうことができる。
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地割り慣行は地租改正で消えていくのですが、私の住む川中島の割り地は戦後まで続いていました
当時の名残りで、犀川の河原の畑は「北割」「南割」と今でも呼ばれています
こうした慣行がなぜかこの一帯(長野盆地)だけに残っていたのです
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との友人からの連絡です、以下、長文申し訳ありません、貼り付けました いろひら拝
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―――地割慣行が残されてきた長野盆地は川の恵みとともにあった―――
<民主的制度の地割慣行>
私が暮らしている川中島は犀川とともにあり続けてきた地だ。北アルプスを源とするこの川は滔々と流れ、氾濫を繰り返しながら肥沃な川中島平(犀川扇状地)を形成した。犀川は長野盆地の真ん中を西から東に流れ下り、盆地の東縁を流れる千曲川に合流する。千曲川もまた氾濫を重ね豊かな耕地をもたらした。上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦は、この生産力の高い一帯の争奪戦だったともいわれる。
しかし、安定した収穫をえるためには川を治める必要があった。江戸時代になって、松代藩による治水・利水事業が一気にすすめられた。犀川と千曲川に堤防を築き、平坦地に用水路を開削・整備することで新田が拓かれた。また、荒れて手つかずだった川の近くまで農地を開墾する余裕もでた。
私の家から犀川までは五百メートルほどの距離で、子ども頃はよく遊びに行った。川で泳いだり、河川敷へクワガタ虫を捕まえに出かけた。当時は桑畑が広がっていて、桑の実を食べて口を赤紫色に染めたものだった。しかし、この河川敷の農地が江戸時代に拓かれ、地割慣行という土地共有制度と住民の努力によって維持されてきたなどとは想像もできなかった。
河川敷の畑は「南割(みなみわり)」「北割(きたわり)」と呼ばれている。東西に流れる犀川に平行して、河川敷の真ん中に1本の細い道があり、この道の堤防側が南割、河川側が北割である。畑はどれも川に垂直となる細長い短冊型をしている。昭和三一年までここは川中島町四ツ屋区(江戸時代は四ツ屋村)の農家の共有地だった。各農家の土地は何枚かに分かれ、片方の割に偏ることなく、両割に均等に割り振られていた。
洪水ともなれば、農地を浸食する「川欠(かわかけ)」がおこる。川欠が生じやすいのは川に沿った農地である。川に垂直な細長い農地にしておくと、どこか特定の家の畑に被害が集中せずに分散できる。また、川寄りの北割よりも南割の方が安全度は高い。短冊型農地は、土地の滅失対策という地割慣行の一面を表しているのである。「割」のつく畑地名は、地割慣行の名残りなのだ。私の家の畑はいまも両割に分かれてある。
川は農家に損害を与えるだけではない。氾濫すれば、新しい肥沃な堆積地をつくる。これを「起返(おきがえり)」という。ここを開墾すれば地力の優れた農地が得られる。こうした川の恩恵を住民同士で分かち合うのが、地割慣行という制度のもう一つの側面である。
小さく分割した農地を住民で共有し、川欠がひどい場合には残った土地を割りなおし、起返の土地ができれば新たに分割をしたりする。また各々の持ち分に肥えた土地と痩せた土地の偏りをなくすために、何年ごとかにくじ引きなどによる割替を行う。人為で制御できない自然の働きを、住民が不公平なく受け入れていくシステムである。地割慣行は自然と共存しながら共同体を維持する見事な知恵といえよう。
千曲川の河川敷でも、川中島と同じような幾何学的な美しい農地風景がよく見られる。もちろん地割慣行の証だ。犀川と千曲川の沿岸地域では、地区によってさまざなルールがつくられ地割慣行が運用されてきた。江戸時代には地割慣行が全国各地に存在していたが、明治五年の地租改正によって共有地所有が原則的に禁止され、ほとんどの地割慣行は消滅していったとされる。それにもかかわらず、この制度を戦後まで続けてきた地区が長野盆地には密集し、地理学や農村社会学で全国的に注目されてきた。いまなお、千曲川沿いには地割慣行が残っている。なぜかこの一帯だけに。
<共有地を守る住民の努力>
川中島の郷土史家・池田三夫さん(本年五月八六歳で逝く)の「四ツ屋村(長野市川中島町)における地割慣行」(『長野』132号)によれば、川中島の地割のはじまりは江戸時代前期の一六六九年とされている。この年、四ツ屋村は大水害に見舞われた。特に川欠による被害を大きく受けた十四人を救済するため、藩が代替地を与えたのである。一六八八年には新たに四十一人の共有地が設けられ、一七〇九年になって割替を川欠が生じた場合に行うとの申し合せができた。ここで地割慣行が制度化されたことになる。その後、割替は川欠がなくとも7年ごと、20年ごとに実施すると変更されていき、明治5年の地租改正に至るのである。
地租改正を受けて、四ツ屋村も地割慣行地の約半分を個人持ちへと変更した。だが、残り半分にあたる堤外地の水害常襲地帯は共有地のままだった。明治・大正時代には隣村との合併が二度あり、大正時代の河川法の改正で割地の一部が河川地に無償編入されたりもしたが、割地は旧四ツ屋村の農民の共有地として維持されていった。大正9年には、起返によって生じた土地を地割慣行地として繰り入れ、新規権利者を含めた割り当てをしている。これが大正九年割とよばれ、最後の地割となった。
次の大きな節目は戦後の農地解放だった。地割地は解放の対象にしないという特例があったが、「四ツ屋の場合、実際に割替が行われていないから地割ではない」とする意見があったという。それでも地元代表の農業委員が意見を押し通し、結局は特例が認めらて共有地の権利は守られた。しかし、昭和三一年に三度目の合併して川中島町となったのを期に、割地の払い下げを行い、ここで四ツ屋村の地割慣行は歴史の幕を閉じた。
それにしても、いくたびかの制度改革や合併をくぐり抜け、四ツ屋村は共有地を維持されてきた。なぜなのか。その理由について、池田さんは前掲の論文で触れ、「共有地権利を保全するために払われた住民の異常なまでの努力は本論で見たが、共有地保全は地区住民の義務で、それは全期を通じて築堤、植林、水防活動となって表れている」とする。共有地を守るために、住民が共に力を合わせ続けてきたのだ。
江戸時代後期、善光寺大地震の影響によって堤防が決壊し、川中島平一帯が大水害をこうむった後、再び国役堤防が建設される。このときに、洪水の水流を弱める役割をはたす石積みの水制(地元では亀と呼んでいた)もつくられた。実際には時代差があって築られたのだろう七つの水制があって、すでに撤去されたものあるが、いくつかは現存している。いまは上に土が盛られ、軽トラックが通れる程度の道として利用されている。そのなかには住民自身が積んだものもあれば、修復を重ねてもきたのだろう。こうして地割慣行地を維持してくるは並み大抵の努力ではなかったはずだ。また、他の地割慣行地でも同じように水防に取り組んできたいことが伝えられている。特定の業者が莫大な建設費をかっさらっていくだけの現在の公共事業とはわけが違う。
<なぜ地割慣行が維持されてきたのか>
千曲川は犀川よりも洪水の頻度が高かった。江戸時代から明治にかけて平均十年に一度ほど大水害が発生した。家屋が押し流され、数多くの人命も奪われている。小さな洪水ならば数年に一度は繰り返された。しかしなお、人々はこの地から離れず、川に抱きつきしがみつくよう暮らしてきた。それは、降水量が千ミリ前後の寡雨地帯である長野盆地において、
豊かな川の水は天の恵みであり、「花泥」と呼ばれる、川が運んでくる肥沃な土壌は自然の宝だったからに違いない。
洪水の危険性を避けようとするならば、川から離れた山際に暮らす方が得策であるはずだ。しかし例えば、千曲川から四キロほど離れた更埴市森地区ではこう言われるそうである。「鍬でさくると火がでる」と。それだけ石が多く、痩せた土地という意味だ。逆に千曲川沿岸の集落で森からもっとも近い雨宮地区の土地の豊かさを、「御神事のお鍬で百姓できる」と森では表現する。御神事とは雨宮の神社の祭りで、お鍬とは祭りの踊りに使う木製の鍬をいう。かつて森から雨宮に移り住んだ人も多いと聞く。
また、川は農業だけなく暮らし全般を支えた。千曲川の下流にダムができる昭和初期までは、千曲川にも犀川にもサケが遡上してきた。また四ツ屋は山が遠いので、洪水のたびに流れてくる木を拾いにでかけ、用材や薪として利用した。この「川木拾い」も戦後までは日常の風景だったようだ。
四ツ屋の地割慣行地の水制について教えてくれたのは、私の家の近所の古老、山本良尚さん(八九歳)だった。山本さんは農地解放のときに農業委員を務めており、共有地の権利を主張したその人である。「地割慣行があったことは知っていたが、詳しくはわからなかった。それでも共有地を守るための理由として地割慣行をもちだして説得した。屁理屈であっても押し通さなくはいけないときがある。村のためなのだから」と、山本さんは語る。
また、「余談だが」と断り、「いまの田中県知事はご都合主義のところがある。でも、物事を進めるときはそれも必要だと思うさな」とも笑いながら話すのだった。 私はこの原稿を書くために、亡くなった池田さんの書斎を訪ね、地割慣行に関するノートを読ませていただいた。そのノートには古文書や文献の内容がぎっしりと書き写されていた。そして、割地制度の説明文のそばに、赤ボールペンで「民主的制度」と書き添えられいた。さらに、二冊目のノートの最終ページには自分の思いを綴った文章があり、「損とか得とか、権利とか義務とかいう寒々した言葉で表現されるものでない、ほのぼのとした暖かい心と心を結ぶ糸でつながれた共同連帯の社会が、むらには欲しい」と結ばれていた。熱い思いが伝わる。
山本さんと池田さんに共通するのは、私利私欲ではなく、地域に対して尽くそうという生き方である。政治家でも村の特別な有力者でもなく、しかし村という共同体のために力を発揮した、このような先人がいつの時代にもいたのだろう。地割慣行は自然条件の特性だけ成り立ってきたのではなく、これを持続させようという住民の強い意志があったこそ三百年にわたって維持できたに違いない。お上任せではない、住民自治の姿が地割慣行に映し出されるのだ。>
http://members.jcom.home.ne.jp/pinuskoraie/0305.htm